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岡本太郎 原理主義コミュの爆発思想の裏づけ

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1 キリスト教を中心とする西欧的思想の限界

 過去 現在、未来という直線的時間の概念、進化論的歴史観、万物の根源を物質の最小構成単位を追求することによって求めようとする西欧的認識論は、あらゆる局面で破綻をしている。人類有史以来の生命の本質、宇宙の姿は未だに解明されていない。

 しかしながら、西欧の思想の歴史において、上記のような直線的、進化論的、最小構成単位を求める認識手法をとることなく、真理に近づこうとした者たちも少なからず存在した。ユダヤ教やキリスト教など、聖書を出発点とする思考、世界観、認識論が支配的な欧米において、極めて異端とされた、その手法は、宗教が提示する「思考の停止」や「御伽噺」に反発しながら、時には狂人扱いされながらも、現代に脈々と続いている。

 「神は死んだ」と初めて、神の死亡通知を記したニーチェの思想は、西欧の思想史上、極めて重要なターニング・ポイントとなっている。ニーチェの生きた19世紀において神を否定することは、現代に置きかえるなら、「私が神である」と公言するに等しく、社会生活上、極めて孤独な状況を招いたに違いない。宗教の本質は、人間の思考を停止させ、哲学的思想を否定するものである。「人生とは? 命とは?」といった存在の根源への思考を停止させ、「宇宙は、この世は、神がこのように造ったのだから、あれこれ考えたり、悩んだりしないで、黙って信じなさい」というのが宗教の本質の一面である。

 宗教で救われる人間は確かに多いが、宗教の功罪とは別に、宗教の語る世界観は必ずしも「真理」ではない。当時、ニーチェが思い悩んだ一番の社会風潮は、ニヒリズムだった。形式主義・権威主義に傾いていた教会は、必ずしも、民衆を救う手立てとはなっておらず、一部の特権階級のみが富を享受していた。不平等や貧困にあえぐ者に宗教が言ったことは「今の命がすべてではありません。死後の神の国を希望に生きていきましょう」ということであり、この後に「だから、現世の不平等に文句を言うことなく、よく働きなさい。特権階級のために」という意味も込められていた。

 スペインの映画監督で、シュールレアリズムの旗手でもあったマン・レイは、映画「アンダルシアの犬」の発表時、「ヨーロッパのどんな貧しい村に行っても、必ず村の中心には教会があり、その建物は村の中で一番豪華である」と語っている。

 このことは、欧州社会がいかに教会中心に成り立っていたかを物語る。日本人にはなかなか理解するのが難しいが、少し前までの欧州では、生活のすべての基本が宗教的ものに基づいていたのである。日常生活のおはようから、おやすみまで、そして、経済的活動、文化的活動の規範はすべて宗教であったのだ。

 ニーチェが生きた時代は、このような社会的背景により、彼によれば「極めて小市民的根性、生きながらの自殺」という「どうせ何をやっても無駄」的なニヒリズムに満ちていた。それに対しニーチェは、神を否定するという「能動的ニヒリズム」によって、高らかに生の復権を唱えたのある。

 この生の復権のために、彼が持ち出したのが「力への意志」という思考であるが、後のヒトラーによって、悪用される。ニーチェが望んだことは、欧州を覆い尽くした受動的ニヒリズムの破壊であって、そのためのエネルギーとして「力への意志」を唱えたのであり、それは人生を力強く生きるための原動力であった。この原動力は世界を武力で征服するヒトラーの思考とは目的が違っていたのは明らかである。

 一方、ニーチェの「力への意志」という、それまで欧州になかった思考は、20世紀になって、ジョルジュ・バタイユを筆頭とする思想家・芸術家集団コントル・アタックに引き継がれる。

 ニーチェが唱えた「力への意志」、シュール・レアリズムの「無意識の世界」と変化を遂げた欧州の非宗教的思考は20世紀後半において、多彩な思考を生み出していったのだ。その思考に、もはや主役としての神の姿はなく、あくまでも主人公は生身の人間となっている。このことは、18世紀のキリスト教社会では考えられなかったことである。

 バタイユは、生と死が生み出す「エロチシズム」を思考の中心に据え、小説家マルグリット・デュラスは、性の力を作品のテーマに据えている。興味深いことに、この20世紀を代表する思想家バタイユと、作家デュラスの思考は、それまでの、または現在でも続いている、「対象をとことん突き詰める」という西欧の思考パターンから逸脱している点である。

 西欧の思考、理性、あるいは科学的思考は、対象物を徹底的に突き詰めることで、本質を捉えようとする特徴がある。例えば、人間は細胞から出来ていて、細胞は分子と原子から出来ていて、その先は素粒子があって・・・といった具合である。

 しかし、バタイユもデュラスも、そういった認識論の立場はとっていない。彼等は「人間と何か?」「何故存在するのか?」といった問いかけはせずに、今、生きている我々が感じられる感覚すべてを使って、真理を感じ取ろうとしている。明らかに限界が見えてしまっている西欧的理性に別れを告げ、生命体としての機能で真理をつかもうとしているのだ。

 これは日本の禅に通じるものがある。禅では、一切の知識を邪魔なものとするが、バタイユの小説でも、デュラスの小説でも、主人公は皆、「死や性」といった国籍や言葉、文化の違いを超えた普遍的なものを手がかりに、真理をつかもうとしている。

 しかも、バタイユにおいては「生と死」「禁止と違反」、デュラスにおいても「男性と女性」「生と死」という2つの関係において、「何か」を体感しようとしている。ものごとの本質をそれ単体において追求しようとするのではなく、様々な関係において、本質を捉えようとする認識論、認識という言葉が正しくなければ、体感論といえるだろう。

 おりしも、20世紀物理学の世界では、相対性理論、不確定原理、量子物理学といった、相対的認識論が台頭している。光は粒子でもあり、波でもあるといった、古典的ニュートン物理学的認識論では、到底理解できない認識が、正しい世界の姿となっている。もはや、玉葱の皮をむくような認識では、世界は把握できないことが判ってしまったのである。

 ノーベル賞物理学者アインシュタインは、晩年にアジア、特にチベットを何度も訪れているが、このことは彼が旧約聖書の世界観に満足していなかったことを示している。

 かくして、存在の真理に何らの答えを出せなかった西欧的思考は、西欧人自らの手で葬り去られようとしている。



2 自我の崩壊とクジラを食べるな発想の関係

 自我とは、主体性とは、僕達人間がものを考え、あらゆるものに意味を付与する、思考の中心である。しかし、フロイトの精神分析学によって、「無意識の自我」が発見されると、僕達の自我はとてもあやふやな存在になってしまった。理性的に、理知的に考えて行動していると信じていたことが、無意識の力に大きく左右されていたことが発見されてしまった。

 追い討ちをかけるように、レヴィ・ストロースの「文化人類学」によって「文化的無意識」も発見されてしまい、西欧的自我は、中心的な位置付けを失ってしまったのである。裸で砂の上を駆け回る原住民を多くの西欧人は、自分達より劣っていると考えたし、満足な機械文明を持たない社会を「遅れている」と考えた。しかし、文化人類学の研究が進むにつれて、文化を遅れている、進んでいると、単純に考えるのは過ちであると、気がついたのである。
 一番の過ち、すなわち、傲慢は、世界各地の文化と民族を滅ぼしたキリスト教の布教、伝導であったが、これらの過ちは、すべてなくなったとは、未だに言えない。僕達、日本人もテレビの画面の中で、粗末な小屋に住み、電気も水道もなく、腰ミノだけで歩く民族を「遅れている、劣った社会」と無意識に考えている時はないだろうか? 「文化的無意識」かくも僕達の心の奥深くまで、浸潤してしまっている。

 このような自我の崩壊に、言語学で始まった構造主義がとどめを刺した。すべての単語が主体、そのものを意味するものではなく、構造的に意味されるものであるという発見は、言葉と切り離せない人間の理性・知性、果ては、理知的で進歩的とされた現代ヨーロッパの思考に死を宣告したのである。もはや、フランスも欧州も世界の中心でも、最先端でもなくなってしまったのである。

 一世を風靡したサルトルの実存主義も色あせたものとなる。サ
ルトルの実存主義思想は、このような思想の激動期に消え去って行く。ファシズムや人間疎外と真剣に向き合ったはずの実存主義も、身勝手なヨーロッパの驕りでしかないことを、ヨーロッパ人自らが気づいたのであった。サルトルの著書「嘔吐」の中で、主人公は公園のマロニエの樹と自分の存在が何ら違いのないことに気がついて嘔吐する。
 そう、欧州人は嘔吐するのである。山寺に座って万物と自己の同一性を見出して安堵する日本人とは、決定的に思考が異質なのである。

 キリスト教に培われた彼等の思考の本質は、自然を不浄とし、神の子として選ばれた人間が中心の16世紀の教会の教えから、未だに解き放たれてはいない。ポスト・モダニズムも、所詮どこまでも人間中心主義であり、反・人間中心主義、反西欧中心主義、反・ロゴス主義という特徴を持ちながら、これといった主義や主張が現代思想に生まれてこないのは、そのことが原因であろう。ポスト構造主義とは、その程度のものである。

 フランスでは哲学書がベストセラーになったりするのであるが、「クジラを食べるな、イルカを殺すな」という黄色い声を聞くと、現代は、アメリカ人が一番思い上がっている。彼らに言わせれば、世界の中心はアメリカで、アメリカがどこまでも正しいのだ。

3 ノン・サヴォワール(非知)は形而上学を越える

 ノン・サヴォワールは、無知ではない、非知である。バタイユの言葉を借りるなら<non-savoir>である。非知はその究極の地点において主体性や主観、ロゴスの消滅する領域である。この領域は、音楽や踊りスポーツや武道、果ては性交にも現出する。
 ジャック・マイヨールが数百メートルの深海で体感すると語った領域や、宇宙飛行士が宇宙で体感する領域に通じる。ロゴスが消滅するトランスという世界を中心に据えるということは、ロゴスを前提とする形而上学に批判を与えることになる。デカルトの言った「われ思う、故に我有り」という言葉を究極の領域は否定するのである。

 もっとも、形而上学という名称は、アリストテレスの『形而上学』に初めて見られる。形而上という考えをより明確に示したのは、ソクラテスであった。ソクラテス、当時のギリシアのソフィストの相対的かつ主体的ものの考え方が、やがてポリス社会の解体を招くと危惧していた。その彼が、他人との対話を通して、つまり「問」(ディアロゴス)を通して、人間の理性を通して、客観真理を見出そうとしたした頃、形而上学の基礎が築かれたといえる。

 ソクラテスの考えは、彼の弟子であるプラアトンによって継承される。彼は著書『国家』において、世界をイデア界と現実界に分けて説明している。要約すると、真実・真理のイデアというものがこの世の中にはあり、人間はロゴスによって、その真理をしることができるとしたのである。二元論の始まりだ。

 この形而上学的思考は、その原理において、密かになんら根拠のない価値序列を持ちこんでいる。形而上学はそのニ元論的性格からして、様々な存在物の中で、「AはAである」という類の同一性を求める。例えば、「人間=人間」という等式を考えた場合、「人間の定義・同一性」は、特定の価値観をもとに考えられている。首座にあるのは、常に人間であり、どういう風な生き方は人間らしくないといった、価値の序列がある。いわば、人間的と非人間的といったような序列である。

 このことは、「常に自分は自分である」「自分という存在の確かさを原理とする<コギト>から、思考が出発するために、常に人間中心という価値観も持ち込んでしまった。

 非知は無知とは違う。知が消える「非ー知」の領域である。非知の状態にある者に自分という思考は消えている。もちろん、人間中心の思考もない。<コギト>も消え去ってしまう領域なのである。

コメント(5)

>バジル
ごめんなさい。管理人のわたくしの、芸術思潮です^^
難しい難しいけど...(苦笑)奥深い・勉強になりますね。
読んでいて引き込まれる・もっと深く知っていきたい・考えていきたいと思いました。。。。

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