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メトロポオルコミュの暑中お見舞い申し上げます。

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去年はこんなに暑かったっけ?と思うほど猛暑が続いておりますが
熱中症には皆様くれぐれもお気をつけ下さい。
うーん、なんかちょっと変かも・・・と思った時には遅いらしいので
早め早めの水分と塩分補給もお忘れなく。
駄菓子屋にもしょっぱいお菓子や珍味類がたくさんありますよー(^o^)/

今日は、最近とても感慨を受けた記事がありましたのでご紹介します。
某新聞に掲載された駄菓子屋を営む内山雅代さんのお話です。
あれ〜、この駄菓子屋さん見た事あるなぁ・・・と最近めっきり自信のなくなった記憶力を辿ってみたところ、
映画「今度は愛妻家」に登場していたのでした。
主演の豊川悦司が「くるくるボーゼリー」を実際に買うシーンもありました。


「鬼子母神が守る駄菓子屋 」
1781年創業の13代目、昔ながらの子供の風景残る 内山雅代
2012/7/17付

東京・雑司が谷の鬼子母神(きしもじん)境内で、駄菓子屋「上川口屋(かみかわぐちや)」を営む。創業は江戸時代の1781年、私は13代目の店主だ。

緑多く、広い境内は子供の格好の遊び場。ここに集まる男の子や女の子が上川口屋のお得意さんだ。私は62年もこの地で店をやっているので、常連の子供たちが大人になる姿を見続けてきた。

 親になると、安産・子育(こやす)の神様として知られる鬼子母神に幼子を連れて参拝に訪れる。その折に「おばちゃん、私を覚えてる?」と店に顔を出してくれる。時を超えて出会いに恵まれる、この喜びを何と表現していいか分からない。少子化、食の多様化と逆風にさらされてきたが、店を続けてきてよかったんだと心から思う。

●嫌で何度も家出

 もともと、望んで選んだ道ではなかった。1950年、10歳の頃の出来事を覚えている。「責任をとれ!」。上川口屋の12代目店主の叔母が、川崎球場の裏手にあった私の実家に叔父を使いに出した。私を連れだしにきた。

 子供がいなかった叔母は戦前、私の父を養子にした。店を継がせるつもりだったが、若かった父は早々に「駄菓子屋なんて男がやるものじゃない」と家を飛び出してしまった。その時の約束で女の子が生まれたら養子に出すと決めたらしい。私は叔母に引き取られた。

 嫌で嫌で、仕方がなかった。私の仕事は駄菓子の仕入れ。朝4時に起きて都内の日暮里の問屋に毎日通った。夏は飲料など水ものがよく売れたので、風呂敷は重かった。

 学校には行かせてもらえた。「お菓子が食べられてよいねえ」と同級生は羨むが、逆だった。「つまみ食いは店をつぶす」という上川口屋の家訓があって、こわれた菓子を見つけては「食べていいでしょ」と義母にせがむのが関の山だった。

 私にだって将来の夢がある。何度も家出して実家に帰った。そのたびに義母に連れ戻された。

●店番のための人生

 私は18歳から和裁を習い始めた。いつか独立しようと思って。反抗の手段だったはずのものが店を救う。1960年代半ばから上川口屋の経営が傾き始めた。子供が駄菓子を求めなくなった。メーカー製の甘くて安価なキャラメルやガムが商店に大量に並び、お客をとられた。和裁で稼げたので、その収入で義母と私は何とか生計を立てた。

 それでも義母は店をたたまなかった。私の結婚は70年、30歳の時と当時では遅い。20代から縁談話はあったが、義母が店を守るために「婿養子」の条件を付けたので進まなかった。結婚時、義母は婿養子を諦めたものの、「店を毎日手伝うこと」を私に約束させた。

 その誓いを私は守った。新居を構えた横浜市から毎日、バスと電車を乗り継いで通った。早朝に出て、帰宅は深夜。休みは土砂降りの雨の日だけ。辛(つら)かった。産んだ子供が小学生に育ってからは、店に併設された20坪の住居空間で子供と義母と暮らすようになった。

 子供は鬼子母神近くの学校に通わせた。夫はさみしかったと思う。私たちは週末しか家に帰らなかったから。子供たちにも本当に苦労をかけた。

 80年代の終わり頃、私と夫は住居を改築した。体が弱ってきた義母を引き取って介護できるようにした。私はもう駄菓子屋ののれんを下ろすつもりだった。月の利益は3万〜5万円ほどで、経営は常に赤字すれすれだ。義母は私たちの家に一度は来たものの、すぐに上川口屋に帰った。「店が心配だ」と言って。私は後を追った。結局、義母の世話をしながら店を切り盛りする日々を送った。

 抜けだそうとしても、いつも同じ場所に戻る。「私は上川口屋の店番をするために生まれてきたのだ」。そう達観するようになっていった。義母は91年、96歳で亡くなった。私は葬儀を終えた後、すぐに店を再開した。

●大人になり顔出す子も

 60歳を超えてからだろうか。上川口屋のある空間が、かけがえのないものだと気付いたのは。少子化でも、子供は変わらず店に来る。小学校が終わると友達と一緒に駆けつけて、小銭で買えるアメやチョコをうれしそうにほお張っている。時が流れ、その子が成人になった時、「今日が成人式なの」と言って晴れ着姿を見せてくれる。親になれば参拝のついでに店に立ち寄って、私に赤ちゃんを抱かせてくれる。

 失ってはいけない風景がここにあるんじゃないかと思い始めた。店が人々の懐かしい、大切な記憶の一部になっている。義母がかたくなに上川口屋を残そうとしたのは、この風景を守りたかったからなのかもしれない。私は土砂降りの雨の日以外、毎日お店を開けてお客さんを待っている。(うちやま・まさよ=自営業)

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