NV直前、フェリーニ、アントニオーニと新しい風 ■プレNV(ヌーヴェルヴァーグ)とも言える50年代末の映画群。物語だけでなく新たな映像表現と複雑なキャラクターが誕生する! 1950年代半ばにフランスではヌーヴェルヴァーグが芽吹き始める。トリュフォー、ゴダール、シャブロル、リヴェット、ロメールらは「カイエ・ドゥ・シネマ」の編集長となった批評家アンドレ・バザンの許に集い、批評活動をはじめ、毎夜のようにアンリ・ラングロワの「シネマテーク・フランセーズ」に通って、サイレント映画やアメリカ映画を発見し、フランス映画をの批判を強めた。一方バザンは戦後のイタリア映画の「ネオ・レアレスモ」、特にロッセリーニを高く評価し、編集の映画よりもワンシーン=ワン・カット理論とともに新たな映画論を展開する。むろん若きゴダールたちも影響を受け、虎視眈々と自分が映画を撮る日を待っていた。そんな時期にアメリカではニコラス・レイが『夜の人々(They Live By Night)』を撮り『理由なき反抗』に至るなかで、それまでの礼儀正しいアメリカの若者ではなく、反逆者する若者像を描く。ゴダールらはまさにハリウッドで闘う映画作家ニコラス・レイを発見したのである。一方イタリアでは「ネオ・レアレスモ」は50年代半ば戦後の終わりとともに勢いも消えつつあった。そして再生された現代都市のローマでロッセリーニの助監督だったフェリーニは貧者を描いた『道』の路線からきらびやかな映画都市ローマと現在、そして自分自身の内省の世界を作り始めた。この内省的な世界観を映画の表徴にぶつけるという方法は、アントニオーニもまた異なった方法で始めたのである。こうして映画は50年代後半になってサイレント時代から続いた「映画=運動」、つまりアクションによって物語を語る方法から、より微細な「映画=時間」あるいは空間によって人間の内省を描くものへと変質しつつあった。こうして60年代の斬新な映画の誕生前夜となったのである。
「エヴァグレイズを渡る風」Wind Across the Everglades 1958/USA/93min ワーナーブラザーズ配給 シュルバーグ作品 監督●ニコラス・レイ 製作・脚本●バッド・シュルバーグ 撮影●ジョセフ・ブラン 美術●リチャード・シルバート 編集●ジョルジュ・クロッツ、ジョセフ・ジグマン 衣装●フランク・F・トンプソン メイク●ロバート・ジラス ヘアスタイリスト●ウィリス・ハンチェット 録音●アーネスト・ザトースキー 音楽●ワーナーブラザーズ・ミュージック・ライブラリー 主演●クリストファー・プラマー(ウォルト・マードック)、 バール・アイヴス(コットンマウス)、 ジプシー・ローズ・リー(Mrs.ブラッドフォード)、 ジョージ・ヴォスコヴェック(アーロン・ネイタイソン)、 トニー・ガレント(ビーフ)、 ハワード・I・スミス(ジョージ・レゲット)、 エメット・ケリー(ビガミー・ボブ)、 パット・ヘニング(ソーダスト)、 ハン・エデン(ナオミ)、 マッキンレー・カンター(ハリス判事)、 カート・コンウェイ(パーフェッサー)、 ピーター・フォーク(ライター)、 ■ハリウッドで新しい若者像を生み出したレイを奈落の底に陥れた問題作にして再評価された傑作!ニューオリンズの湿地帯で『地獄の黙示録』とフェリーニが遭遇したような奇跡。 ■フロリダの有名な湿地帯エヴァグレイズを舞台に鳥の密猟者と赴任した鳥類保護の教師闘い製作者のシュルバーグとレイが対立した。カントリー歌手のバール・アイブスそして世界的に知られるストリッパーのジプシー・ローズ・リーに加え脇役にはピーター・フォークも顔を見せる。 ※日本語字幕なし 別紙物語解説参照。 ニコラス・レイ/Nicholas Ray1911-1980 ■1911年8月7日にウィスコンシン州、ラクロスに生まれたレイモンド・ニコラス・キーンズル(ニコラス・レイ)はシカゴ大学の建築科を卒業後、フランク・ロイド・ライト建築協会の研究員となり建築をはじめ彫刻や演劇を研究した。第二次世界大戦が始まると戦時情報局に務めたのをきっかけに除隊後はCBSラジオのライター、ディレクター、そしてジョン・ハウズマンの舞台助手からニューヨークの演劇界に入った。この時アクターズ・スタジオのメソッド演技やスタニスラフスキーなどの演劇術を身につけエリア・カザン、ジョセフ・ロージーら後にレッド・パージ(赤狩り)で被害にあう演劇人らとも交流を持ち、先にハリウッドに渡ったエリア・カザンの長編第一作の助監督としてハリウッドにやってくる。RKOと契約し『夜の人々』(後にロバート・アルトマンによって『ボウイ&キーチ』としてリメイクされた)を最初に高い評価を受け、ハンフリー・ボガートの独立プロ、サンタナ・プロで『暗黒への転落』を撮った。ボギーとの関係はこの後『孤独な場所で』にもつながるが、この頃RKOではレッド・パージの風が吹きだし多くの監督が被害を受けはじめる。しかしこの頃ハワード・ヒューズが独立プロを興し映画会社買収に乗りだした。)ヒューズとの交流のあったレイは彼によって保護されたと言われている。その後ジョン・ウェイン主演の大作『太平洋航空作戦』とロバート・ライアン主演のフィルム・ノアール『危険な場所で』そして『ラスティ・メン』を最後にRKOを離れる。フリーになったレイはジョーン・クロフォード主演の西部劇『大砂塵』をリパブリックで撮り、これがヨーロッパでの評価を高めた。『追われる男』ではジェームス・キャグニーと、すでに『暗黒への転落』で起用した若手ジョン・デレクを競演させた。レイの映画には父の世代に対する若者の反逆と孤立がたえず漂っており、その決定打として既にエリア・カザンの『エデンの東』に主演していた反逆児ジェームス・ディーンを主役に『理由なき反抗』を撮ることになる。これがジェームス・ディーンの死とともに大ヒット、レイの名を高める。続く『無法の王者ジェシー・ジェームス』では売り出し中の若手スター、ロバート・ワグナーとジェフリー・ハンターを主役に反逆青春監督として扱われるが一方ではその即興的な演出から既製の脚本からはずれる為、脚本家やプロデューサーとの対立も深く、『にがい勝利』での決裂、そして『エヴァーグレイスを渡る風』の後MGMで『暗黒街の女』を最後にハリウッドを離れる。50年代後半に、ハリウッドでは人件費の増大と海外に焦げ付いた金を消化するため海外での映画製作が盛んになる。サミュエル・フラーが日本で撮った『東京暗黒街・竹の家』'55あたりからアンソニー・マンがイタリアで撮った大作『ローマ帝国の崩壊』'60、ロバート・アルドリッチの『ソドムとゴモラ』'61までこう言った作品はランナウェイ方式と呼ばれたが、レイもその流れに乗って、『バレン』'60から『キング・オブ・キングス』'61『北京の55日』'63を撮ることになった。こういった大作はマンやレイらを疲労させ、赤狩りとともに'50年代作家たちの不幸として未だに語り継がれている。しかしレイのすさまじい気力はニューヨークに帰還してからも続いていた。'70年代には大学の映画学科で教鞭をとりながら)も自主制作(インディーズ)映画作家として復活する。『We Can't go Home Agein』とはなんとレイらしいタイトルだろう。そしてオランダでの『湿った夢』の部分演出から、自身の「死」を撮ったウェンダースとの共同演出『ニックス・ムービー/水上の稲妻』で1979年にその生涯を終えたのである。