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国木田独歩コミュの独歩考(2)

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国木田独歩文学論ー 連載 2/5

西行法師と独歩

「世の中を夢と見る見るはかなくも猶おどろかぬ我がこころかな」

独歩が「欺かざるの記」に上記の西行の歌を引いている。(明治30年1月13日記)
「一昨夜弟の下宿せる宿屋に一泊せしがその夜半、突然めざまし時、この生命と存在とを驚異する
の恐ろしき力もて心を衝きたり。ああ願ふ。常にかく驚異せんことを。
世の中を夢と見る見るはかなくも  なほ驚かぬわがこころかな
ああわが願いは驚異せんこと也。
ああわが心のなやみはわが心の眠り居ることを自覚せる事なり。吾が心の誇はこの自覚なり。されど
わが心の悲はこの自覚なり。この自覚なくして驚異の念の少しだに起る理なし。驚異の念少しもなくし
て宗教的信仰ある道理なく詩的熱情ある道理なし。ああ夢想の人々よ、夢里にありて敢て宗教を語る
人々よ、詩を語る人々よ、哀れむべきはこの種の人々にぞある。
げに人生は不可思議なるかな。ああわが心よ高くさめよ。深く感ぜよ。」(以下の文章省略)

また明治30年に出版された『抒情詩』「「独歩吟」の巻頭詩は「驚異」と題され

ゆめと見る見るはかなくも
  なほ驚かぬこのこころ
吹けや北風このゆめを
  うてやいかずちこのこころ

をのの立ちてあめつちの
  くすしき様をそのままに
驚きさめて見む時よ
  其時あれともがくなり

と歌い、西行の歌をそのまま引用している。 



独歩研究家の中島礼子氏は、、この日記を、こう解釈しておられる。
[ それは、また、西行においても事情はおなじであった。西行は・この歌に「覚醒を願う心」や「万
有に宿る生命の不思議」・「自然のいのちの鼓動を直観するこころ」などをこめていたのである。独歩
は、「個人感」・「シンシりテイ」を「驚異」の詩想や理念として、独歩固有の哲学にまでたかめてい
く。驚くことによって感得した生命観は、独歩文学のライト・モチーフとして、さきに論処したよ
に・「平等」・「ヒュマニティー」・「小民」意識の根底をつらぬいていった。「欺かざるの記」にみられ
る「驚異」・「平等」・「ヒュマニティー」・「小民」などは、天地間におげる生命という共通項をもつ固
有の詩想としてとらえられる。 「驚異」を独歩固有の哲学とすれば、西行においても「おどろかんと
おもふ心」は西行歌のライト・モチーフの根源であり、西行の歌の生命詩としての本質を示すもので
あった。 、
自然とひたむきに対面し、その自然を内省的に媒介しつつ、<山里> (<隠遁>)または「山林」
の なかに、自己同一性をもとめて真実の自由な生をつらぬこうとする詩想は、げっしてネガティブな
生ではなく、かえって、ポジティブな生のありかたとして・あらためて再評価されてよいであろう。
独歩は「遺伝に於て吾等は天保老人の血を体中に流し、東洋的情想を胸底に燃やす。学文に於
て吾等 は欧州の洗礼を受げたり。吾等が小さき胸には東西の情想、遺伝と教育とに由りて激しく
戦ひつつあり。朝虹を望んではヲーズヲ一スを高吟すれども・暮鐘を聞ては西行を哀唱す。」(「独歩
吟」序)と自己のなかの東洋と西洋の並存・葛藤について記している。かれは、ワーズワース・カー
ライルエマーソンから強い影響を受けたとみずから記している。しかし、 「欧州」の「学文」で装われ
てはいても・独歩がョ欺かざるのにおいて自己の青春をかけて追究しつづげたものは西行が<隠遁
> <山里)おいて追究しようとしたものにきわめて近縁なものを潜めていた、といえるのではな
だろぅか。独歩は、ひたむきに追いもとめたイデアの世界を現実化しぅる場がもとめられないとわか
ったとき、 「世外の人」でなげれば生きていげない自己を確認したのである。ここに、作家・独歩の
誕生への道を読みとることができるだろう。                                                
独歩の「社会感」の否定・「個人感」・「シソシリテイ」・「驚異」志向と西行の八隠遁)とは、とも
に、社会を相対比し、自然的存在としての生命を絶対的なものとする価値意識にささえられている。
それほ、 「内面的な価値志向の変革」および「生命の肯定」を意味するという点で相似のものがあろ
ぅ。また、西行の八隠遁)が八山里)を不可欠の場としたよぅに、独歩が「個人感」・「シソシりテ
イ」・「驚異」に生きるため肛は「山林」を必然的な場とした。しかし、独歩の現実には、 「山林」は
ありえなかった。 「山林」をもとめて、北海道開拓計画を企てはしたが、信子との恋愛・結婚などの
諸事情により、実現しなかった。たとえ、その計画を阻む事情がなかったにしても、独歩みずから、
その人生の「天職」を「読書と沈思と祈禧」や「筆を執る」ことに想定していることを思いあわせる
と、その計画は、独歩が後肛記しているよう肛、しょせん、「夢想」肛近いものであった。「山林」の
欠落した「個人感」・「シソシリテイ」・「驚異」には、その志向を持続できる現実の場がなく、現実に
は有効性をもたなくなる。そして、すで肛否定しさったと思われていた「社会感」が頭をもたげてく
る。かれはそれ肛苦悩しなくてはならない。かれは、ここ肛、二重の意味での「驚異」 天地の間
に生命を見出し「生命の大本を直視一したぃ、「社会惑一から眼を覚ましたい- を願う。そこに、
西行の「世の中を夢と見る見るはかなくも尚驚かぬ我心かな」を引用する必然的な理由があったの
であろう。
                                ( 国木田独歩/明治書院/昭和63年刊 )
西行法師について簡単に触れておく。
「本名佐藤義清(のりきよ)。平安末期の大歌人。山里の庵の孤独な暮らしの中から歌を詠んだ。
幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)となる。
西行は御所の北側を警護する、鋭部隊「北面の武士」(一般の武士と違って官位があった)に選
ばれ武士としても実力は一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」の達人だった。
武勇に秀で歌をよくした西行の名は、政界の中央まで聞こえていた。文武両道で美形。華やかな未
来は約束されていた。しかし、西行は「北面」と1140年、22歳の若さで出家する。
出家の理由は複数あって、(1)仏に救済を求める心の強まり(2)急死した友人から人生
の無常を悟った(3)皇位継承をめぐる政争への失望(4)自身の性格のもろさを克服したい(5)“申
、こうした様々な感情が絡み合った結果、妻子と別れて仏道に入ったようだ。阿弥陀仏の極楽浄土
が西方にあることから「西行」を法号とした。
“出家”という行為自体は珍しくないことだが、西行が官位を持っていたのにそれを捨てたこと、しかも
まだ20歳過ぎで若かった点などから人の注目を集めたらしく、時の内大臣・藤原頼長(後に保元の乱
で敗死)は日記に「西行は家が富み年も若いのに、何不自由ない生活を捨て仏道に入り遁世したと
いう。人々はこの志を嘆美しあった」と記している。西行が延暦寺など大寺院に出家したのではなく、
どの特定の宗派にも属さず地位や名声も求めず、ただ山里の庵で自己と向き合い、和歌を通して悟
りに至ろうとしたのも通常と異なっていた。」

以上は、インターネットで紹介された西行の紹介記事の要約であるが、中島氏のいうような「驚き」
の共有は歴然としている。独歩の詩情は、よくいわれるように、ロシア文学や外国文学の影響が指
摘されているが、それにもかかわらず、純日本風な自然観、人生観がなければ、そうした影響も独
歩文学として花ひらくことは、なかったであろう。

(写真は北海道赤平市にある独歩碑)



               


コメント(1)

きょうも難しいお話をありがとうございます(笑)

わたしも 西行法師が 容姿端麗だと聴いて? ちょっと興味をもちました

妻子を捨てて出家?  ひどいな〜と思いましたが・・・・

西行を語る文献には、出家時のことを「妻子を捨てて出家した」とだけ書いているものが多い。これのみでは彼がとても冷たい男に見える。実際にはちゃんと弟に後の事を頼んでいるし、こんな後日談もある。出家の数年後、京を訪れた西行は、5歳になったはずの娘が気になって、こっそり弟の家の門外から中の様子をうかがった。ちょうど子どもが遊んでいて、髪が伸びて可愛らしく成長していたんだけれど、彼を見るなり「行きましょう。そこのお坊様が怖いから」と中に入ってしまった(これはツライ)。この娘は後に有力貴族九条家の娘・冷泉の養女になって西行も喜んだが、冷泉が嫁いだ時に相手の夫が自分の侍女にしてしまったので、「娘を養女に出したのは小間使いにさせる為ではない!」と西行は彼女を連れ出して妻の所に戻したという。西行は妻子のことをずっと見守っていたんだ。

ちょっこと調べて見たの  なんて優しい人なのでしょう(^−^)

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