Roger Corman:The King of The "B" Movies 特集:B級映画の帝王ロジャー・コーマン(1926-) ■現代アメリカ映画の巨匠たち、コッポラ、スコセッシ、デミらがまだ若き学生映画作家だった時代にチャンスを与える一方、50年代から60年代にかけて自らも監督としてホラー映画、バイカー映画など低予算で映画を作り続け、著書「私はいかにハリウッドで100本の映画を作り、しかも10セントも損をしなかったか」で知られ”B級映画の帝王”と呼ばれたロジャー・コーマン! ■ロジャー・ウィリアム・コーマンは1926年にデトロイトのエンジニアの長男として生まれた。18ヶ月後には弟のジーンが誕生し、少年時代はデトロイトで過ごした。ハイスクール入学時には一家がカリフィルニアに引っ越し、ビバリー・ヒルズに住んだ。数学、物理、化学を勉強し、一方で身長が高かったのでバスケットボールでも活躍。新聞を良く読み、スピーチも得意でラジオスピーチ、番組も制作、戯曲まで書いた。17才でスタンフォード大学で電子工学を学び、学校新聞の編集もした。しかし映画の仕事につこうと実家に戻り、父の友人の紹介でフォックスのメッセンジャーボーイ、そして脚本部に入り、ストーリー・アナリストとなったがすぐに辞めて、脚本を書こうと文学を勉強するためにオックスフォード大学に入学、パリにも滞在し、一年を過ごした。お金が無くなり、帰国。スターの代理会社やTV局の助手などを勤める。友人書いていた脚本「湖中の女」がアライド・アーチストで映画化されることになり、制作助手を務めてこの時に、製作補佐としても付き映画製作のノウハウを収得。映画は当時ヒットしていたテレビドラマの題名をもじった「ハイウェイ・ドラグネット」として完成しヒットした。貰ったお金に友人達からの借金を加えて10000ドルを元手にプロダクションを作る。こうして最初に製作したのが「海底からの怪物」であった。