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フリージャズコミュの領域を跨ぐ聴いた音、視た像

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Tomoko Mukaiyama at BIMHUIS


Woensdag 6 september, 22.30 uur

Bimhuis

Tomoko Mukaiyama - piano, video

Tomoko Mukaiyama , haar / haar (60’)
waarin opgenomen: Michiel Mensingh (nl, 1975), A Glitch in the Matrix (concept Tomoko Mukaiyama) (2005, 4’) (JS)


夏休みも終わり、通い慣れたアムステルダム中央駅裏側から700mほど歩いたBIMHuisに向かうのはほぼ二ヵ月半ぶりだ。

普通のジャズ・コンサートであれば9時を廻って始まり、45分ほどの2セットを挟んで20分ほどの休憩があり11時半ごろにはアンコールも済んでいる、という按配なのだが、この日は通常のジャズのコンサートでも一晩のフル・コンサートでもない。

この日のコンサートは現代音楽、インプロヴィゼーション・ミュージックのコンクールと今までのシリーズに関係した演奏者、作曲家をも招待して幾つかの会場で一週間ほど様々なコンサートが催されるフェスティバルの一環である。 下の450人収容の大ホールでは他のコンサートが9時前ごろから開かれており、それに合わせて10時半から300人程度収容のジャズ・ハウスでこのワンステージ・コンサートとなった次第である。

演者はピアノ演奏、作曲のTomoko Mukaiyama女史、1991年にこのコンクールで優勝後オランダ、日本を中心に活動しているのだそうだ。 もう3年ほど前に北の街、グローニンゲンのフリー、インプロヴィゼーションジャズ祭のオープニングコンサートで日本から招かれたグループのピアノを担当していたときに初めて耳にして作曲、時にはピアニカを演奏する日本人指揮者の下、ピアノパートのインプロヴィゼーション部分では印象的なピアノを聞いたのを記憶していたのでこの夜のコンサートに期待して夕食後、ゆっくり支度をして夜汽車に乗ったというわけだ。

この人のこの夜のプログラムは 「Haar/Haar(60’)」と題されていて、Haarはオランダ語で三人称女性所有格(彼女の)と、それにたまたま綴り、発音が同じ名詞(毛)を組み合わせた題となっていた。 60は多分60分だろうと想像した。 それにヴィデオとコンピューターでミヒル・メンシングにより作曲、操作された音響とのコラボレーションとプログラムにはある。

このような試みはジャズのコンサートではないことはないがあまり通常には行われないから、コラボレーション、コンテンポラリー・ミュージックの範疇に入るのだろう。 音楽を聴くものには勿論、その意匠、構造、音がもたらす空間、それにそれぞれの音楽体験とのすり合わせ、を通じて印象を形作りその音楽体験の意味を判断するのだろうが、わたしのこの日の眼目はピアノの両側に斜めに置かれた壁の半分のようなスクリーンに示される映像と音が交じり合うその効果のなかからどれだけ音自身が視覚効果に拮抗して自立を主張できるか、という点にあった。

それはこの20年ほど顕著になってきた視聴覚時代の「視」が音楽の世界で「聴」を浸蝕しつつある事を認識していることからくる。 音を音として捉えたいというものには眼は音に集中することを妨げるものとして機能する場合がある。 視覚の意味としての信号は音の信号より意味の種類が複雑に構成されており、もしかすると視覚の信号の方が音の信号より脳に対するインパクトが強いのではないか。 勿論、爆発音や通常レベルから突然の強弱が起こればそれでの注意が音に向かう事はあるがとりわけ動いて刺激する視覚は現代社会を睥睨するといっても過言でない感覚でもあるからだ。

現代音楽の試みの中ではこういうことは昔から行われている。 日頃、現代音楽を聴く機会の少ないものにとっては現代音楽と、ジャズの一領域であるフリー、インプロヴィゼーション・ジャズとの領域のすり合わせとしてのこのような試みは興味深いものだ。

暗いステージの中心、スタンウエー・ピアノが置かれたその両側に斜めに立てかけられたスクリーンにモノクローム・トーンで風に揺らぐ黒髪の大写しが続く。 演者が登場し、ピアノ前に位置し、暫く無音のなかに髪がゆらめく。

バッハの中庸速度の聞きなれたものが演奏されほどなくそれが変奏され、それが徐々に音の幅を持った単調な繰り返し音となりその繰り返しが少しずつずれていく。 フィリップ・グラスであれば機械的な繰り返しに響きがちだがここでは湿り気とでも言うべき響きが混じるようだ。

その音、響きもリズム、トレモロ、アルペジオと変奏していき、時には日本的旋律の部分を思わせる繰り返しともなる。

もうすでに髪の毛のそよぎはとっくに消えており音のセグメント、意識の流れの節目に挿入される映像はそれから音の意味を導くために機能すると想像する。 演者は60分のステージの中で周到に五線譜に書かれたものをその場面に応じて右に左にページを捲りながらもインプロヴィゼーションの空間は確保してあるようだ。 途中にはモーツアルト、ベートーベン、ショパン、ドビュッシーが挟まれ、時にはたゆたい、また激しく打ちつけ音の現在と過去を提示、つまり演者、作曲者の音の略歴、自我の旅路の提示という風に受け取られる厚生である。 事実、節々では女性の恥毛が浅い水の中でうごめき、女性性の提示だと見受けられるし、上腕部を上げ腋の毛髪を筋肉と一緒にする映像は音をささえる肉体の提示なのだろうと単純ながらも解釈できるようだ。

音と、生身の人間の過去、現在を示す中で、ショパンのゆったりとしたポロネーズ風の気分よさに身を任せていると突然、ハイドンの驚愕の例に倣ったかと言うべき耳を圧するスピーカーからの機械的連続混濁音が数分続き、以後、鋸をヴァイオリンの弓で擦るかのような音との混ざり合い、やがて力技の繰り返し音のパターンには腋毛とそれを取り囲む上腕、肩、胸の一部が大写しにスクリーン上で微かに動いている。

それも収まりやがて個人的にもここ何年も聞いてきたモーリス・ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調アダージョが流れてきたときには息を呑む思いだった。 そのピアノから楽譜に忠実であればフルートが加わる前あたりから徐々に変奏させて水のせせらぎを思わせる響きに変化させていく。暫く続くとこの段階では先ほどのラベルもすでに一時の夢かとおもわせるほど19世紀は彼方に消えて、 ジャズプロパーからするとフレーズの呪縛に絡まれたこのような70年代のダラー・ブランド、キース・ジャレット的なトーンが示される。 それが昂じてそこにコンピューターで合成された音が加わり、催眠効果を醸し出しピアノはここぞとばかりフォルテッシモで微かに繰り返し響きの移動を試みるとピアノフォルテからオーケストラの響きが立ち上がりクライマックスに至るようだ。

漸次トーンが強から中庸。弱に至ると最初に聞いたバッハが現れそれも消えると画面は灰色の画面に放送終了後のごま塩画面とノイズが流れそのうち徐々に強くなりそれは髪を打つシャワーの水音であることが分かる。 その音のに耳を傾けているとそこには演者はすでにステージから消えている。

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