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I LOVE YOKOHAMA【横浜】コミュの横浜市港南区磯子区に有った笹下城 〜大坂城を落城させた旧北条家臣間宮家、間宮林蔵と杉田玄白の祖先の城〜

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笹下城と言う御城が横浜市港南区と磯子区に在(あ)ったのを御存知でしょうか?小田原北条家の家臣で相模十四騎の筆頭とされた間宮氏の居城でした。
間宮家は近江源氏佐々木氏の出身で、伊豆の間宮に移住した一族が地名を姓にし、北条早雲公が伊豆の大名に成ると早くから配下として活躍し戦国時代の頃には小田原北条家の中で相模十四騎筆頭と言う旗本中で深く信頼を得る立場となりました。
港南区笹下4丁目の旧I H I団地のあった場所の裏山、梅花山成就院と言う御寺と地続きの丘が本丸の跡です。その名残で、この付近には「御下公園」と言う地名が残ります。

写真の本丸切岸と空堀遺構の風景も三井不動産レジデンシャルの宅地開発と教育委員会の怠慢未調査不保護により『林文子市長の施政下、2016年に破壊され消滅』しました。

この笹下城、北条家の本拠地の小田原城、重要拠点の大船駅近くの玉縄城や八王子市の滝山城に近い規模を誇っていましたが、高度経済成長期の乱開発で史跡としての調査はされませんでした。
平成二十四年迄、成就院横に有った明確な遺構の大空堀も宅地化され消滅してしまいました

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画像は国文学研究資料館史料館に保管される間宮彦四郎の権現山合戦を題材にした絵です。
権現山城は現在の京急神奈川駅すぐ裏の丘〜東海道(国道1号線)を挟んだ本覚寺にかけて明治以前まで地続で大きな海に突き出た半島の丘だった場所に造られた城でした。
北条家が敗戦したものの、信冬公は敵陣への単騎突撃で名声を獲得しました。
この権現山城は古くは足利尊氏公が合戦の際に籠城したのが城塞としての始まりで、付近には江戸時代に東海道として整備された古東海道が通っていた為、戦略上の要所でした。
現在の神奈川区台町に登っていく坂道が江戸時代の東海道で、横浜駅一帯は昔は海でした。
江戸時代には東海道五十三の宿場町の一つ神奈川宿が置かれ、幕末には勝海舟の設計で海上要塞の神奈川台場が建設された場所の直ぐ近くでもあります。
当時の様子が「東海道五十三次」の版画に記録されており、そこに写る「さくらや」は現在も営業する料亭田中家の前身でした。田中家には幕末に坂本龍馬先生の奥様だった「お龍さん」こと坂本龍子が未亡人に成ってから暫く働いていた場所でもありました。

写真は権現山合戦の絵図です。
この権現山城一帯は間宮家と所縁の有る土地でした。
古来、この一帯は県名の由来に成った神奈川と呼ばれた土地で、そこに間宮一族の間宮宗甫と言う武将が神奈川の六角橋の綱島街道を押さえる斉藤分町一帯の重要な土地を領地を有していた為、北条家家臣の間宮家の武将が参戦するのは当然でした。余談ですが、神奈川の六角橋は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の神話の土地で、日本武尊が現在の宝秀寺の場所に居館を構えていた大伴久応と言う豪族に接待された際に使用した箸が六角形だったので地名由来と成りました。
戦国時代まで神大寺と言う巨大寺院が塩嘗め地蔵の前の道を参道として存在していましたが、この一帯は古代には「店屋(てんや)」と呼ばれた行政区分の地域で、古代の伝馬制の駅が設けられていた事からも古代邪馬台国より100年前の人物である日本武尊の頃から港や集落があり街道が利用されていた事が窺い知れます。神大寺は戦国時代に焼失しましたが、名前からして日本武尊と御妻女の弟橘姫を祀った聖地が寺院化した場所だったのでしょう。
さて、そんな神奈川の地で起きた権現山合戦で活躍した間宮信冬公ですが、以降は歴史に登場せず代わりに系図上で信冬公の後継者として確認出来る人物が間宮信盛公です。
この権現山合戦の後、先述の通り間宮家は間宮信盛公と、その次代を担った間宮信元公が川崎から陸路の要の横浜市港南区笹下や海運の要の磯子区杉田港に拠点を移し、間宮信元公により笹下城が築城されました。
現在では権現山城址は往時の原型は無く、大半は幕末の神奈川台場建設の海埋め立ての為に城山を削られ、防御施設の遺構は消失しました。
更に国道と鉄道の建設で上の写真の本覚寺一帯〜幸ヶ谷公園に続く半島は大きく掘り切られて分断されてしまい、周囲が宅地化され地形も当時の城域が解らなくなる程に破壊しつくされてしまいました。
周囲には幕末の横浜開港時、フランス公使館として利用された真色山甚行寺もあります。
権現山城を拡張した青木城主要部分と伝わる場所に建つ青木山本覚寺は、幕末にはアメリカ領事館として利用されました。

権現山城の在った、この地域は昔の武士にとって重要な場所だった上に近代横浜開港の重要な舞台の一つであり、現代の横浜市民にとっても大切な歴史を伝える場所です。
間宮家で功績を残された2人目の殿様は 、豊臣秀吉の小田原攻めの際に伊豆山中城の合戦で活躍した間宮康俊公です。

間宮康俊公が付家老を務めた北条綱成公の「黄備え隊」は何回も神がかり的な戦功を立て全国に勇名を轟かせました。

中でも有名なのが日本三大奇襲戦の一つに数えられている河越夜戦とも河越合戦とも呼ばれる決戦での活躍です。戦国時代、北条綱成公と間宮康俊公の御主君の北条氏康公は優れた民政により、民百姓の支持を得て関東で勢力を拡大しました。
その過程で旧勢力筆頭格の関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市)で激突します・・・
戦国時代、北条綱成公と間宮康俊公の主君北条氏康(うじやす)公は優れた民政により民百姓の支持を得て、関東で勢力を拡大します。その過程で旧勢力筆頭格の関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市に在った城)で激突します。
1545 年9月末、古河公方と関東管領の連合軍が河越城に来襲します。
その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利…
・北条家兵力 3,000 (河越城籠城部隊)
 籠城部隊…河越城主:大道寺盛昌公 白備隊大将:北条幻庵公 黄備隊大将:北条綱成公     
・本隊総兵力 8,000(4月17日小田原出陣、19日川越着陣、20日参戦)
 援軍総大将…北条家当主 北条氏康
 援軍武将…黒備隊大将:多目元忠公 風魔忍者総帥:風魔小太郎公 福島弁千代(北条綱房)公 等

・上杉家兵力 80,000
 総大将:古河公方足利晴氏・
・参戦大名:山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・小田政治等
 与力武将:梁田晴助・長野業正・倉賀野行定・太田資正・難波田憲重・菅谷貞次等

北条方の河越城守将は小机城主北条幻庵公と玉縄城主北条綱成公。
北条幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主であり箱根権現別当を務め風魔忍者と関係の深い武将でもありました。横浜市港南区清水橋辺りは、昔、幻庵公の別宅と風魔忍者の詰所が在ったと伝わっています。
河越城守勢の北条家の兵力はわずか敵方総兵力の約27分の1。
…対する関東管領上杉家&古河公方足利家連合軍には関東の多くの大名達が参集し10万人に迫る勢いでした。
この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で敵の攻城を半年間も防衛し続けました。その粘りもあり、敵方の関東管領連合軍に厭戦(えんせん=ダラけ)気分が蔓延し始めます。
敵が油断するのを待っていた綱成公の義兄で主君の北条氏康公が小田原城を4月17日に8000の兵を率いて出陣します。
出陣当日、氏康公は現在の江島神社こと江ノ島弁財天の別当寺だった岩本坊で戦勝祈願をしています。
実はこの江ノ島は欽明天皇以来、島の岩屋の奥が天皇家の勅願所として宗教的な霊場と成り聖地成って現在の江島神社が成立しました。その岩屋と江島神社を明治時代まで江ノ島岩本坊(古義真言宗寺院)を治めた間宮家の一族が務めていました。つまり間宮家は武家として活躍した一族ですが宇多源氏の氏神である近江国現在の滋賀県の近江八幡市安土町の沙沙貴神社宮司家の血統でもあり、関東に来て以降も江島神社を管理する立場を明治時代まで世襲してらっしゃった訳です。
岩本坊は現代、写真中の江ノ島の大鳥居のすぐ傍、江島神社の参道に岩本楼と言う旅館として存続しています。

氏康公の援軍は4月19日に河越城南方砂久保に着陣します。
しかし、綱成公と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。
そこで氏康公は周到に謀略を巡らし敵勢が油断しきって酒盛りを始めた晩、夜陰に紛(まぎ)れて奇襲をしかけました…
同時に河越城から綱成公と副将の間宮家の黄備え隊が出撃し、氏康公率いる本隊と共に敵の関東管領連合軍を挟撃します。
この作戦で指揮を執(と)ったのが、先に間宮信冬公の活躍した権現山城跡に築城した青木城の城主で北条家の軍師格、「黒備え隊」大将も務めた多目元忠公でした。

敵勢上杉軍は多いが北条氏康公と多目元忠公の謀略に嵌(はま)り油断しきっていて規律も乱れており、北条氏康公・綱成公の義兄弟の夜襲の前に瞬く間に壊滅しました。

この河越合戦での上杉家連合軍側の被害は甚大で…
・主要大名:扇谷上杉家→当主が討ち死にし滅亡。
・主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小。
・その他の関東管領連合軍に参加した大名も散り散りに逃走。
…いずれも大幅に勢力縮小する事に成りました。




このように間宮家の主君:北条氏康公と北条綱成公の御二方は内政、武勇、統率、知略、采配の実績が桁違いに優れていました。
そして綱成公の与力だった間宮康俊公も武勇で稀有な功績を残された方でした。

写真は港北区のJR小机駅や小机城の近くの鳥山地区に在る端雲山三会寺(さんねじ)です。

開基したのは平安時代〜鎌倉時代の鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝公に御家人として与力した佐々木高綱公です。
間宮家は高綱公の家系である近江源氏佐々木家の分家に当たり、祖先は宇多天皇、家祖は敦実(あつざね)親王、その敦実親王を御祭神として祀る滋賀県安土町沙沙貴(ささき)神社の宮司を務めた家系の子孫です。祖先の中には鎮守府将軍を務めた源扶義(すけのり)公もいます。佐々木高綱公の祖父に当たる嫡流の佐々木秀定公と、間宮家の祖先に当たる佐々木行定公が御兄弟でした。
高綱公は宇治川合戦等の活躍で有名な武勇に優れた名将で、頼朝公より深い信頼を得ていました。
その経緯で鎌倉の東北の鬼門に当たる交通の要所だった鳥山に鎌倉鎮護の寺院を築く事を命じられ三会寺を開基しました。頼朝公と高綱公との御縁で三会寺の寺紋は、源家の家紋である笹竜胆紋の使用を許されています。
河内源氏の家紋は笹竜胆紋、佐々木高綱公や間宮家の宇多源氏は四ツ目結紋。間宮家は隅立四ツ目結紋。

この三会寺の近くには高綱公の居館址に建てられた鳥山八幡宮や、高綱公が頼朝公より拝領した名馬の生唼(いけづき)を祀る馬頭観音堂も在ります。 高綱公と所縁の深い鳥山地区の近くには、戦国時代末期まで北条家の小机衆の軍事拠点として機能した小机城址も在り、古来この地域の交通網が軍事上とても重要だった事が解ります。
間宮家の祖先には真野姓を名乗った時代があり、その真野家時代に分かれた別流の子孫に江戸時代の解体新書の翻訳で有名な医学者、杉田玄白がいます。
杉田と名乗っている事から、戦国時代には間宮家一門衆として杉田郷に住していた事が推測出来ます。江戸時代に元、同僚の喜多見家が大名に成った際に喜多見家に与力し世田谷に移住した一族も居た様で現在も世田谷には杉田姓の家が残っています。
佐々木家一族である間宮家の戦国時代の武将、間宮康俊公は武勇に秀でただけでなく内政手腕にも長けました。

鶴岡八幡宮合戦で焼失した鶴岡八幡宮の社殿再建にも参加し、現代人にとっても偉大な文化遺産と伝統を守る事績を残しました。

写真は若宮大路から見た鶴岡八幡宮です。
再建事業では間宮康俊公を含めた横浜市では3人の殿様が活躍しました。

1人が笹下城主の間宮康俊公
間宮家は近江源氏佐々木家の分家に当たり家系が宇多天皇、更に敦実(あつざね)親王を祀る沙沙貴神社(ささきじんじゃ)の宮司を務めた家系でしたので、鶴岡八幡宮再建の任を務めるに相応しい血脈でした。
八幡宮再建奉行職は建築工事を行う上で宗教儀式的な知識も理解している必要が有り、間宮家一族が適任だった事が推測出来ます。
寄親の北条綱成公が材木奉行に任命されている事も有り、職務を代行し、材木の杉田港への集積管理で活躍した事績が伝承しています。近年まで室町時代の間宮家の材木事業の名残で杉田の海には貯木場が有り、笹下川下流の上大岡近辺の川沿いには材木問屋が数軒残っています。
又、旧笹下城域に現在も存続する間宮家臣御子孫の御話しによると間宮家は築城技術集団でもあったそうで、鶴岡八幡宮再建の任務に当たっては土木技術面でも、北条幻庵公や北条為昌公、北条綱成公と並び、その名を連ねています。

2人目は総奉行を務めた笠原信為公

今の横浜市港北区の三会寺やJR横浜線小机駅のすぐ近くの御城、小机城の城代で大曾根城主と白備え隊の副将も務めた方で、和歌にも精通した文化人であり江戸城攻略に参加した名将でした。

当時の白備え大将、小机城主は北条早雲公の3男で北条家の長老だった北条幻庵(げんあん)公で、晩年幻庵公が老齢に成ると笠原信為公が政務と軍務を代行していました。
笠原家は小田原北条家に最も早くから仕えた家系で、北条氏康公が御当主(とうしゅ=君主)だった時代には外交面等でも筆頭を務めた家老の家柄でした。

画像は笠原信為公が城代を務めた横浜市港北区JR小机駅近くの小机城の縄張り図で、毎年桜の季節に行われる小机城址祭りで配布される資料に掲載されています。 中世城郭研究会に問い合わせれば更に詳細な様相を解る縄張り図の掲載された本も購入出来ます。
写真は現在の小机城址。
この小机城址は横浜市内最大最良の保存状態を誇り、市民が自由に散策出来る遊歩道が有志によって維持されています。 日本国内でも有数の保存状態を奇跡的に横浜市内に保っているのに横浜市教育委員会と林文子市長な何故か歴史文化財認定し保護する事をしません。
同じ程度の保存状態の八王子市滝山城址は『国指定史跡』認定を受けていますが、史跡認定を受けないのは自治体から申請が無いから詮議の対象とされない訳です。
近年では昨年、綾瀬市の神崎遺跡が小規模ながら国指定史跡の認定を受けていますが、ここら辺が神奈川県内で最後まで文化財保護法の設置を遅らせた横浜市教育委員会らしい御粗末さとも言えます。
この小机城を拠点とした小机衆白備え隊の笠原信為公が城代を務めた小机城と、黒備え隊の多目元忠公が城主を務めた青木城の中間地点に当たる神奈川区神大寺(かんだいじ)地区には笠原信為公の菩提寺だった神大寺と言う御寺が在りました。城址として昔の人にも誤認される程の規模を誇った大寺院だった様ですが、残念ながら戦国時代に既に焼失してしまい、更に現在では畑地の開墾と宅地化で跡形も無くなってしまいましたが、その地名に信為公の菩提寺が在った歴史を留めています。
神大寺の表参道だったと伝わるのが、写真の塩嘗地蔵(しおなめじぞう)一帯です。この直ぐ傍が神大寺の山道だったと伝承が残っています。

この塩嘗地蔵の在所一帯は旧街道沿いでもあります。
現在も塩嘗地蔵は「イボ取り地蔵」として近隣住民に親しみをもって信仰されていますが、御塩を御供(そな)えする変わった習慣の有る御地蔵様でもあります。
この一帯は北条家の統治以前は、今の東京都練馬区や北区、豊島区等を治めた大名豊島家の影響下にありました。豊島家の居城は今の練馬区石神井公園に在った石神井城や練馬区の遊園地としまえん所在地に在った練馬城でした。
豊島家と、当時の江戸城主で関東屈指の名軍師だった太田道灌公が交戦状態に陥ると、豊島家は敗走して小机城まで落ち延びて来て、最終的に小机城も道灌公により落とされて滅亡しました。
太田道灌公が小机城へ攻め上る際に陣地を構築し休息をとったと言われる場所が、塩嘗地蔵の御近所に在る「道灌森」と言う場所でした。
この地域を通る旧街道は八王子街道や中原海道に連結しています。
その街道の先には間宮家や笠原家の御仕えした小田原北条家の宿敵である、太田道灌公の主君の扇谷上杉家の重臣達の居城である深大寺城や松山城、鉢形等が在った事からも、笠原信為公が主家北条家の勢力拡大の初期段階で既に深く信頼され、とても重要な土地を抑える役割を任されていた事が窺(うかが)い知れます。

そして先に紹介した通り、同地は日本武尊と大伴久応の聖跡で現在も大伴家城館の跡には久応山宝秀寺が存在しています。そして神話は六角橋商店街の名前に受け継がれ現在に残っています。
3人目の殿様は吉良頼康公です。

室町幕府将軍の親族の吉良家の殿様で、北条家では「蒔田御所」と呼ばれ関東の将軍である鎌倉公方と同等の立場として重視された方でした。頼康公は水運商業の拠点として今の横浜市南区蒔田の旧成美学園の英和女学院と龍祥山勝國寺と言う御寺の丘一帯に在った蒔田城を拠点に東京湾北部沿岸部の要所を支配していました。
写真は横浜市南区蒔田に在る吉良家の祖先吉良政忠公菩提寺の龍祥山勝國寺と…
…蒔田城址に在る英和女学院裏の断崖です。
勝國寺を開基したのは吉良頼康公の御父君である吉良成高公でした。
太田道灌公の盟友で、江戸城を巡る攻防戦では道灌公の援軍として江戸城に入り留守の道灌公に代わりに指揮を執り、敵勢を撃退した記録も残る名将でした。
一方、吉良頼康公は全く合戦をしないで経済を重視した大名でした。
蒔田城崖下は、江戸時代には今の吉野町辺りまで海でした。江戸時代に埋めたれられ吉田新田が作られた事で海ではなくなりましたが、昔は考古学的には大岡湾、戦国時代の歴史では蒔田湾と呼ばれた入江が広がっていました。

鶴岡八幡宮再建時は水運に長けた喜多見家をはじめ森家、佐々木家、並木家、上保家、大平家、大庭家等の家臣団を統率した吉良頼康公が、この蒔田城址の眼下に広がっていた蒔田湾から海運での材木輸送を取り仕切りました。
頼康公は鶴岡八幡宮だけでなく東京の世田谷八幡宮も中興されました。吉良家の殿様は内陸の中世の中原街道沿いを押える要衝を領地にしており、東京都世田谷区一帯、川崎市高津区や中原区周辺も治めていたので、世田谷城も吉良家の内陸部の重要拠点でした。
世田谷八幡宮は吉良家の下総移転後、徳川家康公の庇護を受けました。

写真が頼康公が中興された世田谷八幡宮と、吉良家世田谷城址でもある大谿山(だいけいざん)豪徳寺です。
この世田谷城址である豪徳寺は江戸時代には彦根藩井伊家の菩提寺に成り、招き猫の発祥地でもあります。
幕末の江戸幕府の大老井伊直弼(なおすけ)公は横浜を開港した方ですので、井伊家も又、横浜市に関係の有る殿様であると同時に間宮家の祖先の治めた滋賀県安土町一帯を江戸時代に治めた大名家でもあり、間宮家と地縁で結ばれた御殿様と言えます。

他に大道寺家も鎌倉で総奉行に名を連ねていますが、北条家を滅亡させた裏切者を輩出した家なので顕彰しません。
間宮康俊公は、その最期にも更に武名を全国に轟かせました。
画像は静岡県三島市にある山中城址公園の衛星写真です。 

豊臣秀吉の小田原攻めの際に豊臣秀吉・秀次の率いる本隊8万を、黄備え隊玉縄北条家三代当主氏勝公と間宮隊は小田原城の手前の箱根の山中城に3千で籠城迎撃します。
しかし歴戦の間宮康俊公は圧倒的不利かつ救援の無い状況から敗戦を悟り大将の北条氏勝公を撤退させた後、事前に築城していた山中城出城の岱崎出丸に笹下間宮家手勢200人弱で籠城し敵勢を迎撃しました。この状況の中で有名な中村一氏隊・山内一豊隊・堀尾吉晴隊・一柳直末隊など、秀吉直属の小大名格の部将達を大苦戦させ、一柳直末(いちやなぎなおすえ)を討取り玉砕する大功を立てました。
結果この出来事が評価され、間宮家は徳川家康公の旗本として、康俊公の姫は家康公の側室として登用されました。
江戸時代の樺太、択捉を探検し間宮海峡を発見した間宮林蔵は、この間宮家の子孫です。

間宮家と直接の関係は有りませんが、太平洋戦争中に活躍した給糧艦の「間宮」は、この間宮家由来の間宮海峡の名を頂いた艦船でした。平和的な運用をされた補給艦なのに歴史に名を残す名艦船に成ったのも、何か間宮家との因縁を感じますね。

話を戦国時代に戻しますが、間宮家が付家老として御仕えした北条綱成公の開いた玉縄北条家菩提寺が下写真のJR大船駅近く鎌倉市植木に所在する龍寶寺です。

境内には綱成公、氏繁公の御廟所と玉縄民俗資料館が在り、玉縄城の遺物や城縄張りの復元模型等が展示されています。江戸時代の学者新井白石とも縁の深い御寺でもあります。
玉縄城は間宮家が与力した黄備え隊大将:玉縄北条家歴代当主の居城でした。その為、北条綱成公の御廟所も龍寶寺内に在り、以前の山上から移設された新しい廟所には昔の石塔も安置されています。
この近くの鎌倉市玉縄地区の清泉女学院が玉縄城の本丸古址です。
龍宝寺の在る植木地区や玉縄地区一帯には蹴鞠場、諏訪壇、御花畠等の遺構が部分的に現存しています。

この玉縄城、範囲も広く西の端は二傳寺、東の端は長尾城と広大な範囲の丘陵と谷戸に切岸や空堀や曲輪群を配置した堅固な典型的な北条流築城術で築かれた城で、先述の通り上杉謙信軍11万、武田信玄軍2万に攻められても落城しなかった名城でした。
この玉縄城の城主に与力した間宮家の笹下城も同様の築城術で築かれた城塞群でした。
…玉縄城の西の端は、下の写真の戒宝山宝国院二傳寺(にでんじ)の丘一帯を城塞化していた二傳寺砦でした。
この二傳寺には関東の平氏系大名の祖先、平良文(よしふみ)公の御廟所があります。
そして、その子孫には間宮家の信仰した御霊神社の祭神鎌倉景正(かげまさ)公がいます。
戦国時代の三浦・豊島・長尾・千葉・葛西・相馬・芦名などの関東東北の大名も平良文公の御子孫です。 上杉謙信も長尾家の出身で、この良文公の子孫に当たります。

二傳寺砦の城址は太平洋戦争中に陸軍の砲兵部隊が展開していた場所で、近代戦争でも重視される戦略上の要所でした。
二傳寺の近く小雀には間宮家の屋敷が有り、戦時、間宮家が山中城の合戦の時の様に出丸の二傳寺の守備を任されていたのかも知れませんね。

近所は平良文公の居城跡の村岡城址公園も在ります。
残念ながら神奈川県教育委員会の怠慢で縄張りも調査されず発掘もしないまま宅地化され城址としての旧状は地形的に崖に面している以外ほとんど残っていません。
実は明治時代の対馬海戦で当時の先任参謀だった秋山真之中佐の丁字型戦法を採用しロシア帝国バルチック艦隊を迎撃し完勝した東郷平八郎元帥も平良文公の御子孫だった御縁で、この村岡城址公園には東郷元帥の甥である東郷吉太郎少将が揮毫した顕彰石碑も有ります。
この玉縄城や二傳寺一帯が戦国時代のみならず、平安時代〜近代にかけて戦略上の要所だった事が良く解る場所でもあります。

…玉縄城の東の端は、写真の長尾臺御霊神社(ながおだいごりょうじんじゃ)一帯に在った出城の長尾城でした。
関東では一般的に御霊神社の御祭神は元は平良文公を含めた良文流坂東平氏の祖先を広く崇拝する神社でしたが、平良文公の御子孫の鎌倉景正公が前九年後三年の役で活躍し有名になると、後に景正公が坂東武者の鑑として武士達の崇拝対象と成り御祭神として信仰される様に成りました。
景正公を祀る御霊神社の本宮は現在も鎌倉市坂ノ下町に現存しており、鎌倉江の島七福神巡りの一所として現代では眼病治癒や恋愛成就の神様として一般庶民の信仰も集めています。
一昨年2015年まで平良文公没後、約1000年間鎌倉の権五郎御霊神社宮司家を務められて来た村岡家の宮司様が御子様が無いまま引退され、その平良文公直系本家村岡家の御子孫が宮司を務める伝統は途絶えてしましました。しかし現在の宮司様もとても熱心な方です。

ちなみに長尾城を築いたのは、上杉謙信の祖先の長尾家で、長尾家も鎌倉景正公の子孫です。 言い換えれば上杉謙信が玉縄城を攻めたのは、祖先の御霊に弓引くような行為そのものだった訳です。
この長尾臺御霊神社の在る長尾城を支配した北条家も、実は鎌倉景正公の祖先の平良文公と同族の子孫です。
小田原北条家の祖先は元の姓は伊勢と言い、伊勢平氏で、良文公とは同族です。更に小田原北条家の家祖である北条早雲公が婿養子として継いだ伊豆の北条家の祖先は元皇族の平高望(たかもち)王です。高望王の子孫には平良文公がおり上杉謙信とは遠縁であり、祖先の代から因縁も有りました。
3人目の間宮家の有名な殿様は、杉田間宮家の間宮信繁公です。
下の写真は磯子区杉田の牛頭山妙法寺です。
杉田間宮家歴代殿様の御廟所が有る間宮家の菩提寺で、日本武尊の伝承と空海和尚が牛頭天王社を建てた由緒の有る御寺です。

戦国時代、間宮家は北条家の武蔵国と伊豆国の水軍を率いる立場にあり、その間宮家の海の拠点が杉田湊(みなと)でした。
杉田間宮家の初代に当たる間宮信次公は笹下城を築城した間宮信元公の実弟で、水軍の将として活躍し三浦の走水海岸で玉砕しながらも里見家の海賊を撃退し敵軍船を多数鹵獲(ろかく)した記録が残っています。
信次公の孫に当たる間宮信繁公は杉田を中心に北条家の奨励した梅の植林と内政に力を発揮された武将でした。

信繁公により造営された梅林は江戸時代になると「杉田梅林」として有名になり、風光明媚な屏風ヶ浦の沿岸を海路、船でクルージングを楽しみ、杉田聖天川にあった桟橋で上陸し梅林を見学に来る江戸からの観光客で大変賑わったそうです。 そして杉田梅の実も、最高級のブランド梅として江戸時代 〜 昭和初期にもてはやされたそうです。
その賑わいを窺い知れる話があります。江戸時代に入って直ぐの頃わざわざ当時の本願寺のトップだった本願寺良如上人と九条関白が御一緒に笹下城址の成就院に滞在され、笹下や杉田の梅林を見学された史実が記録されています。
明治時代になると、明治天皇をはじめ皇族の方々も杉田梅林を見学に行幸されました。その当時は国道16号線は開通していなかったので、六浦道(笹下釜利谷道路)を下って来られ、まだ横浜市が成立する以前の当時の久良岐郡の中心だった今の港南区笹下の関に有った「石川亭」と言う料亭に宿泊され、そこから杉田梅林を見学に出向かれたそうです。しかし昭和になると杉田梅林は保護されず宅地開発され、消滅してしまいました。
杉田梅林は消えましたが昭和初期まで続く文化醸成地を築かれた信繁公の功績は非常に大きいですね。
写真は小田原北条家の梅林文化を今に伝える、横浜市磯子区の岡村天満宮の一部だった岡村梅林と小田原市の曽我梅林です…
写真の岡村梅林を旧社地として抱えていた岡村天満宮ですが、その梅林の植林時期は杉田梅林と同時期と伝えられています。
しかし現在の岡村梅林は戦国時代末期や江戸時代初期から存続した物ではありません。
元々岡村梅林は広大な敷地を持っていた岡村天満宮の鎮守の森として、間宮家が江戸時代初期この一帯の奉行を務めた時期から存在していましたが…
太平洋戦争の敗戦後にアメリカ合衆国に接収され、米軍基地造営の際に破壊されました。
その後、岡村天満宮の社地は米軍から横浜市に返還されてしまいましたが、横浜市は岡村天満宮に返還せず公園を建設してしまいました。
…その土地の旧社地一部を買い戻したのが横浜を代表する企業であり日本を代表するプラント建設会社の日揮の社長さんと岡村天満宮の氏子さん達です。旧境内地の土地を一部買戻し岡村天満宮に寄贈し更に市の公園部分にも梅を植林し北条家の梅林文化を再度復興し、小田原北条家〜徳川家統治下の往時、間宮家がその発展に寄与した神奈川と伊豆の梅林文化を現在に残して下さいました。

小田原曽我梅林の梅花越しには坂東の民百姓から木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)の権化として信仰された富士山が見えます。

岡村天満宮は源頼朝公の忠臣で、曽我兄弟による頼朝公の暗殺を阻止した武将で、三浦家の一族の平子有長公の開いた天満宮です。
戦国時代に平子家は北条家により磯子一帯の支配権を奪取され越後に移住した様です。
時期的には解りませんが、平子家が武蔵国久良岐郡から駆逐されるきっかけに成ったのは、平子家と同じ三浦一族の正木家や里見家が鶴岡八幡宮を焼き払った鶴岡八幡宮合戦の際に同調して北条家を裏切ったのかも知れません。それ以降も久良岐郡が里見家や正木家の海賊に襲撃に晒された歴史意外に戦火に晒された事件は無いので、いずれにしても正木家に同調した以外には北条家に攻められる理由が有り得ない訳です。

岡村梅林の近くには泉谷山龍球院と言う御寺が在ります。
御寺の寺紋が北条家の三鱗紋に丸で囲いを付けた物です。実は龍珠院は間宮家の寄親で玉縄城主の北条綱成公が小規模な御堂だった龍珠院の支援を始め、次代の北条氏繁公が本格的に開基した由緒を持つ御寺です。

何故、ここに玉縄北条家の御寺が在るかと言うと、このすぐ近くには間宮家と共に鶴岡八幡宮を再建した蒔田吉良家の殿様の居城蒔田城が在るのですが…
吉良頼康公は一時期、小田原北条家では古河公方の代行者を務めていた時期が有ります。
…その頼康公の蒔田城に訪問が必要だった北条氏繁公と、蒔田城近くの同地に御縁が有るのは歴史の必然でもあります。戦国時代、御寺は有力武将の寝所としても機能する場でした。


梅林から梅林を植林した間宮信繁公御本人の話に戻します…

北条家の滅亡後、間宮家としての康俊公の山中城での活躍や、間宮家が特に鷹狩りと鷹の飼育、鷹の献上の有職故実に精通していた事から、信繁公は徳川家康公に鷹匠の頭として家康公の直臣に取り立てられました。
この時代、鷹匠は庶民ではなく武士が担っており、山野を駆け巡る機動力に優れる上に殿様の鷹狩りに際し事前に地域住民に担当割り当てを交渉する等の実務に精通した集団でした。

信繁公は内政だけでなく、武将、名軍師としても稀有な功績を残されています。
その鷹匠集団の特殊能力を活用し、信繁公は有名な「関ヶ原の決戦」で大功を立てました。
図は関ヶ原合戦時の東西両軍の布陣図です。
家康公の率いる東軍は開戦当初、背後に陣取る敵の毛利家の大軍がいる事で釘付けにされ味方の細川、黒田勢が石田三成本隊からの大砲の砲撃に苦戦しているにも関わらず、 徳川本隊が前線の援護に参加できませんでした…

…この状況を打開する切っ掛けを作ったのが間宮信繁公です。

毛利家の陣地南宮山から狼煙(のろし)が上がるのを見ると、信繁公は鷹匠部隊の特殊能力を活用し敵陣をつぶさに偵察し、その陣容と状況と本隊全軍の進軍に堪える事に家康公に報告しました。
この事で事前に徳川家に内通していた吉川広家が毛利家の前進を約束通り阻んでいる事や長宗我部勢等も動きが無い事を把握し、間宮家と同族宇多源氏の黒田家が行った小早川家への内奥工作が成功します。
徳川本隊の前進から松尾山の小早川勢1万 5 千の大軍への寝返り工作が成功し、関ヶ原決戦での徳川勢の大勝利に繋がっていきました。
事実、この後、徳川家康公は鷹狩りを行う度に随行する間宮信繁公の関ヶ原での戦功を称賛し、その度に信繁公と与力の鷹匠衆の領地を加増して下さった事が記録に残っています。
この合戦に間宮信繁公の鷹匠衆50人は間宮家自前の鉄砲50丁を持って参戦しています。この数は尋常じゃない装備数で、玉縄衆の頃より鉄砲を重視した戦術を間宮家や北条綱成公が取り入れていた事も窺い知る事が出来る逸話でもあります。
4人目の功績を残された間宮家の殿様は滝山城主の北条氏照(うじてる)公の付家老として活躍された方で、名前を間宮綱信(つなのぶ)公とおっしゃいます。
綱信公が与力として仕えた北条氏照公は北条家第4代当主氏政(うじまさ)公の実弟で、滝山城に兵3000で籠城し、武田信玄2万の大軍から八王子を守り抜いた実績の有る勇将で内政にも優れた手腕を発揮されました。
八王子市丹木町に現存する滝山城址は日本有数の規模と保存状態を誇っています。
写真は滝山城址の小宮曲輪の切岸と空堀と土塁です。
図面は滝山城の縄張り図です。
滝山城址は現在、城址の至る所に当時の防御設備の説明看板が設置され無料で散策出来る東京都立滝山公園として整備されています。

綱信公は滝山城主北条氏照公の付家老として政務を担いながら北条家の外交官としても活躍しました。
写真は磯子区氷取沢の飯盛山宝勝寺、八王子市にある日本100名城の一つ八王子城御主殿の石垣、織田信長公朝廷公認の菩提寺の京都市上京区の蓮華院阿弥陀寺です。

織田信長公に謁見する等、「内政」と「外交」で功績を残されました。信長公との面会に及び北条家からの献上品を差し上げた際に、信長公から北条家への返礼として大判金貨100枚や虎の皮等を拝領した記録が残っています。
更に信長公は名将滝川一益公に対し、綱信公一行への接待を御命じになり、綱信公一行は一益公の案内で安土の城下町を案内されたそうです。
実はこの際、北条家側から信長公への献上品に鷹が含まれており、間宮家が外交の際の献上用に飼育していた鷹だった可能性が有ります。戦国時代には磯子区港南区は鷹の繁職場が円海山に在った様で周辺の円海山には鷹巣の地名も残り、隣接市域には鷹取山等もあり、更に港南区野庭では徳川家康公が鷹狩も行っています。

綱信公は外交官や内政官僚としてだけでなく、築城家としても大きな功績を残されており、日本100名城の一つ八王子城は未完成のまま落城しましたが、居住区は完成しており石垣は壮麗で、完全に築城が完了していれば日本を代表する総石垣の山城に成っていました。
この城を設計したのが間宮綱信公と伝わっています。

その間宮綱信公が中興した御寺が磯子区氷取沢町に今も在ります。
宝勝寺です。
元は間宮家の旧主に当たる古河公方足利成氏公の子息が開基した由緒のある御寺です。
宝勝寺の近くには綱信公が徳川家康公に仕えるように成った際に隠居地として与えられた氷取沢陣屋が在りました。

この寶勝寺の西側、現在、団地が在る辺りが氷取沢間宮家の陣屋跡と伝わりますが、既にマンション開発によって陣屋跡は発掘調査されないまま消滅してしまいました。

寶勝寺は明治時代にも偉人の信仰を受けた寺でした。
実は近隣の金沢区金沢文庫一帯は、古来より景勝地として知られたのですが、その景勝地が8ヵ所在った事から、同地は金沢八景と呼ばれる様に成ったのですが、明治の元勲、伊藤博文公がその金沢八景の一つ野島に別宅を構え、そちらで日本帝国憲法の草案を纏め上げたそうです。博文公は、よく、この寶勝寺を訪れたそうで、博文公の武士時代の遺物が寄贈され現在も寺宝に成っています。
新編武蔵風土記稿や古今感状集を著書にもつ江戸時代の学者、間宮士信(ことのぶ)公は間宮綱信公の御子孫に当たります。

間宮家の5番目に功績を残された殿様は北条家が滅亡し、安土桃山時代も終焉を迎える頃の殿様です。
最後の笹下城主、間宮直元(なおもと)公と言う殿様です。

画像は江戸時代の本牧奉行の大凡(おおよそ)の統治範囲です。
間宮直元公は、北条家滅亡後、祖父間宮康俊公の跡を継ぎ徳川家康公に御仕えし、本牧奉行に任命されました。その頃、徳川家の支配下で既に関東地方での戦闘も無くなり、城としての役割を終えた笹下城の麓に拠点を移し笹下陣屋を設けました。
この本牧奉行の役職の由来は、写真左上の本牧半島の地名に由来しますが、その支配地域は略( ほぼ)、旧久良岐郡の大半を占めていました。
現在の金沢区方面は金沢奉行と言う役職が置かれ、長谷川家が統治を任されていました。
幕末に成ると黒船の襲来後の外国人対応の為に既に廃止されていた本牧奉行に代わる神奈川奉行設けられますが、この最後の神奈川奉行を務めた依田家は武田家旧臣の名将の家系ですが実は江戸時代初期に間宮綱信公の子孫が養子に入って家系を継いだ家柄でした。


江戸時代初期に本牧奉行を務めた直元公も、他の間宮家の殿様の例に漏れず神社仏閣の保護に力を入れていました。
その直元公の事績を今に伝える古文書に登場する御寺が写真の横浜市南区堀之内に鎮座する青龍山寶生寺です。
寶生寺は平安時代末期、源頼朝公の御父君の源義朝公の時代に開基された御寺で、戦国時代初期の名軍師太田道灌公を初め、戦国時代は北条氏康公、江戸時代は徳川家康公の庇護を受けました。

ですから、御寺の寺紋も北条家の三つ鱗紋の使用を北条家より許され今も山門の上部には北条家の家紋と同じ寺紋が使用されています。
この寶生寺を間宮直元公が支援していた事や、直元公の叔母に当たる於久(おひさ)の方が徳川家康公の側室に成っていた事、加えて直元公御自身が本牧奉行以外に更に徳川幕府内の重要な役職である但馬奉行・佐渡奉行に就いており金山銀山の開発を担っており、その役職上、家康公と直接お話を出来る立場に在ったので、寶生寺が家康公より朱印状を賜り寺領を庇護された事に、少なからず本牧奉行としての間宮直元公との関わりが役に立ったのは間違い有りません。

武将としての事績としては、直元公は大坂冬の陣に井伊直孝公の与力として参戦しました。
その際、外戚の特権で徳川家康公に直々に『大坂城総掘りと真田丸埋立』を進言し、真田信繁(幸村)公の部隊の無力化と豊臣家滅亡の御膳立てをした名軍師として歴史に名を刻んでいます。
又、家康公仍「坑道を掘り大坂城の櫓を崩せ」との命令も受けています。
残念ながら、この作戦の成功を見る前に直元公は陣中で病没されました。
もし、成功していたら間宮家の活躍により、旧主北条家の大大名復帰なんて事も有ったのかも知れませんね。坑道作戦は真田幸村公の挑発に乗って井伊家と前田家の暴走したせいで間宮家も戦闘に参加する事に成ってしまい未完成でしたが、この史話は家康公の直元公への信頼と関係性を示す逸話でもあります。
もし、機会があれば間宮家との所縁のある下の写真の港南区笹下の梅花山成就院一帯も散歩されてみては如何でしょうか?
この成就院の山門は江戸時代の間宮家が本牧奉行を務めていた時代の笹下陣屋から移築されたものです。 近所には冒頭で紹介した旧IHI団地跡地に在る笹下城本丸跡が在り既に空堀は埋められましたが残る本丸切岸部分を宅地化されてしまう前に見る事が出来ます。

先にも紹介しましたが、成就院は幕末の笹下間宮家と所縁の深い御寺でもあり、昭和のIHI団地開発で破壊されるまで間宮家が植林を奨励した梅林に囲まれていました。
その梅林を江戸時代初期に京都から見学に来た西本願寺十三世良如上人と九条関白様が滞在された際に、北条家の梅林文化を伝える笹下城跡の梅林の美しさを絶賛した事から、山号を梅花山に改めた歴史が有ります。
間宮家の居城笹下城の本丸跡に、すぐ隣接する御寺で、間宮家とは地縁も『血縁』も深い御寺でもあります。

この本願寺家との関係は安土桃山時代に起源を推測出来ます。
旧寄親の玉縄北条家が下総国、今の千葉県佐倉市の岩富城に移封された後に徳川家康公の有名な軍師の本多正信公が玉縄城主と成っていました。本多正信公は非常に熱心な一向宗(浄土真宗)の信徒だった事で知られています。本多正信公が玉縄城主に成った際に地縁から間宮家が本多正信公に地理の案内や接待を務めた事でしょう。その縁から本多正信公の紹介によって良如上人の先代の浄土真宗の総帥との縁が縁が結ばれたと推測出来ます。


写真は港南区下永谷に在る永谷天満宮です。
関東管領も務めた宅間上杉家の殿様が創建した天満宮で、太宰府天満宮、道明寺天満宮と日本三躰(にほんさんたい)として数えられる天満宮です。
永谷天満宮を開基した宅間上杉家の殿様の居城は今の港南区永野小学校の一帯に在った永野城でした。
宅間上杉家の初代当主重兼公は足利尊氏公の従弟に当たる武将で、元は勧修寺家出身の家系に連なる殿様で、後に母方の実家の上杉家に養子に入られました。
宅間上杉重兼公は足利尊氏公の祖父の家時公とも関係が深い方でした。

重兼公の母君と足利尊氏公の母君が御姉妹で、上杉頼重公の御息女でした。

宅間上杉家は宅間富朝(とみとも)公の代に、先述の磯子区の宝勝寺を中興した間宮綱信公に御姫様が御嫁入りして、間宮家とも縁戚の関係になり更に軍事面でも間宮家と共に鎌倉を守る位置にありました。
この永谷天満宮の所在地に平安時代、元々居住していたのが天満宮の御祭神である菅原道真公の五男の菅原敦茂(あつしげ)公との伝承が有ります。
その菅原敦茂公の御主君が醍醐天皇でした。
醍醐天皇は貴族から権力を奪還し御親政(しんせい=天皇による政治執行)を行おうとした方で、その醍醐天皇の御実弟が間宮家の祖先の敦実親王でした。
ですから菅原敦茂公の居所一帯に建つ永谷天満宮は間宮家との御縁が深く、その敦茂公の古址に永谷天満宮を創建した宅間上杉家と間宮家が婚姻関係で結ばれ協力関係だったのは、醍醐天皇と間宮家の祖先の敦実親王御兄弟に結びつく数奇で宿命的な御縁なのかも知れません。
永谷天満宮と貞昌院の在る永谷地区から徒歩15分程度の近くの野庭地区には鎌倉幕府の初代侍所別当和田義盛公が築城した野庭(のば)関城も在りました。

写真は野庭( のば)団地の遠景です。
この野庭関城は、鎌倉幕府の軍事教練所でもあり、鎌倉幕府初代侍所別当(防衛大臣)を務めた和田義盛公が築城した城でした。鎌倉時代〜戦国時代の貴重な史跡でしたが昭和期に横浜市と神奈川県の教育委員会の怠慢で調査も保護もしないまま野庭城は破壊され団地が建設により消滅してしまいました。
その本丸の場所は市営野庭団地の中の野庭中央公園付近だったと伝承しています。
数十年前まで城の土塁も現存したそうですが現在は破壊され存在しません。

戦国時代この野庭城は北条家の名官僚の安藤良整(りょうせい)公が城代を務めていました。
良整公は北条家領内の百姓の為に公平な徴税を行える安藤枡を考案された民政家で、村同士の水利権争いを裁いた名奉行として、その内政面での功績が有名な方です。
写真は野庭地区から程近い、港南台の円海山の瀬上池です。

瀬上池の周辺は横浜市内で数少ない蛍を鑑賞できる沢のある自然公園であると同時に、その林道は平安 〜鎌倉 〜 室町時代の武士が利用した史跡の道でもあります。

この道は間宮家の氷取沢陣屋、港南区清水橋付近に存在した北条家宿老で北条早雲公の子だった北条幻庵公の屋敷と野庭関城と間宮家居城の笹下城、宅間上杉家居城の永谷城(伊予殿根城館)の全てを鎌倉と結ぶ重要な間道の史跡でもあります。

この円海山は、鎌倉御家人達が利用した古道より更に古い史跡が出土しています。
瀬上池近くから古代の蹈鞴(たたら)製鉄の遺跡が出土しており、古くからこの地域が軍事拠点として重要な場所だった歴史を伝える史跡群を抱える場所でもあります。
港南区と磯子区と言う工業地商業地として発展していながら、その豊かな自然を誇りながら関東の鎌倉節文化の草創期からの歴史を伝える貴重な場所でもあります。

この円海山の瀬上沢は横浜市最大最後の蛍の広域生息地で蛍は6月中旬から見られます。
しかし武士の往来した林道は歴代市長が保護していたのに反し現在の林文子市長の代に成って以降、保全されず通行止めがあちらこちらに出現し、更には事も有ろうに横浜市最大の蛍生息地の瀬上沢一帯の自然公園認定が解除され東急建設に売却され宅地化による破壊の危機に瀕しています。
保護を訴える自然保護団体や地元団体の質問状に対し、林文子市長は開発容認する発言をしています。
このままでは横浜市南部最大最後の蛍の広域生息地も鎌倉と繋がる鎌倉文化の醸成地である林道も消滅してしまいます。

果たして林文子市長のこの姿勢をどれだけの市民が把握しているのでしょうか?
出来るだけ多くの人に、この円海山の素晴らしい自然を体感して貰い、その自然と文化的歴史的な重要性を市長に陳情して頂くか、円海山瀬上沢の緑地保護と宅地開発不許可と代償としての土地の買い取りに林市長が態度を改めなければリコールする活動に発展させて頂ければ幸いです。
果たして林市長と建設利権を貪りたい輩が、事の重大性を認識するかどうか・・・
大切さを理解しているのは東京出身の林市長ではなく神奈川県民の庶民でしょうね。
この円海山の山頂からは北条家の梅林文化を守る小田原曽我梅林と同じ様に、関東の武士団が拝み見ていた富士山が綺麗に見えます。空気の澄んだ冬から暖かい春への変り目に当たる春分の頃には相模湾の遠望越しに、夕日が富士山山頂に沈むダイヤモンド富士を見る事が出来ます。
写真は磯子区円海山の峰地区側に在る、安養山峰の阿弥陀寺です。
この円海山の古刹、阿弥陀寺からは浄土宗総本山の知恩院第四十六世住職了鑑大僧正を排出しています。
そして円海山の名前の由来に成った下の写真、素敵な竹林と森林の参道を持つ円海山護念寺です。
元々この阿弥陀寺の奥院だった御寺で、古典落語「峰の灸」の舞台でもあります。
護念寺や阿弥陀寺は歴代の檀家が苅部家ですが、この苅部も蒔田吉良家の重臣の家柄です。
杉田郷笹下郷への転居は御寺の開基時期から推測する事が出来ますが、江戸時代初期で間宮家が本牧奉行(横浜市長の前身)職や駿河国蒲原代官(静岡市の港湾を抑えた経済拠点)や摂津奉行(大阪市長の前身)を務めた頃で、蒔田吉良家の没落後に旧知の間宮家を頼って移住して来た事が窺い知れます。

この護念寺の道は鎌倉武士の古道で少し昔まで、その道を抜けると間宮家の氷取沢陣屋へと通じていました。 しかし現在、この林道は護念寺の私道に成ってしまった事と、その道の先の氷取沢側が宅地開発されてしまった事もあり車の抜道として利用出来ない様に封鎖されてしまい、現在は通り抜ける事は出来ません。

林文子市長に成ってから円海山の他の林道も部分的に倒木や路盤の劣化により封鎖されており、横浜市による再整備を要する状態にありますが、自然の中で散歩を楽しみ新鮮な空気に触れる事は出来ます。
この護念寺の道や円海山の尾根道を抜けると、下の写真の大谷戸広場に出ます。

この氷取沢の大谷戸広場一帯は農地が広がり、付近には護岸工事されていない自然なままの渓流も残っていて鎌倉郡・久良岐郡の原風景を今に見る事が出来ます。
学校では郷土史を教えて貰える機会は有りませんが…

この様に横浜市には歴史史跡が沢山あります。
皆さんが普段何気なく生活されている、この横浜市には交通の要所だった事から由緒有る御城がいくつか在りました。その御城が現在無くなっても殿様達が保護してきた神社や御寺が今も残っています。
戦国時代〜江戸時代の人が現代に伝えて下さった古代からの文化や歴史も神社や御寺の宮司様や和尚様が伝承として守って下さっています。
…もし横浜に愛着を感じたら、ちょこっと近所の御寺や神社、御城の跡を御散歩して、横浜市や鎌倉市の基礎を築いて下さった歴史偉人達に思いを馳せてみるのも風流かも知れませんよ。

そして、出来るなら現在の横浜市の行政と林市長が歴史史跡や貴重な自然の保護を怠っている事を調べて市長や役人達に政治態度を改める様に促して頂くか、この歴史と自然を皆さんで拡散して頂ければ幸いです。

乱筆失礼 久良岐のよし
>>[27] 訂正
※蓮華院阿弥陀寺バツ
※蓮臺山阿弥陀寺輪
トピあげ!
トピック説明欄から解説が始まります、以下順番にコメント>>[1]から御覧下さい!

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