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PLANET Masters Collectionコミュの溝口からヌーヴェルヴァーグへ!

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溝口健二とその時代-2《表現主義と傾向映画》
★溝口は1923年日活向島撮影所で処女作『愛に甦る日』を撮ってから同年には10本の作品を発表し、関東大震災後日活京都に移ってからは'24年に9本、'25年にも9本、そして'26年には6本、'27年からは作品数は2〜3本と減るものの日活現代劇、入江プロ、新興映画と各社転々としながら充実した仕事ぶりをみせる。しかしこの時代の現存するフィルムは少なく『瀧の白糸』と『折鶴お千』以降の作品となる。つまり初期50本余りの作品が失われたフィルムということになる。中でも近年、注目されているのが『血と霊』など《ドイツ表現主義》の影響下で撮られた作品であり、その影響は後の30年代の作品にも光と影を強調した撮影技術に残される。『カリガリ博士』は1921年4月に横浜で「眠る男」の題名で公開されていたが、同年5月に「カリガリ博士」として浅草で公開され、特に映画に関わりはじめていた作家・谷崎潤一郎は大きな影響を受け、特異な探偵小説・犯罪小説を書くようにもなった。他にも竹久夢二、そして「表現主義」そのものを日本に紹介した音楽家・山田耕作らもいたが、こうしたブームの中で1923年に日本版表現派映画として新人の溝口が『血と霊』を撮ることになったのである。『血と霊』のフィルムは失われており現在我々が目にすることは出来ないが、この《表現主義》の光と影の世界が、20〜30年代の日本の映画や文学などに落とした影響は1923年の「関東大震災」の悪夢もあいまって拡がりを見せた。今回は『カリガリ博士』から始まったドイツ映画黄金時代の巨匠F.W.ムルナウから溝口健二への影響を再確認しよう。

「折鶴お千」1935/Japan/95min(サウンド版) 第一映画 
 監督●溝口健二 原作●泉鏡花  脚本●高島達之助  撮影●三木稔(滋人) 美術●小栗美二 
 出演●山田五十鈴、夏川大二郎、芳沢一郎、羅門光三郎、芝田新、藤井源市、滝沢静子
■『折鶴お千』は第一映画時代の第一作であり、脚本家依田義賢と出会う前の、泉鏡花原作ものでは2本目にあたる所謂「明治もの」が完成をみた最初の作品である。ムルナウやシュトロハイムの影響下にあり、(実際'28年の『娘可愛や』はムルナウの『最後の人』('24)の翻案であったと言う)。ファースト・シーンの驚くべき照明は唸るしかない。そしてドイツ表現主義からハリウッドでも成功した巨匠ムルナウとの比較しても劣らない技量があるだろう。まさに表現主義×新派劇 明治と大正モダンの混合から独自の映画を生み出したのだ。

A《表現主義と日本映画》
★美術における表現主義運動は、印象派や自然主義にあきたらない画家たちが、より強い内面の自己表出を求めて、ドレスデンで1905年に結成した集団「ディ・ブリュッケ(橋)」に遡り、そのメンバーはキルヒナー、ヘッケル、ロットルフらによって代表される。その後1911年に、ミュンヘンにおいて抽象派画家カンディンスキーやクレーが「ブラウェ・ライター(青騎士)」を結成し、これら新しい傾向の作家が結集して「デア・シュトゥルム(嵐)」という展覧会を開催。こうして表現主義は文学や演劇の世界にも派生していった。しかし第一次大戦が始まりドイツが敗戦すると、ベルリンでは「十一月グループ」が、ドレスデンでは「ドレスデン分離派」ミュンヘンでは「新分離派」デュセルドルフでは「若きラインラント」が結成され、運動はより政治的で過激な方向へ向かった。こうした表現主義のスタイルを映画に取り入れたのはプロデユーサーのエーリッヒ・ポマーであった。ハンス・ヤノウィッツとカール・マイヤーが第1次世界大戦や殺伐とした殺人事件、そして催眠術ブームなどから発想した物語を表現主義風に作る。これが『カリガリ博士』であり以後カリガリズム映画が製作されるようになる。カール・マイヤーとハンス・ヤノウィッツは表現主義映画を代表する脚本家となった。カール・マイヤーが表現主義映画とカンマーシュピール映画の、つまり20年代のドイツ映画の黄金時代の最も重要な人物であることは『カリガリ博士』『ゲニーネ』『フォーゲレート城』『破片』『裏階段(梯子)』『除夜の悲劇』『最後の人』『タルチョフ』『伯林・大都会交響楽』といった作品歴をあげるだけで十分だ。マイヤーがいなければムルナウが巨匠としてのキャリアを持てたかどうかという疑問も浮かぶ。それは溝口健二にとっての依田義賢以上であっただろう。

「カリガリ博士」Das Kabinett des Doktor Caligari 1919/Germany/50min
 製作●デクラ映画  監督●ロベルト・ヴィーネ
脚本●カール・マイヤー、ハンス・ヤノヴィッツ 撮影●ヴィリー・ハーマイスター 
 美術●ヴァルター・レーニッヒ、ヴァルター・ライマン、ヘルマン・ヴァルム 
 出演●ヴェルナー・クラウス(カリガリ)、コンラート・ファイト(チェーザレ)、
リル・ダーゴヴァー(ジェーン)、フリードリヒ・フェーエル(フランシス)、
ハンス・ハインリヒ・フォン・トゥヴァルドフスキー(アラン)、ルードルフ・レッティンガー(医師)
■プラハ生まれのチェコスロヴァキア人ハンス・ヤノヴィッツは第一次大戦前、ハンブルグの見世物小屋や遊技場の密集した盛り場で平凡な小市民風の男が女を殺すのを目撃する。その後、大戦に動員され多くの死を目撃した。一方、オーストリアのグラーツでうまれたカール・マイヤーは賭博狂の父の自殺死後、放浪し、演劇批評も書くが同じく大戦に動員され精神異常に陥り、病棟で精神科医の冷酷な治療をうける。戦後この二人が出会いベルリンで催眠術師の見世物を見たのに触発されストーリーを書き上げた。精神科医と殺人者の複合体、その名を「カリガリ」と名付ける。ところで、戦前より映画界にいたエーリッヒ・ポマーは戦後ベルリンでデクラ社の総支配人兼プロデューサーに収まりこのストーリーに目を付ける。ポマーは友人の押絵画家で「デア・シュトゥルム(嵐)」のメンバーでもあったヴァルター・レーニッヒ、ヴァルター・ライマン、ヘルマン・ヴァルムに表現主義風のスケッチを書かせ、監督をフリッツ・ラングに持ちかけるがヒット作『蜘蛛』の第二部に取りかかるために断わったためロベルト・ヴィーネが監督にあたる。作品の前半と後半に付く夢落ちのシーンはラングのアイディアだとする説とポマーによって「解りやすく」するために付けられたという説があるがいずれにせよこの第三者によって語られる手法は怪奇/ホラーでよく使われることになる。加えてこの映画はマッドドクターものの原型でもある。脚本のマイヤーは後にムルナウと組み、ともにアメリカで『サンライズ』を作る。

「闇の手品」1927/Japan/35min 製作●神戸本庄映画研究所
脚色・監督●鈴木重吉(小林一雄) 原作●八木祐鳳 撮影●酒井健三(岩下康一) 
出演●三田村次郎、原みち子、西森正二朗、長谷川栄二朗
■鈴木重吉は傾向映画の傑作でかつてロシアで発見され修復された『何が彼女をそうさせたか』を撮ったことで知られるがそれ以前には優れたドキュメンタリーの監督であり写真家でもあった。本作の暗いムードとコントラストの強い撮影と無気味な登場人物は十分にドイツ表現主義の影響が見られる。神戸にあった本状撮影所の作品。芦屋から神戸にかけては京都が時代劇においてメッカであったように当時現代劇のメッカであり、多くの撮影所があったことは今では忘れられている。※プラネット映画資料図書館が一昨年発掘した作品。
■雨の降る夜をさまようお金に困った一家の一人息子は、見知らぬ男にお金を預けられる。着服の誘惑に駆られる少年に「闇は手品を見せる」。

B《傾向映画と現代劇》
★1920年代後半〜30年代初頭(大正末期から昭和初期)にかけてはいわゆる「傾向映画」の時代でもあった。左翼的な思想を盛り込んだ傾向映画はまず時代劇において現われた。伊藤大輔の伊藤大輔の『忠治旅日記』'27『斬人斬馬剣』『一殺多生剣』などの作品に顕著なように、それは封建的な権力者に立ち上がる農民一揆や浪人達の反乱となって表現された。また現代劇においては資本家に対立する労働者階級の闘争や搾取され転落するヒロインをセンセーショナルに描いたりすることによって映画作家たちは社会に眼を向けた。このような時期に内田吐夢は先陣を切って傾向映画の代表作『生ける人形』(1929)を、そして続いて『喜劇・汗』を発表したのである。
「喜劇・汗」1930/Japan/50min 日活太秦(現代劇部) 監督●内田吐夢
 原作・脚本●小林正 撮影●松澤又男 装置●池田延治郎 字幕●二豊久
 出演●島耕二(北山平左エ門)、吉井康(源兵衛/家老)、土井平太郎 赤星黙 村田宏壽(仙太/親方)、
田村邦男(チョロ竹)、沖悦二(金造)、滝花久子(お静/金造娘)田中春男(運転手)
■搾取する側のブルジョワをアイロニカルに喜劇的に描くことを意図して製作された『汗』は、享楽的な生活に退屈した金持ちのドラ息子がある偶然からルンペンに服を取り替えられ、労働者となって汗を流して何かを得るというストーリーである。政治的な主題を持った映画だが、その表現の細部をとってみると喜劇映画作家としての才知に溢れている。モダンな内田作品はあまり残っていないのが残念である。
C《新派と日本の悲劇》
■20年代の日本映画界、特に松竹や日活では栗原トーマスや、ヘンリー小谷をはじめ、アメリカからの技術を輸入しその近代化に積極的に取り組んでいた。1920年代という日本映画にとってのモダニズムの時代は、女優の不在や弁士の優位、歌舞伎・講談の強い影響といった日本映画固有の特殊な事情からの脱却の20年間であり、モダニズム化=アメリカ・ヨーロッパ化の歴史だった。このような大急ぎの近代化によって、来る30年代は日本映画の黄金時代を迎えることになるのだ。松竹そして日活も女優を使って映画を作るようになった。こうした映画の題材は明治の文豪の文芸メロドラマが多かったがこれらは舞台では新劇とよばれれ、新派とも言われる。これは歌舞伎=旧劇に対する言葉であり、新劇では当然「女優」が誕生したのである。ここにきて日本映画はようやく現実に存在する「女性」を映画に取り入れるのである。日活は松竹よりも古くから映画を製作していたがそのほとんどは旧劇であり新劇でも女形を使っていた。しかし松竹蒲田の現代劇が出てくると徐々に新派に向かい、新派の女形だった衣笠貞之助らが日活向島で監督として20年にデビュー、松竹の村田実が移ってきたこともあって現代劇が増え始める。1923年の関東大震災以後は関西の大将軍が中心となった。日活でデビューした溝口健二も初期の数本では女形を使っていたが、やがて女優を使って新派メロドラマを撮るようになり才能を発揮しはじめるのである。

「不如帰(ホトトギス)」1922/8巻/松竹蒲田
 監督・脚本●池田義信(義臣) 原作●徳富蘆花 撮影●水谷文次郎
 出演●栗島すみ子、岩田祐吉、関根達発、中川芳江、岡島艶子、五月信子、東栄子、
鈴木歌子 花川環 野寺正一 柳さく子、正邦宏 諸口十九
■大スター栗島すみ子の夫としても知られる初期松竹現代劇の代表的監督である池田義信(1892生)は野村芳亭のもとで脚本執筆や助監督を修行した。彼の監督作品のほとんどが当時の看板スター岩田祐吉と栗島すみ子共演のメロドラマだった。また池田の弟子筋には清水宏や成瀬巳喜男らがいる。これは有名な徳富蘆花の原作映画化で、以後も何度か映画化されている。 ※本編での監督タイトルの表記は後に過って修復されたものです。

「祇園小唄絵日傘 第一話 舞の袖」1930/Japan/40min(オリジナル5巻) 
マキノプロ御室 監督●金森万象 監督補●吉田信三 脚色●東艸之介 
原作●長田幹彦 撮影●松浦茂 撮影補●酒井佐一郎 作詞●長田幹彦 作曲●佐々紅華 
舞台●長尾激、小谷角太郎 背景●水野隆三 配光●広石常雄、藤林まさる 
振付●若柳吉兵衛 現像●丹羽重夫 焼付●奥田勝巳 スチル●松浦康雄 
衣裳●前山宗一郎 結髪●大久保なほ代、都賀かつ 
字幕●岡本一鳳 後援●高島屋 飯田信三郎 山田介軒
賛助●京都祇園新地 甲部歌舞伎会 一力( 松浦治郎右衛門)、祇甲師匠(哥沢芝寿太夫) 
主演●秋田伸一(石井修)、桜木梅子(舞妓千賀勇)、東條猛(藤兵衛はん)、三保裕子(西村家女将)、
   隅田ます代(吉喜久女将)、浦路輝子(芸妓おまさ)、住の江田鶴子(求女)、都賀静子(橘姫)、
■マキノを代表する金森万象が祇園を舞台に撮った「小唄映画」はサイレント時代のミュージカルメロドラマ。ロケーション撮影も活かし祇園を舞台に悲劇が展開する。金森万象は1893年に京都生まれ。雑誌社の取材で日活京都撮影所を訪れ牧野省三の知己を得て、カメラマン、助監督、秘書の三役をつとめ、1919年正式な日活社員となる、同年牧野が独立して「ミカド商会」を設立すると直ちに監督を命じられ「処女会表彰式」という記録映画を撮影した。その後マキノ映画の大衆路線の活劇、純愛ものを数多く製作。脚本家・寿々喜多呂九平とのコンビでマキノ黄金時代を築いた。金森の後には、後藤岱山、仁科熊彦、二川文太郎、井上金太郎らが輩出した。時代的には大正の末年から昭和初頭にかけてがマキノ映画の華やかな時期であった。しかし1929年牧野省三死後、マキノ映画は没落してゆく。起死回生の大ヒットとなった「祇園小唄絵日傘」三部作も流行歌の祇園小唄のメロディのみを残しマキノの没落をささえることは出来なかった。
※第二話『祇園小唄絵日傘 第二話 狸大尽』は 沢村国太郎、浅間昇子、小金井勝らを主演にほぼ同時に同じスタッフで製作され1930年2月28日に新宿劇場で同時公開された。

「サンライズ」1927/U.S.A./96min フォックス社 
製作●ウィリアム・フォックス 監督●フランク(F・W)・ムルナウ 
原作●ヘルマン・ズーデルマン「ティルジットへの旅」 脚色●カール・マイヤー
助監督●ハーマン・ビング 撮影●チャールズ・ロッシャー、カール・ストルス 
撮影助手●ハル・カーニー、スチュアート・トンプソン 美術●ロフス・グリーゼ 
美術助手●エドガー・G・ウルマー、アルフレッド・メッチャー
編集●カスリーン・ヒリカー、H・H・コールドウェル (サウンド版)
出演●ジョージ・オブライエン(男)、ジャネット・ゲイナー(その妻)、
マーガレット・リヴィングストン(都会から来た女)、ボディ・ロージング(女中)、
J・ファーレル・マクドナルド(写真家)、ラルフ・シッパーリ(理髪師)、
ジェーン・ウィントン(マニキュア娘)、アーサー・ハウスマン(出しゃばりの紳士)、
エディ・ホーランド(よく世話をする紳士)、サリ・アイラーズ、ジーノ・コラード、
バリ・ノートン、ロバート・コートマン
■1888年12月28日にヴェストファリアのビューレファルトに生まれたフリードリッヒ・ウィルヘルム・ムルナウは、12歳でショーペンハウエル、イプセン、ニーチェ、ドストエフスキー、シェークスピアを読破した。ハイデルベルグ大学で美術史と文学を学び哲学の博士号を取った。演劇を志し当時のドイツ演劇界の中心マックス・ラインハルトの下で俳優となる。1917年にヨーロッパ最大の映画会社ウーファUFA社が誕生したが、1918年ドイツは第1次世界大戦に敗戦する。戦後には映画に乗り出すためにムルナウは俳優コンラード・ファイトとともにムルナウ=ファイト映画社を設立。1919年に第1作『青衣の少年』を監督した。この脚本は後に『カリガリ博士』を書くハンス・ヤノウィッツだった。1920年『せむしと踊り子』は『カリガリ博士』のもう一人脚本家カール・マイヤーとのコンビ第1作。以後ムルナウはヤノウィッツとマイヤーと交互にコンビを組む。そして1921年の『吸血鬼ノスフェラトゥ』が大ヒットし後に世界的に認識された最初の怪奇映画(ホラー)となる。1924年の『最後の人』でムルナウはフリッツ・ラングとともにドイツ映画黄金時代を代表する監督となった。1925年ドイツの経済危機でウーファ社が傾くとハリウッドの映画会社はその世界戦略からドイツ映画界からの有能なスタッフの引き抜きを兼ねてパルファメット協定を結ぶ。これが後にスタンバーグらが『嘆きの天使』をパラマウントの共同で作ることになるのである。ルビッチはすでに23年にアメリカに渡っていたが、ムルナウも『最後の人』の後フォックス社からハリウッドに招かれる。
■『ファウスト』'26を最後にドイツを離れフォックス社の要請でハリウッド入りした第1作。ハリウッドでの作品であるがムルナウは慎重に企画をすすめた。脚本のカール・マイヤー以下主要スタッフは全てドイツ人で固め(美術助手でエドガー・G・ウルマーが参加)フォックスが売り出すスター、ジョージ・オブライエンとジャネット・ゲイナーが演じるのもドイツ人で舞台はドイツという設定である。ジャネット・ゲイナーは本作と同年にフランク・ボザーギの『第七天国』にも主演しチャールズ・ファレルとのコンビで売り出す。次年には同じボザーギ、ファレルとの『街の天使』があり、ムルナウの本作を含む3作品で第1回のアカデミー女優となり30年代初頭にはアメリカを代表するスターだった。ジョージ・オブライエンはジョン・フォードに見出され1924年『アイアン・ホース』('24)でスターになった。以後フォード作品の『青鷲』('26)でジャネット・ゲイナーで共演。これは2作目の共演となった。同じ原作をドイツではナチ時代にヴォルフガング・リーヴェンアウナーが『ティルジットへの旅』として、再映画化した。


------------------《ヌーヴェルヴァーグが発見した映画作家・溝口健二》----------------------
「溝口を理解するために学ぶべきなのは、日本語ではなく、この言語、演出という言語である。」 ジャック・リヴェット

「彼の映画のいくつかのショットはラングやムルナウやドライヤーやブレッソンを思わせるが、それはこれらの監督たち同様に彼が、仕種は再創造され た場合にしか真実でないということ、芸術の真実は自然の真実とも、そして習慣のなかでも最も大切にすべきものではあるが最も恣意的である、あの 礼儀という第2の自然 の真実とさえ異なることを知っているからである。」エリック・ロメール

「溝口健二の芸術は、《真実の生は別のところにある》、しかし生は、みずからの不思議な輝かしい美のなかにこそある、という二つの事柄を同時に証 明してみせる点にある。」  J・L・ゴダール

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