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日本の民俗学コミュの馬見古墳群(築山古墳群を含む)と葛城氏、物部氏、中将姫に関する伝承など

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大和高田市の築山古墳について、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%89%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3_%28%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B8%82%29
{特に折口の築山古墳に対する愛着は尋常でなく、当麻寺参詣と共に度々訪れ、自分を蒲生君平、伴林光平、川路聖謨に続くと「新撰山陵志」(昭和13年12月『紀元二千六百年』第一巻十二号)に書き、古墳がある築山の里を「尊い地」、「聖地」とまで書いている。「古い由緒を伝える村」と書いていることから、何か伝承を見聞していた可能性がある。また、「帝室陵墓伝説地」に築山古墳が指定された折、「狂喜した」と言っている。}
とあり、
{また、明治時代に黒石山の古墳の盗掘嫌疑で村人の事情聴取が行われた(結果無罪)が、小さな古墳の被葬者の名でさえ、その時は忘れられていたが、元々言い伝えがあったことが判る。築山古墳に関係する家伝等の調査が望まれる。}
ともあります。
伝承を御存知の人がいらっしゃれば、聞きたいと思うのですが・・・

葛城と古代国家
http://www.amazon.co.jp/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E3%81%A8%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E5%AE%B6-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%96%80%E8%84%87-%E7%A6%8E%E4%BA%8C/dp/406159429X

馬見古墳群
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%A6%8B%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4
の近くには、竹取物語の舞台と言われる広陵町の讃岐神社もあり、またかぐや姫のモデルとも言われる中将姫が高田川を通り、築山を通って当麻寺に入ったという伝承もあるようです。

竹取物語の作者は誰か?
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_4949.html
かぐや姫のモデルは中将姫様?
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_a2d4.html
「大和高田市を流れる高田川には中将川との別名がある。中将姫は船で、高田川を使って移動、安部村に上陸、築山古墳のある築山村に滞在した後、当麻寺へ入ったとの伝説がある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B0%86%E5%A7%AB
十一面観音を求めて美濃の願成寺へ
http://ganjouji.web.infoseek.co.jp/chujou2.htm
何故か岐阜から愛知に中将姫様の曼陀羅が「飛んだ」(天の岩戸が戸隠に飛んだみたいに・・・)
http://blog.goo.ne.jp/goodream-duck/e/02d98aabd87b7f7153c79945efb46605
十一面観音=白山滝神=瀬織津姫様
http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_plain?base=549&range=1
http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_plain?base=548&range=1

中将姫が逃れた岐阜・愛知はニギハヤヒ系の物部氏の勢力地でもあったようです。
継体天皇とうすずみ桜―古代秘史『真清探当証』の謎 (伝承が語る古代史IV)
http://www.amazon.co.jp/%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%99%E3%81%9A%E3%81%BF%E6%A1%9C%E2%80%95%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E7%A7%98%E5%8F%B2%E3%80%8E%E7%9C%9F%E6%B8%85%E6%8E%A2%E5%BD%93%E8%A8%BC%E3%80%8F%E3%81%AE%E8%AC%8E-%E4%BC%9D%E6%89%BF%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%8F%B2-%E5%B0%8F%E6%A4%8B-%E4%B8%80%E8%91%89/dp/430922220X
444年八月五日、安康天皇が従弟の眉輪王に暗殺された。
皇弟の大泊瀬(おおはつせ)幼武(わかたけ)王は
群臣がまだ天皇の死を知らないのを幸いに、画策をめぐらした。
皇位継承の第一候補は、履中天皇の第一皇子、市辺押磐だった。
大泊瀬王(後の雄略天皇)は市辺宮を狩りに誘って、
野宿している軽装の市辺宮を急襲、惨殺した。
(ここまでは日本書紀と同じである。)

身に数十箇所の傷を負いながら、一人の家臣が宮宅に辿りついたのは午後4時頃だった。時に市辺宮は四十二歳、二人の皇子はまだ八歳と七歳だった。
ここからは、真清探當證に秘められた真相。
稚児たちの母(はえ姫)の兄に当る葦田宿禰(武内宿禰の孫で黒田神宮の宮司)を頼り、一行は尾張へ落ちのびた。
この二人の稚児が、億計(おけ)王(後の仁賢天皇)、弘計(をけ)王(後の顕宗天皇)である。

八月十五日夜(旧暦十五夜なので満月)、黒田神宮にあと一里半あまりの松ヶ枝郷で、一行は野宿する事になった。稚児たちは寂しい森の中で寝るのは嫌だとだだをこねたので、ここは黒田だけれども、夜中なので皆寝てしまっている、明日早々在所を尋ね出すからとなだめすかした。これが籠守(こもり)勝手(かって)神社と地名の黒田の起源である。
翌日、黒田神宮につくと、稚児たちは、ここはどこだと問いただした。そこで、ここも黒田だとは言いにくいので、真の黒田大神だと答えた。以後、真黒田大神と称した。(後に稚児が皇位についてからは真清田神社となった。)

当時の真黒田神社の森は、飛騨位山と同じく櫟(いちい)で覆われていた。
稚児たちは九月末から十月にかけて、櫟の実を拾って遊んだ。

451年春、十五歳になった兄のオケ王は、もともと草花の栽培などが好きだったので、八十八夜明けの苗代田に籾種をまいた。王が農事をはじめて営んだのはオケ王が最初とされる。この年と翌年は大豊作だった。そこでオケ王は自ら稲穂と鋤を取り真黒田大神へ楽を奏した。これが真清田神社の九月十九日の太々神楽の起源とされる。葦田宿禰の娘の春日媛は豊年歌を歌いながら踊った。これが盆踊りの始まりという。

兄が草花などを好んだのに対し、弟のヲケ王はとても力持ちで、土器の製作という変わった趣味があった。
457年、二十歳のヲケ王はとてつもなく大きな素焼きの瓶壷を焼き上げた。
皇太子として大和に帰還する際、この壷を持ち帰り、大嘗祭執行の際、忌部に命じ、この瓶壷を使用したという。これが石上神宮の宝物となっているという。陶器の質を尾張一宮の押場と比べれば分かるという。

467年七月、雄略天皇が崩御、翌年正月、清寧天皇が即位した。
二人の皇子は三十一歳と三十歳になっていた。

470年、四月から五月にかけて大日照りに見舞われた。
例年この時期は降雨が多いのに、この年は大旱魃で田植えができなかった。
そこでオケ王は真黒田大神に雨乞いするため高須賀山の梅林に入り祈願した。
すると雨が降り、以後、真黒田大神は雨乞いの神として評判になった。
天皇即位後も、梅園を設け、真黒田大神に降雨を祈願し銅鐸を鳴らすのを定例とした。これを入梅と名称した。

471年、皇太子のない清寧天皇が病に伏したため、
故市辺押磐の皇子を皇太子とする事になった。
この時、二人の皇子の姉である飯豊青媛も、叔母の下女として隠れ住んでいたが名乗り出た。
オケ王は、自分が天皇になるとそれぞれに苦労して来た姉や弟は報われないと思い、皇位を弟に譲ると言って聞かない。その間、姉の飯豊青媛が摂政とし、474年に崩御するまで君臨した。翌年正月、弟のヲケ王(顕宗天皇)が即位、487年に五十歳で崩御した。

ヲケ王の子でありながら、村人の子となって山奥に隠れ住んでいた男大迹(おおど)王(後の継体天皇)も、目子(めのこ)媛と結婚し、勾大兄(まがりのおおえ)皇子(後の安閑天皇)と檜隈(ひのくま)高田皇子(後の宣化天皇)が生まれた。なお、「めのこ」というのはオオド王の隠棲した山奥で女性の事だが、これはアイヌ語でも同じである。

488年、兄のオケ王(仁賢天皇)は即位式と同時に大嘗祭も施行と発表、雄略天皇の迫害を恐れて諸国に散在潜伏している宮宅があれば旧位に復し大嘗祭参列を許可するいう勅旨を国主を通じて発布した。ようやくヲケ王の子オオド王も大和の布留山に入った。これが大嘗祭の初めである。この時オオド王は、真黒田神社から桜を持参し、紫震殿の左側に植えた。オケ王、ヲケ王の弟の橘王は右側に橘を植えた。こののちオオド王は左近衛職に、橘王は右近衛職になった。そのため、これが後世まで伝わる左近の桜、右近の橘の始まりになったという。

後に継体天皇の第三皇子欽明天皇は、父の霊を尾張に奉祭し津島神社(創立時は天王社か)を創始した。欽明天皇までは、大嘗祭の祭神は尾張一の宮・真黒田神宮だった。

真清田神社の史書からは、ちょうどこの時代の記述だけがすっぽり抜けている。
「万世一系」という嘘の「歴史」を藤原不比等がでっち上げ、真正の史実を抹殺・弾圧して来たためと思われる。明治政府も国家神道で万世一系神話を受けついたので、戦中もとうてい、真正の史実は出せなかったのである。なお、真清田神社からは、宮中で失われて久しい久米舞の歌詞が見つかって話題になった事がある。

また、日本書紀では、オケ王妃の春日媛は葦田宿禰の娘でなく父の仇・雄略天皇の娘となっているが、無理のある話である。

白石太一郎「古墳とヤマト政権」(文春新書)によると、
「継体天皇は、応神天皇五世の孫とされているが、
文献による古代史研究者の中ではこれを疑問視する意見が多い。
継体の妃の出身地などから、近江や尾張、さらに越前など畿内東辺の
勢力によって擁立された大王と考えられている。」という事で、
これも「真清探當證」の話を裏付ける事になります。

雄略朝と二朝並立
http://www.mctv.ne.jp/~kawai/vtec/arc/kodai/22rongi.html
古事記における欠史十代
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A0%E5%8F%B2%E5%8D%81%E4%BB%A3
葛城氏の女たち
http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/sizoku/kazuragi.htm
葛城氏 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E6%B0%8F
門脇 禎二「葛城と古代国家」(講談社学術文庫)
http://www.amazon.co.jp/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E3%81%A8%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E5%AE%B6-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%96%80%E8%84%87-%E7%A6%8E%E4%BA%8C/dp/406159429X
飛騨高山王朝は神武天皇に位を授けるニギハヤヒ系
http://www.gainendesign.com/taizan/jinjya/jinjya009minashi/minashi.html
「日高見の国」と呼ぶのは高見産霊神様の系統だからか(吉野の高見川も関係?)
http://homepage3.nifty.com/araebisu/a/kodai/hitakami/hitakami.htm
旧唐書では、倭国と日本は別の国とされている
http://classic.music.coocan.jp/book/furuta/kutoujo.htm
谷川 健一「白鳥伝説」(小学館ライブラリー)
http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=4951744&id=649700

近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の分布
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku02a.html
銅鐸の分布
http://www.yu-ji.com/dotaku.htm
銅剣、銅戈、銅矛
http://www.yu-ji.com/douken.htm
銅鏡の分布
http://www.yu-ji.com/doukyou.htm
古墳の変遷
http://www.yu-ji.com/kofun.htm
邪馬台国、出雲、吉備、ニギハヤヒ朝などを知る手がかりですね。

加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/3574/kojinkamo.htm
「従来、銅矛は九州文化圏の象徴、銅鐸は近畿文化圏の象徴と言われており、銅鐸と銅矛が同時に出土する事はありませんでしたが、荒神谷遺跡から初めて銅鐸と銅矛が同じ場所から発見されました。」
これは国譲りの儀式の場だったのかも知れません。

こういう推測も可能です。

(弥生時代中期)
銅鐸、大阪湾型銅戈:ニギハヤヒ朝
銅剣、銅戈、銅矛:騎馬民族王朝

(弥生時代後期)
四隅突出墓:出雲、丹波王国、越
二突起墳丘墓:吉備
銅矛:騎馬民族王朝
銅鐸:ニギハヤヒ朝

(〜弥生時代後期、中国の後漢〜三国時代〜晋)
漢式銅鏡:騎馬民族王朝
三角縁神獣鏡:真正ヤマト

美濃・尾張の古墳分布
http://www.inuyama.gr.jp/ssinfo/contents/aotsuka/shinpo/zenpokohenfun_nenzu.html

真正ヤマトと崇神朝の断絶
http://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/kantouzusetu/zusetu4.html

真説日本古代史
http://www2.plala.or.jp/cygnus/

ここまで考古学的資料や、それを研究した諸説が出ているので、
あとは馬見古墳群・築山古墳群に関する伝承があれば、
真正の史実を解明できそうな気がするのです。

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