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栗橋茂&近鉄OBを語る会コミュの訃報(キダ・タローさんを追加しました)

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元近鉄投手の江崎照雄(えざき・てるお)さんが2月19日、死去。81歳。
中京商-日大を経て57年に毎日入団。59年オフに近鉄に移籍して、3年間在籍した。60年には48試合に登板して(うち先発21試合)、6勝(11敗)を挙げるなど活躍した。3年間で98試合7勝18敗だった。

62年オフに中日へ移籍したが肩を痛めて、翌63年に引退。その後は中日スコアラー、2軍コーチを務めた。通算成績は実働7年で140試合10勝21敗、防御率4.25だった。

ご冥福をお祈りします。

コメント(31)

元近鉄投手(71〜75年在籍)の大場隆弘(おおば・たかひろ)さんが7月16日、急性白血病のため死去。68歳。大分・別府鶴見丘高から66年、中日のドラフト1位で入団。左投げで速球に魅力があり、ドロップ(縦のカーブ)を武器とした。
ジュニア球宴に選ばれるなど期待されていたが中日在籍4年で1軍6試合と結果を残せず、70年オフに近鉄に移籍した。

近鉄では5年間在籍して実働3年、31試合に登板して勝敗はつかなかった。75年オフに自由契約となり、南海に移籍したが、1軍登板なく、77年限りで引退した。通算37試合0勝0敗、防御率6.00。その後85年まで南海のトレーニングコーチなどを務めた。

__ドラ1入団の投手が11年間未勝利は、ロッテ−ダイエーの笠原栄一(12年間)に抜かれるまでプロ野球記録だった。ご冥福をお祈りいたします。
野球評論家の豊田泰光₍とよだ・やすみつ₎氏が8月14日、死去、81歳。西鉄黄金時代の名選手として知られるが、72年の1年だけ、近鉄で打撃コーチをしていました。ご冥福をお祈りします。

__もっとも、コーチとしてはあまり評判は良くなかったですけどね。技術指導以前に環境面に問題があると球団にかみついたとか。また、当時の岩本堯監督とうまくいかなかったらしい。選手のフォーム等をいじらない方針の豊田コーチに対し、岩本監督は頭越しに指導したとか。72年は阪急に次ぐ2位だけれど、チーム打率.248、本塁打123、打点465はいずれもリーグ5位と低迷。
ちなみに72年は佐々木恭介、梨田、羽田、平野光泰がルーキーだった年です。主力打者は小川亨、安井智規、永淵洋三、土井正博、伊勢孝夫、一枝修平、岩木康郎らでした。
元広島の4番打者で、ロッテ監督も務めた山本一義(やまもと・かずよし)氏が9月17日、死去していたことが分かった。78歳。10月4日に報道された。
故西本幸雄監督に請われ、80年には近鉄の1軍打撃コーチに就任。近鉄のパ・リーグV2に貢献した。81年、西本監督の辞任と同時に近鉄を退団。翌年から2年間ロッテ監督を務めた。西本氏とはその後も深く交流を続けたという。

__ご冥福をお祈りします。
元近鉄投手の香川正人(かがわ・まさと)さんが3日、死去。62歳。坂出工-早大-三菱重工神戸を経て77年ドラフトで近鉄に5位指名され、1年遅れて79年に入団した。ルーキーイヤーの79年4月10日のロッテ戦(日生)で救援でプロ初登板。味方が逆転して勝利投手となった。その後も変則フォームからシュート、スライダー、チェンジアップ、フォーク、スローカーブと多彩な変化球で5勝2セーブを挙げ、近鉄のパ・リーグ初制覇に貢献した。しかし、その後はひじを痛めて1軍登板はなく、83年に大洋に移籍しその年限りで引退した。
引退後は、クラブチームの西多摩俱楽部の選手、コーチ、監督を務めた。通算は19試合5勝2S、防御率4.68。
父の香川正さんも54,55年の2年間近鉄の外野手として在籍した父子鷹だった。

__ご冥福をお祈りします。
元近鉄内野手でスカウトも務めた小田義人(おだ・よしひと)さんが5日死去、71歳。静岡高-早大-大昭和製紙から72年ドラフト2位でヤクルト入り。日本ハム、南海を経て82年から2年間、近鉄でプレーした。主に一塁を守り、2シーズン100試合で202打数50安打、打率.248、7本塁打、36打点だった。83年限りで引退し84~90年、近鉄スカウトを務めた。母校の後輩赤堀元之を発掘したのはこのころである。その後ヤクルトの2軍打撃コーチ、スカウト部長などを歴任、近年は母校・静岡高の外部コーチを務めていた。プロ通算は887試合、打率.256、67本塁打、274打点だった。

__ご冥福をお祈りします。
元西鉄選手で、近鉄2軍監督などを務めた滝内弥瑞生(たきうち・やすお)さんが23日、死去。82歳。福岡・戸畑高から西鉄に入団。同い年の仰木彬(元近鉄監督)の控えながら内野のユーティリティープレーヤー、代走・守備要員として10年間プレーした。引退後は西鉄・西武のコーチの後、82年から近鉄のコーチになり、2軍守備走塁コーチ(82~84年)、1軍守備コーチ(85年)、1軍内野守備コーチ(86~88年)を歴任。89年からは仰木監督の下、92年まで4年間2軍監督を務めた。

__ご冥福をお祈りします。
元阪神で、近鉄にも67〜69年の3年間在籍した鎌田実(かまだ・みのる)さんが8月1日死去、80歳。
二塁のレギュラーとして活躍し、近鉄3年間で350試合出場、1088打数257安打、打率.236、7本塁打、59打点、33盗塁の成績を残した。バックトスの名手だったが、68年に就任した三原脩監督からは「他の野手のレベルが低くて捕れないから」とバックトス禁止令が出たという。72年阪神で引退後は、93、94年に近鉄で1・2軍総合アドバイザーを務めた。

__ご冥福をお祈りします。
元阪神で、近鉄にも69年の1年だけ在籍した、ジーン・バッキー投手が9月14日、死去。82歳。外国人として初の沢村賞、通算100勝と活躍したが、68年9月の乱闘騒ぎで右手を骨折。復活をかけて近鉄に移籍したが、近鉄では12試合0勝7敗、防御率3.27に終わり、この年限りで引退した。
__冥福をお祈りします。
南海・鶴岡一人監督の息子で、PL学園、法大などの監督を務め、近鉄ではスカウトをしていた山本泰(やまもと・やすし)さんが8月11日、死去、75歳。
近鉄スカウト時代は岩隈久志(堀越)の獲得を球団社長に直訴して獲得を実現するなど、眼力の確かなスカウトだった。
__ご冥福をお祈りします。
広島で77年最多勝、日本ハムで82年最優秀防御率を獲った高橋里志(たかはし・さとし)投手が1月31日、死去。72歳。現役最晩年の85、86年は近鉄に在籍し、85年は主に中継ぎで35試合に登板して5勝2セーブ、防御率4.47と活躍したが、翌86年は1試合2イニングの登板にとどまり、この年限りで引退した。
 __ご冥福をお祈りします。
元近鉄捕手の高嶋徹さんが9月28日、直腸がんのため大阪市内で死去。栃木・宇都宮学園(現文星芸大付)から88年ドラフト外でオリックス入り。95年オフ、大島公一らとの2対2のトレードで近鉄に移籍した。近鉄には5年(実働3年)在籍し、38試合10安打2本塁打4打点、打率.196。00年限りで引退した。背番号は55、97〜98年の登録名は高嶋龍だった。通算成績は161試合60安打4本塁打25打点、打率.228。
__オリックス時代には仰木監督に期待されて4番に起用されるなど期待の強打の捕手でした。ご冥福をお祈りします。
OBではありませんが、関係者ということで。

近鉄バファローズの最後の球団代表だった足高圭亮(あしたか・けいすけ)さんが21日、肝臓がんのため大阪市内の病院で死去した。69歳。
近鉄球団で編成部長、球団本部長、球団代表などを歴任。01年には編成部門を統括する球団取締役として梨田監督を支え、リーグ優勝に貢献した。04年の球界再編問題では代表として力を注いだ。

__岩隈のドラフト指名や北川のトレード獲得、中村紀のFA慰留などにも関わっているとか。ご冥福をお祈りします。
元近鉄投手で広島、巨人、ヤクルトでもプレーした入来智さんが宮崎県都城市で交通事故で亡くなった。55歳。
入来投手は鹿児島実、三菱自動車水島を経て89年ドラフト6位で近鉄入団。1年目から1軍で使われ、2年目にはプロ初勝利。内角への強気の攻めは「ケンカ投法」と呼ばれ、先発、中継ぎ、抑えとフル回転した。96年には広島にトレードされたが、1年で近鉄復帰。99年には巨人に移籍し弟の祐作とチームメートになった。01年はヤクルトに移籍、この年は2桁勝利を挙げて優勝に貢献。球宴では祐作と兄弟リレーを見せた。日本シリーズでは古巣近鉄相手に第3戦で勝利投手になり日本一に貢献した。02年でヤクルト退団後は韓国、台湾でプレーし04年に引退。その後は地元で弁当店や介護士などをしていた。NPB通算214試合、35勝30敗2S、防御率4.25。近鉄ではのべ8年間で156試合22勝20敗2Sだった。

__ドラフト1位で芽が出なかった桧山泰浩投手と合宿所で大げんかしたエピソードなども思い出されます。僕(管理人)にとっては同学年でもあり、こんな亡くなり方は非常に残念に思います。悔しい。
>>[13]

入来投手。2年目途中にローテ入りしてから4連勝。ブレイクしかけた時に打球を受けて怪我をしてしまいましたね。
あの年は新戦力の入来投手と赤堀投手が共に怪我で途中離脱してしまい、優勝を逃がす原因となりました。
プロ野球ヤクルト、近鉄でプレーした鈴木康二朗(すずき・やすじろう)さんが19年11月に亡くなっていたことが13日、分かった。70歳だった。
王貞治(巨人)に77年、756号本塁打を打たれたことで知られているが、翌78年には勝率1位の活躍でヤクルトの初優勝、日本一に貢献した名投手だった。
82年オフ、井本隆との1対2トレードで柳原隆弘とともに近鉄に移籍。近鉄では83〜86年の4年間在籍し、主にリリーフとしてプレー、石本貴昭とのダブルストッパーで84、85年にはリーグ最多セーブを挙げた(最優秀救援ではない)。近鉄通算156試合17勝8敗44セーブ、NPB通算414試合81勝54敗52S、防御率3.68。

ご冥福をお祈りします。
>>[15]

鈴木康二朗投手は私が近鉄ファンになった昭和54年以降で初めて現れた『ストッパー』です (今はクローザーと言われるようになって耳にしなくなった用語ですね)。
山口哲治投手も昭和54年の抑えの切り札でしたが、当時は幼くてまだ野球を詳しく認識してませんでした。
後に石本ー吉井ー赤堀ー大塚と続く近鉄が誇る名リリーフの系譜の元祖だと思っています。
>>[16]
入来投手、鈴木康投手の訃報が相次いで伝わり残念でなりません。活躍時期は違いますが、2人とも近鉄の歴史を担った選手だったと思います涙
>>[18]

尾上選手は仰木監督1年目の昭和63年にトレード加入して、あの10・19の激闘にも参加してましたね。
活躍の機会は少なかったかと思いますが、テレビ中継された阪急戦で星野投手から決勝タイムリーを放ったシーンを今でも覚えています。
尾上さんの訃報は知らなかった。報道されたのか、ちょっと調べてみます。
あと、去る方から平野光泰さんが亡くなったと聞きました。一切報道されてないので、ここで取り上げていませんが、鈴木康さんみたいに、数年後でもいいので発表してほしいと思いますが。
85〜90年、近鉄で打撃コーチを務め、盟友・仰木彬監督とのタッグで89年のリーグ優勝に貢献した、中西太さんが5月11日、死去。90歳。西鉄での現役時代は本塁打王5度、首位打者2度、打点王3度。引退後は3球団で監督を務めるなど、8球団で指導した。
__選手としても、指導者としても稀有な方でした。ご冥福をお祈りします涙
我らの太っさん…ブライアントの覚醒も太っさんの指導の賜物でした。
御冥福をお祈りいたします。
天国で仰木さんや稲尾さんらと再会して野球談義に花を咲かせておられることでしょう。

近鉄バファローズの元外野手で79、80年のリーグ連覇に貢献した平野光泰(ひらの・みつやす)さんが9月9日、死去、74歳。17日に発表された。
大阪市出身で、明星高、クラレ岡山を経て71年ドラフト6位で近鉄入団。強肩強打の外野手として知られ、77年にはレギュラーに定着して規定打席到達。79年6月28日、前期優勝のかかった南海戦で、阪本敏三の中前打でホームを狙った二塁走者定岡智秋を刺し「執念のバックホーム」と呼ばれる伝説のプレーを見せた。79、80年はダイヤモンドグラブ賞、80年の広島との日本シリーズでは優秀選手賞を受賞した。85年に現役引退。通算1183試合、.264、107本塁打、423打点、106盗塁。
引退後は「近鉄バファローズナイター」などの解説を務めた。

闘志あふれるプレーはガッツマンと呼ばれたことを思い出します。心よりご冥福をお祈りします。

同日、チャーリー・マニエルが脳卒中で倒れたというニュースも飛び込んできました。無事であってほしい。
平野光泰さんの御冥福をお祈り致します。
平野さんの現役時代は私はまだ小中学生の頃。
その頃の私がひとりでも近鉄戦を観戦に行ける球場は川崎球場だけでした。
閑古鳥時代です。10.19のような優勝に絡む試合でもなければ、応援ユニやハッピを纏った近鉄応援団と言えるのは内野に10人居たか居ないかぐらい。
その応援団のおじさんが川崎球場の金網フェンスのよじ登って先導ですよ。
『ガッツマン!ガッツマン!ひ・ら・の!』のかけ声が懐かしい…

天国で恩師の西本幸雄監督が迎えてくれたことでしょう。
当時の仲間達の中では早い順番でしたね。
西本御大に『もう来たのか? 打順通りでなくてもよかろうに』と苦笑いしていらしたのではないでしょうか。
阪急の往年の名選手で、近鉄バファローズでもコーチなどを務めた住友平(すみとも・たいら)さんが11日死去、80歳。
75年に引退後、91〜93年は近鉄で1軍打撃コーチや守備走塁コーチ、94年には2軍監督を務めた。
ご冥福をお祈りします。
住友氏は、太っさんが一足早く近鉄を退団した入れ替わりで近鉄コーチに就任し仰木さんの参謀としても支えたくれた方ですね。
地味な存在なためか日本プロ野球の慣習的に監督に推される機会がなかったようですが、なかなかの人物だったそうですね。
まだこちらで明記されていない方も大勢いられるでしょうが、例えば鈴木貴久さんや仲根正広さんはニュース報道にもなっていますし皆様も御存知なところでしょう。
もしかしたらあまり知られていないかもと思われる元近鉄選手で、私(1971年生まれ)がリアルタイムで観ていた方を私も記してみようかと思います。

元投手の佐藤秀明さん。
2007年3月17日に永眠されています。
佐藤秀明さんは1985年に阪神に入団。即戦力の中継ぎとして活躍。
1989年に近鉄に移籍。その年は47試合に登板。7勝3敗4セーブの好成績で中継ぎエースとしてリーグ優勝に多大な貢献をしてくれました。
日本シリーズ第2戦では勝利投手にもなっております。
近鉄バファローズには1992年まで在籍し、近鉄退団と共に引退。飲食店を経営されていたそうです。
享年46歳でした。本当に早すぎましたね。
>>[28] 。佐藤秀さんが亡くなったのを知ったのは数年後。こちらに掲載したり、ブログに書くタイミングを逸しました。89年のフル回転、日本シリーズの勝利投手、個人的には西武球場でリリーフ時に声を掛けたことがあって、忘れられない選手です。
広島、近鉄で中継ぎ投手として活躍した清川栄治(きよかわ・えいじ)さんが5日死去。62歳。13日に西武球団が発表した。京都商‐大商大から83年ドラフト外で広島に入団。91年にトレードで近鉄に移籍した。近鉄には97年まで在籍。左のワンポイントとして活躍した。近鉄では216試合に登板し7勝7敗9セーブだった。98年には広島に戻り引退。通算では438試合13勝10敗12セーブ、防御率2.94。広島、オリックス、日立製作所、西武のコーチを務め、今年は西武の投手育成アドバイザーだったが昨年から悪性腫瘍で闘病生活を続けていた。
__現役時代の活躍を思い出します。ご冥福をお祈りいたします。
浪速のモーツァルトこと、作曲家のキダ・タローさんが14日、死去。93歳。
パールスのころからの近鉄ファンで知られ、球団歌「近鉄バファローズの歌」(75年)はキダさんの編曲だ。後援会副会長を務め、ファンの集いの仮装大会で審査委員長として野茂を優勝させ、「野茂は俺が育てた」と言っていたとか(笑)。
ご冥福をお祈りします。

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