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ヒマつぶしコミュのブラックルビー 間章・第2章

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  間章「ハザマ」

 けたたましい電子アラームが突然部屋の中に鳴り響いた。
「緊急事態です!」
 白衣をまとった女性が叫ぶ。
「2フロアの窓が破られました!」
「何だと!?」
 茶色の髪をポニーテールにまとめた彼女の言葉に周りの人々がざわめき、物凄いスピードでキーボードを叩き始めた。対応は早い。
「個体識別信号3体分を確認。1体、変異体です。凄まじいスピードで進んでいます。このままでは……!」
 別の、同じく白衣を着た男性が悲鳴をあげる。
「急げ! 絶対領域から出る前に"シールド"を」
「今やってます……だめです、変異体、突破され」
「残り2体は!?」
「作業中で」
「早くしろ!」
「発動準備!」
「完了しました。カウントダウン開始します!」
 何人もの人間の言葉が重なり、行き交う。場は緊迫していた。
「3、2、1……発動成功しました!」
 若い男性のその一言で、ようやくその場の緊張が解け、あたりからいくつものため息が洩れた。
「他に人間がいるからとわざわざ”要塞”の装備ではなく奴らをよこしたというのに……。何をやっていたんだあいつらは!」
 せわしなくキーボードの上を動き回っていた手を休め、白衣の左胸に妙に重厚な勲章をつけた男が背もたれにもたれかかった。キイ、と椅子が軋む。
「まったく……」
 男は小言を呟いてはいたが、安堵しているのは傍目からでもよくわかった。だが表情は読み取れない。彼はやけに大きな分厚いサングラスのようなものをかけていた。彼だけではない。全員がだ。そのレンズにうっすらと文字が光っているのが分かる。どうやらこの眼鏡のようなものはパソコンの画面の役目をしているらしい。事実、その場所にはキーボードとマウスはあっても、モニターの類は何もなかった。
「さて」
 そう言葉を切って男はサングラスをはずす。パソコンの画面からようやく開放された目をしばたかせ、まぶしさに目を細める。1日のほとんどをサングラス型の画面の中で過ごしているため、真っ暗な中で仕事をしているような気にはなるが、実際はこの部屋には壁がなく、全面がガラス張りという、とても明るい場所なのだ。彼はひとつ大きな伸びをした。
「変異体は仕方ないとして。外に出てしまった残り2体の識別番号を報告してくれ。シールドを発動させた故、”外”の連中にことを広められることはないだろうが、万が一のために早々に見つけ出して連れ戻さなければならない」
 他の人間にはだらしない状態の自分の姿は見えないが、口調だけは気を抜くと一発で部下に知られてしまう。だから彼は威厳に満ちた喋り口だけは忘れなかった。
「それなんですが」
 彼の問いに、先ほど識別信号を確認したと叫んだ男がてきぱきとした口調で答えた。
「1体はLN3342R+W0011。レナ、という女です。歳は17。そしてもう1体。同じく17歳で、こちらは男で、識別番号がLHT3340NW0001。名称はリヒトです」
「リヒト?」
 上官らしき男が訝しげにそう繰り返し、何かを思い出そうとして上を向いた。頭の中から必要な情報を探り出そうとしているのか、目が泳いでいる。
「ん? 待てよ……」
 サングラス型のものをかけたままの男はそれには気づかなかったが、彼自身も何かがひっかかったようで、黙り込んで腕を組む。
「LHT3340NW……あ!」
 もう一度繰り返し、何かに思い至ったらしく、彼は持ったままでいたワイヤレスのマウスを取り落として小さく息をのんだ。常に画面をつけたままで移動しているため、そのままで上官のもとへと赴くことは容易い。彼は半ば上官に掴みかかるような形で足早に駆け寄った。
「まずいです。この男NW……未覚醒ですよ! これではもし”外”で覚醒されてしまったらシールドが無効になってしまいます!」
 勲章をつけた男はそれに見向きもしない。まだどことなく視線を彷徨わせていた。自分の言葉に全く反応しない彼にもどかしさを覚えたのか、無視された男は大仰な手振りで上官に働きかける。
「”外”にやつらを派遣しましょう! 早くしな」
「そうか!」
 座って考え事をしていた男が唐突に椅子を蹴って立ち上がった。話を遮られた男の方はというと、突然の彼の行動にうろたえ、一歩後ろに下がっていた。
「そうか、あいつの……」
 立ち上がったが何かする、というわけではなかったらしい。彼はぶつぶつと意味の分からないことを呟き、爪を噛む。
「あ、あの」
 どうやら自分の言葉に反応してくれたのではないと悟り、おずおずと口を挟んでみる。だが、相手にされない。何なんだ、とあきらめて彼がその場を去ろうとしたとき、上官である男が突然部屋に大きく反響する、よく通る声で叫んだ。
「全員、配置につけ!」
「あの、どうし」
「すぐに奴らを”外”へ。女の方はどうでもいい。とにかく、 何としてでも男の方を見つけ、連れてこさせるんだ!」
またもや部下の呼びかけを無視して彼は指示を飛ばす。他者の声はもはや彼の耳に届かないらしい。指示を終えると、他人に見えないのをいいことに、彼は焦燥で顔を歪ませた。
「なぜ、今頃になってお前が出てくるんだ。いや、今だから、なのか? 何か関係があるのか?」
 決して答えが来ることのない問いを放ち続ける。
「なぜ。何をする気なんだ」
 そして彼は1人の人間の名を呟く。
「レン」
 だが、これも所詮は独り言。誰かから望む答えを得ることはなく、言葉はコンクリートの床に落ちて、消えた。
 男はこれから何かが起こるであろう外の景色をじっと見据える。多少の憧憬と共に。
「外か。最後に青い空を見上げたのはいつだっただろう」
 見えるのはただ、白く、深い霧。

 見据える瞳の色はーー群青。

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2章 「コトワリノソト」

「暖かい……」
 寝言のような自分の言葉で、少年――リヒト――は目を覚ました。まだ夢見心地なままの焦点が定まらない目で彼はゆっくりと首を回して辺りを見渡す。ぼやけていて何も見えない。それに比例するようにぼんやりとした口調で彼は呟く。
「ここ、どこだろう」
 やがて霧が晴れるように視界が開け、自分の周りの様相が見え始める。

 部屋だった。

 フローリングの床に、太い丸太で組まれた壁。そこに架けられた針時計。それに部屋の真ん中にはこの場の持ち主が作ったのであろう、表面がボコボコの机と脚の太さがバラバラの椅子まであった。すべてが木でできている。彼はベッドに寝かされていたが、ギィギィときしんでいるのでこれも木でできているようだ。
 場所の全景を把握したところで彼はようやく夢うつつから覚め、目を見開いた。
「どこだ、ここ」
 今度は多少の戸惑いが含まれた、しっかりとした言葉を紡ぐ。そしてとりあえず立ち上がろうと体を起こしかけ、
「うっ」
 と小さくうめいてベッドに倒れこんだ。痛みを感じた部分を押さえる。痛みの根元は右肩だった。どうやら起きる時に負担をかけたせいらしい。
「でも、なんで」
 と呟きかけて、ようやく彼は思い出す。
 タケルの覚醒、エリアの閉鎖、謎の男たち。それから、
「そうか。俺、撃たれたんだっけ」
 自分の負傷。
 左手で撃たれた場所に触れてみる。なぜか傷口は丁寧に巻かれた包帯の下に隠れてしまっていた。
「なんで?」
 ――大体、俺外に落ちたよな? なのになんで生きてるんだ?
 頭の中を疑問ばかりがぐるぐると回る。とにかく何か1つでいいから答えが欲しかった。
「レナ、どうなったんだろ」
 レナの顔が頭に浮かぶ。そして、嫌な想像も。自分が外に落ちた後に、あの気味の悪い目をした男に撃たれたる彼女を。
「……違う!」
 頭に浮かんでくるそのイメージを払拭しようと、彼は頭を振り、鋭くそう叫んだ。反射的に右手で身体を支えて勢い起き上がる。また痛みが身体を駆け巡っていったが、今度は小さく喉を鳴らすだけに留まった。
「ダメだ。こんなとこでじっとなんかしてられるかよ。とにかく、ここから出ないと!」
 何も考えないためにはがむしゃらに歩き回るのが一番。そう考えた彼は小さく頷き、ベッドから降り立つ。そこで、
「あれ?」
 違和感に気づいた。左手で違和感の生じている部分に触れてみる。
「ない」
 眼鏡がなかった。
 そう、目を覚ましたときから今まで、彼は何もしていない。眼鏡もかけていない。なのに、周りの者が視えていたのだ。「眼鏡は俺の生命線だ」とまで言っていた彼が。
「なんで? 一体なんなんだ? どういう……」
 彼の言葉は最後まで続かなかった。
 ギィ、と軋みながら、彼のベッドの対角線上にあるドアがゆっくりと開いたのである。
「!」
 リヒトは小さく息を飲み、身構える。何が起こっているのかわからない以上、用心を重ねるしかない。
 だが、現れたのは、深紅の髪のあの男ではない。
 黒服の男でもない。

 開いたドアの向こうに立っていたのは、少年。
 薄い色のTシャツを身に着けた、大きな青い表紙のスケッチブックと一本のペンを抱え込んだ少年であった。
 少年の瞳は黄緑をしていた。
「ねぇ、君」
 瞳の色に違和感を覚えはしたが、所詮は子供。
 何もできはしないだろう。てかとりあえず何か知ってるだろうから聞き出すか。子どもなんてちょっと聞けばほいほい答えてくれるもんだ。
 どんな状況に置かれているかも分からないのに勝手にそう解釈してリヒトはにっこりと微笑み、猫撫で声で語りかける。
「……」
 対する少年は年の差が10程もありそうな彼を冷ややかな目で見つめ返す。
 しかも無言で。
「あれ?」
 思わず口を突いて出たのはそんな間抜けな響きの言葉だった。7歳程度の子どもにしてはずいぶんな態度だ。
 ――俺バカにされてる?
 心の中でそう思いはしたが、顔には出さない。笑顔を保つ。相手は子供だ、と自分に言い聞かせるように呟くと、彼は再び口を開いた。
「やぁ、俺リヒト! 君は?」
「……」
「実は俺さあ、自分がどういう事になってるのかよく分からないんだ。君何か知ってるかな?」
 やけにハイテンションなリヒト。
 子どもはひたすら無言の応酬。
 リヒトは半ば躍起になって続ける。
「あ、君髪の毛茶色なんだね。それ自毛? 俺さ、髪の毛黒いけど、ウェーブかかってるだろ? かっこよくね? 実はこれ自毛なんだ。すげーだろ?」
 もはや何かを聞き出すという当初の目的は欠片も残っていない。
 そんな彼を嘲るかのように、眼前の子供は唇の端だけを小さく吊り上げて笑った。
 無言で。
「お前さあ!」
 いい加減しびれを切らした彼はツカツカと歩みよって無言の少年の両肩を正面から掴み、強く揺さぶった。
「なんか喋れよ、口ついてるだろうが! 人バカにしてんのか?」
 強く言われて傷付いたのか、少年はうつ向いてしまった。
 長い前髪に隠れてリヒトからは表情がまったく分からなくなる。
「お、おい」
 彼が泣いてしまったのだと考えたリヒトは、そんな彼への対応に悩み、うろたえた。
「なぁ、言いすぎた。悪かった。大人気無かったよ」
 オロオロと弁解する彼は、目の前の少年の姿に気をとられすぎていて気付かなかった。自分の左手首に何かが近づいていることに。
 それは、少年の瞳と同じ色を湛えた水のロープであった。リヒトの手首に3重に巻き付いている。いや、性格には巻き付きかけている、だが。水のロープは彼の手に当たるギリギリのところを取り囲んでいた。
 そしてそのロープがぎゅっとリヒトの手を絞め上げた瞬間、
「痛っ!」
 リヒトの小さな叫びを合図に、黄緑の瞳を持つ少年は顔を上げてニヤリと笑った。髪と顔で隠れて見えなくなっている間に、彼は両手で抱えていたスケッチブックを左の脇に挟みこんでいた。そして空いた右手にはロープの一端。
「お前……!」
 そこでようやく事態に気付いたリヒトだったが、もう遅い。
 無様にも彼は身の丈が自分の半分ほどしかない少年に片手でズルズルと引きずられて行った。


 誰もいなくなった部屋。そこには小さな窓があった。少し開いたカーテンの隙間から、外が見える。
 空が見える。


 その色は、青。
「なぁ、自分で歩けるからさ。いい加減離してくれよ」
 リヒトは何度目かになる批判の声を挙げる。
 もちろん何度言おうとも少年は手のロープを緩めようとはせず。
 いつのまにか二人は部屋を出て、廊下を通過し、外に出てきていた。
「なぁ、お願いだから離してくれよ」
 先程口にしたのとほぼ同じ内容の言葉を彼はまた繰り返す。その間隔は明らかにせばまっている。理由は簡単。外だからだ。土の上をズルズルと引きずられる彼はもはやボロ雑巾と化していた。
 それでも口を開こうとしない少年はただ歩き続ける。
 目的の場所へと。
「マジで一人で歩かせ……」
 そしてリヒトがまた口を開いた時、
 少年は突然ロープを離した。
「へぶっ」
 確かに離してくれとは言ったが、突如上に引っ張られていた手が離され、下へのベクトルがかかっていた左手はすごい勢いで地面に叩きつけられることとなり、彼は悶絶した。そしてようやく自分の頭上に広がる色に気付く。
 初めて見た青空。
「青い」
 そんな言葉しか出てこなかった。だがしばらく見上げていた彼はふと違和感に気付く。
「あれ、何だ?」
 コンクリートの天井か、ガラスごしの真っ白な空しか見たことのない彼には上に広がるそれが何なのか分からなかったのである。そんな彼の呟くような疑問に応える声があった。
「空だよ」
 と。
 聞き覚えのある声。はっとして彼は目の前にいる子供を横におしのけながら立ち上がった。そして声の限り叫ぶ。
「レナ!」
 歓喜の叫び。そう、彼の前には豪奢にうねる長い金髪をなびかせて微笑む、ビスクドールのような美貌を持つ少女が立っていたのである。見まがうことなくそれはレナだった。
 瞳を除けば。
 今の彼女はさながら人形だったのである。「瞳の色さえ青ければ」という条件が付加されていたはずなのにだ。彼女の瞳はいつもの白濁した赤ではなく、青に変わっていた。そんな少女はその変化に気付いているのかいないのか、変わらぬ微笑みを以てリヒトを迎えた。
「お前、その目」
 どうしたんだ、と尋ねようとすると彼女は片手で小さくそれを制し、顎をしゃくって自らの背後を示す。
「何だよ」
 その問いにレナはジロリと彼を睨みつけ、いいから見ろとでも言うようにまた顎をしゃくった。
 ――何なんだ一体。
 心の中で不平を呟きつつ彼はレナの背後に目をやり、
 固まった。
 巨漢がいた。そう、巨漢だ。
 歳はずいぶんなようで髪も髭も真っ白になっているが、精悍な顔立ちで、妙にガタイがいい。しかも上半身裸。筋肉の盛り上がりがはっきりとわかる。
 それだけならただ巨漢がいる、というだけで何ら問題はない。だが、野獣という別名がしっくりきそうなこの力強い老人は、その手にリヒトの背丈ほどもある斧を提げていた。ひと振りで大人の2人や3人くらい簡単に斬り臥せられそうな凶器だ。
 ――まさか、敵?
 1秒と経たないうちにリヒトはその結論に到った。
 ――てことはあのガキもグルか! 畜生!
 心の中で舌うちする。そういえば先程レナの表情はどこか曇っていた。これが原因に違いない、と。
 なんとかしなければと策を練る彼の前で、
 目の前の丈夫はおもむろに手の斧を振りかぶった。
 あろうことかレナのいる方向に振り下ろせるような方向に。
「危ない!」
 とっさにレナの危険を察知した彼はレナの肩を後ろに引き寄せ、彼女の前に出る。その際レナが怪訝な顔をしていたのには気付かなかった。
 そして次の瞬間。
 カーン、とかん高い音が辺りに響きわたり、彼の目の前で、


 薪がまっぷたつになった。
「へ?」
 情けない声をあげたのはリヒト。何が起こっているのか全く掴めていないらしい。そんな彼の姿にレナはリヒトには聞こえないように情けない、と小さく呟き、盛大なため息をついた。
 対する筋肉美の老人は目の前に包帯を巻いた少年が立っていることに気付き、一瞬目を丸くしたがすぐに顔をほころばせる。
「おお、やっと起きたか少年よ。3日たっても起きないからもうダメかと思ったが、良かった!」
「え? え?」
 その容姿にピッタリのテノール歌手のようなよく響く声にリヒトはただ戸惑うばかり。未だ状況が把握できないらしい。あまりの鈍さに、見かねたレナが声をかけた。
「リヒくん。あの人ね、アンタの命の恩人」
 一瞬、沈黙がその場を支配した。
 それを破ったのはかっぷくのよい笑い声。その主はもちろん老人だ。
「君、肩にケガしたまま、海を漂流しとったんだ。覚えとらんのか?」
「あ、いえ。肩」
 に風穴あいたことは知ってます。
 そう応えようと口を開くと。
「ぐっ……」
 背中に激痛が走った。
 ――つ、つねられてる!
 老人に見えぬよう、レナが背中の肉を思い切りつねり上げてきたのである。当のレナはというと、陰でそんなことをしているそぶりはみじんも見せずに老人に微笑みかけていた。
「この人、何にも思い出せないんだって。困ったなぁ。記憶喪失みたい」
「ちょ、おまえ」
 勝手に記憶喪失にされては困る。反論しようとするとつねる手に更に力がこもった。
「ね?」
 とびきりの笑顔でとげとげしい言葉を投げられ、
 ――負けた。
 と彼は悟った。
 自分はまだ状況が掴めていない。どうやらレナに従うのが賢い選択のようだ。
「……そうみたいです。」
 彼はあきらめて肯定した。
 そんな彼に老人は同情の眼差しを向けた後、言った。
「全員が揃った。とりあえず話は後で。部屋に戻ってまずは朝の訓辞をしないかね?」
 毎日のように受けてきたそれ。面倒だとは思ったものの、リヒトは何の逡巡もなくそれを受け入れた。

 だが、それによってリヒトの中にある「理」は、音を立てて崩れてゆくことになる。

 木で組まれた家の中に戻ると、老人は懐から小さな本を広げ、彼らに向かって朗読した。
 以下は老人による朝の訓辞の内容である。


 2XXX年、世界は混乱した。
 ある研究がここに完結したのである。
 選ばれた人々は目に力を宿す。
 力を手にした者達は狂乱し、殺戮を繰り返した。
 そして21XX年、世界は滅びた。
 残された者達は泣き続けた。愛しきものを、今は亡き母国を悼み。
 だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。人々は生きる手段を考えなければならなかったのだ。
 幸いにも先時代の研究は人々に別なる力を与えてくれた。
 そこで人々は力を合わせて頑強な要塞を築き、そこに先時代の遺物を詰めこんだ。
 こうして平和が訪れたのだ。
 我々は忘れてはならない。
 平和のために多くの血が流されたことを。
 我々は先人の意志を引き継いでゆかねばならないのだ。
「嘘だ」
 自分の知っているそれとは似ても似つかぬ内容で、だが全く同じ一文で終わる訓辞。
 彼にはそう呟くことしか出来なかった。
 何となく今いる場所は自分の住んでいた場所とは少し違うとは思っていたが、やはり現実を突きつけられた衝撃は大きい。レナはというと、事情を察しているのか、居心地悪そうに小さく身体をゆすっている。
 どうやら彼らの微妙な表情に気づいたらしく、老人はライトブルーの瞳を何度かしばたかせて立ち上がった。
「どれ、何か飲み物でも淹れてこよう。リョウ、手伝ってくれんか?」
 子どもの名はリョウ、というらしい。しぶしぶ、といった風体で黄緑の瞳の少年は立ち上がる。
 ――気を使ってくれたんだ、きっと。
 どうやら二人で話す場を設けてくれたらしい、と気づいたレナは隣に座る友人に気づかれない程度に小さく会釈した。
 それにに気づいた老人も彼女の意向を読み取ったのか、小さく手を挙げるだけで部屋を出て行く。少年リョウも無言でそれに続いた。
 大きな軋みをあげながらドアがしまり、空間が遮られる。それを見届けたレナはふぅ、と小さく息をつき、隣に座る少年の肩を軽く揺さぶった。
「リヒ君」
 返事、なし。かわりにこの至近距離でさえ聞こえない、謎の呟きが返ってくる。むっと顔をしかめて彼女は次の手に出た。
「リヒ君ってばぁ。レナの方向いてくんなきゃ、レナ寂しいナ?」
 今度は耳元に口を近づけ、極上の甘い声でささやいてみる。ただし、彼からは見えないので顔には青筋を浮かべたままだったが。要塞の中でこんなアプローチをかけようものならその男は一瞬で恋に落ちてくれたものだ。なのに。
 やっぱり返事はない。
 少々気の短いレナはいい加減イラッときたらしく、目にも留まらぬ速さでリヒトの負傷した右手を思い切り引っ張り、
「痛っ」
 リヒトの小さな悲鳴が耳に届いたにもかかわらず、
 反動をつけて思い切りリヒトの額に頭突きをくらわせた。そのあまりの勢いに彼は椅子ごと後ろにひっくり返る。そして声にならない声をあげて床を転げまわった。そんな情けない友人の右肩をに自分の靴底を乗せて彼女は立ち上がって真上から見下ろす。
 笑顔で。
「ねぇ」
 語りかける声は妙に妖艶で、ミステリアスで。つまり、かなり怖い。
「さっきから私の知ってる情報を教えてあげようとしてるんだけど、聞きたくないの?」
「なあ、お前ってそんな気、荒かったっけ?」
「……は?」
 もはややさしい口調ですらない言葉で一蹴された。
 瞳の色が青に変わっているからより怖い。なんというか、氷の女王という称号が似合いそうな、そんな感じだ。
「で。どうするの?」
 そんな怖い彼女に歯向かうほどリヒトも命知らずな男ではない。

 結局彼女がもういいと情けなそうに呟くまで彼は首をガクガクと縦に振り続けた。
 だがリヒトの何気ない一言は後に重大な意味を持つものであることを、二人はまだ知らない。

 そうして、レナの話は始まる。
 まず彼女はこう問うた。
「ここがどこか分かる?」
 その問いに彼が何となく、と答えると彼女はそう、と気のない返答をした。
 そして彼女は長い説明を始めた。
「ここは、要塞の外の世界。私たちは「海」っていう場所に落ちたおかげで助かったみたい。海っていうのはおっきな水溜り。そこに浮かんでた私たちをあのおじいさんが見つけて助けてくれたの。私は傷も何もなかったから大丈夫だったけど、リヒ君は怪我してたから、結構危険な状態だったみたい。」
 あのおじいさんの名前はレンジさんで、黄緑の眼の少年の名前はリョウ。あの子は昔あった事件が原因で喋れない。だからスケッチブックで筆談をしている。
 この場所にはいろんな色の眼をした人が住んでいる。
 みんな何か特化した職を持っていて、お互いの商品を交換し合って生活している。
 そんな内容の話だ。
 ――そのくらい。
 リヒトは心の中で呟く。訓辞を聞いたときからその程度のことは自分でも予想できた。少年のことも、後から思い返してみれば容易に計り知れることだ。職についてまで頭は回らなかったが。そんな彼の思惑を知らないレナは、尚も話し続ける。
「それから、こ」
「なぁ」
 だから彼はレナの言葉を少し大きめの呼びかけで遮った。話の腰を折られたレナはくっと唇を突き出して息をつく。
「何? 話の途中なんだけど」
 少々苛立ちの混じった声だったが彼はそれをあえて無視して口を開く。
「あのじいさんとガキのことはわかった。もういい」
「何よその言い方」
「お前、差し障りのないところだけ話してるだろ」
 彼の追及にレナの瞳がゆれる。
「そ、そんなこと」
 それに気づかれないようにレナは俯く。だがリヒトは既に分かっていた。

 レナが要塞に関する話を極力避けていることに。
「そこで人々は力を合わせて頑強な要塞を築き、そこに先時代の遺物を詰めこんだ。」
 先ほどの訓辞の一文を口に出すと彼女はビクッと肩を震わせた。
 ――やっぱり。
 何か知っている。そう確信した彼はレナの肩をつかみ、顔を覗き込んだ。
「まず聞く。お前の眼はどうして青になってる?」
 レナの返答は、小さく首を横に振るだけ。
「じゃぁもう一つ」
 肯定されたくはない、しかし一番可能性の高い事象を彼は問う。
「選ばれた人々は目に力を宿す。力を手にした者達は狂乱し、殺戮を繰り返した。そして要塞に詰め込まれた。これは俺たちのことなのか?」
「それは……」
 レナが言いよどむ。それを見たリヒトはやはり、といった風体で眉をしかめた。それを見てレナは首を振る。
「違う、リヒ君。それは違うの」 
「じゃあ何でそんなうろたえてんだよ?」
「聞いて、リヒ君」
 レナの懇願は今のリヒトには届かない。
「何を!」
 混乱から、彼はあろうことか彼女の肩をつかんで横に思い切り払いのけた。レナは近くの壁に背中から激突し、小さく呻く。
「んあっ!」
 その声でようやく自分のしたことに気づき、彼はバツがわるそうな様子で小さく呟いた。
「ごめん」
「……ううん」
 お互いに目を合わせることが出来ず、視線は泳ぐ。気まずい空気が流れていた。

 ギィ
 その静寂は唐突に破られた。
「やぁ、お待たせ」
 大きなピッチャーを抱えたリョウが部屋に入ってくる。続いてレンジがお盆にコップを4つ携えてやってきた。
「おや、痴話げんかかい? 若いねぇ」
 柔和な笑みとともにそんな拍子抜けな言葉をかけられ、彼らはゆっくりと部屋に入ってきた二人の方を向く。
 突然の登場に呆然としていた二人だったが、なぜかくっと小さく鼻を鳴らし、クスクスと笑い始めた。
 裸エプロン。
 レンジの格好だ。もちろん先ほどまでと同じくズボンははいているが、ムキムキと筋肉が盛り上がった上半身に、そのままヒラヒラのエプロンをつけている。どう考えてもミスマッチだった。
「ん? どうかしたかね?」
「そ、そのエプロンは」
「おお、しまった。脱ぎ忘れとったようだ」
 にっこりと笑って潔くそれを脱ぎ捨てる。その男らしさとのギャップに二人はまた笑う。場の空気が和らいだ。
「まあ二人とも。座らんかね。お茶をつまみに話でもしようじゃないか。」
 快活な笑顔に二人は毒気を抜かれ、元の場所に戻る。そんな横でリョウが爪先立ちになってピッチャーを机に置こうと奮闘していた。だが机の方が少し高く、届かない。初めて彼の子どもらしい姿を垣間見た気がして、リヒトは手伝ってやろうと立ち上がった。
「ああ、しまった」
 ピッチャーを持つ手に触れ、彼がリョウからそれをもらい受けたその時、レンジが妙に大きな声でそう言った。
「どうしたんです?」
 飲み物を机の上に置いてリヒトが向き直る。レンジもお盆を置き、そして肩をすくめた。
「うっかり、お菓子と砂糖とミルクを忘れてしまった。いかんな。歳はとるもんじゃない」
 冗談めかした言い草にリヒトはクスリと小さく笑う。
「じゃあ俺取って来ますよ。」
「場所がわからんだろう。構わんよ」
 レンジがやんわりと言うと、
「いいよ、レンジさん座ってて。私わかるから着いていくし」
 彼の言葉に呼応するように今度はレナが立ち上がった。
「しかし……」
「ご老体は座ってて下さいな」
 ニコリと微笑んで彼の言葉を用いた冗談でもって返し、レンジの肩に軽く手を置く。

 その瞬間。
「君は」
 レナが近づくのを見計らっていたかのように、レンジは他の二人に見えないように後ろ手でレナの服の襟を掴みよせ、彼女以外に聞こえないほど低い声で囁いた。
「ここに残ってくれんか?」
 と。その真剣な声に少女は思わず口をつぐむ。だが。
「なぁ、”赤眼”のお嬢さん」
 次の言葉を聞いた刹那、目の前の巨漢を思い切り突き飛ばしていた。しかしながら彼女の力では彼の強靭な肉体はビクともせず、代わりに自分が反動で後ろによろめき、しりもちをつく。
 自分を見下ろすライトブルーの瞳。
「レナ?」
 ようやく異変に気づいた少年の呼ぶ声も届かない。
 ――なぜ、この男が
 考えるよりも先に身体が動いていた。
「うわあああ!」
 脳裏に浮かぶのはあの光景。
 向けられた銃口。
 嘲笑。
 青緑色の瞳。
 一瞬でフラッシュバックする。トラウマを引き起こした彼女はジリジリと後ずさりし、よろめきながら立ち上がると、脇目も振らずにその場から逃げ出していた。
「お、おい! レナ!」
 僅かな逡巡の色を示したリヒトだったが、レンジのことは睨みつけるだけに留め、足早に部屋を去った。
 後に残ったのはレンジとリョウのみ。突然のことに驚いたリョウは、窓際まで飛び退っていた。
「行ったか」
 どれくらい経っただろうか。レンジはおもむろに顔を上げ、ドアに一番近いイスを引き、力が抜けたように座り込み、息をついた。どこか疲れたような表情で閉められたドアを見やる。
「まさか、アタリだったとは……」
 まるで溜まったものを吐き出すかのように深く腰を折り、彼は更に深いため息をつく。そして彼はズボンのポケットに手をいれ、ぐしゃぐしゃになった紙切れを一枚取り出し、広げた。
「一体何の罪があるんだ。まだあんなに若いのに」
 搾り出すようにそれだけ言うと、レンジは顔を伏せ、嗚咽を漏らした。

 緊急事態発生。赤眼収容施設ヨリ脱走者アリ
 金髪ノ少女ト眼鏡ノ少年1体ズツ
 発見次第連絡ヲ
 生死ハ問ワヌ 

 事務的な内容のそれ。その最後には小さな文字で「抵抗シタ場合ハ速ヤカニ抹殺セヨ」とも書かれていた。
「あの二人が”赤眼”……そんなことリョウが知ったら……」
 更なる苦悩を抱え、レンジはまだ幼さの残る少年を見つめる。

 そんな彼の思惑に気づくはずもなく。リョウはじっと窓の外を眺めていた。
 その見つめる先。ずっと先には。

 白いもやに包まれてそびえ立つ建物があった。
 同じ頃。
 ある小高い丘に立つ黒い影があった。
 潮風が男の髪をなびかせてゆく。
 その男の髪は深紅。
 ふと背後から来る別の者の気配に気付いた。彼はほぼ無意識に口角だけをつり上げて笑みの形を作る。だが、相手にその表情は晒さない。彼は視線の先にある白いもやに包まれた建物を見据えたまま、何の感情も見せずに言い放った。
「見つかったか」
「……いえ」
 だが、返答は彼の期待していたそれではない。一瞬彼の顔に苛立ちが走ったが、その表情はすぐにまた作り笑いに転じた。
 ――あせるな。
 自分にそう言い聞かせ、彼はまた口を開く。
「海の捜索は?」
「申し訳ございません。必死に捜索しておりますが、手がかりになるようなものはまだ」
 部下の言葉に彼は思わず拳を固く握りしめていた。怒鳴りたい気持ちを必死に押さえる。握る拳に血が滲んだ。
「……黒眼の行方は」
 ようやく己の身中での葛藤を収め、彼は搾り出すような声で尋ねる。
 そして、部下はバツが悪そうに。
「申し訳ございません」
 それが答えだった。

 外に落ちた二人の死体はあがらない。
 こちらの地に消息はない。
 忌々しい変異覚醒の黒眼もいない。

 男の中でついに何かのタガが外れる音がした。
 一瞬の風。
 髪を微かになびかせる程度の時間。
 たったそれだけの時間で彼は部下を完全に組み敷いていた。
「ナメてんのかァ、お前」
 地獄の底から響くような低い声で彼は呟く。対する部下は、何が起こったのか分からず目を白黒させていたが、やがて自分の喉仏にヒモがだらしなく垂れ下がった薄汚れたカーキのスニーカーが圧をかけ始めたのを認知し、逃れようと必死にもがいた。
「なァ」
 そんな彼に向かって男は目を大きく見開き、唇の端だけを異常なまでにつり上げた歪な笑みを浮かべて話しかける。
「お前の口は謝罪しかいえねぇのかァ?」
「す……すいま……ガアァッ」
 最後のうめきは喉にかかる圧力が更に大きくなったことを表していた。
 男はそんな反応をひとしきり楽しむように見つめていたが、やがてつまらなそうに呟く。
「俺なァ、謝罪を言う口は嫌いなんだ」
 意図に気付いた部下はひっと小さく息を飲み、体をよじって必死に抵抗する。だが。
「とりあえず、煩い口は閉じねえとなァ!」
 時、既に遅く。
 肉の潰れる嫌な音と血の混じった叫びが辺りに響いた。
 あまりの痛さに失神したらしい男の喉からようやく靴をはずし、それほど残酷なことをしたにもかかわらず、彼は心底つまらない、という表情で溜め息を1つつき、伸びをした。
「おい、お前ら」
 またもや前を向いたままで、彼は凛とした響く声でもって何者かに話しかける。いつからいたのか、辺りの斜面から何人もの黒服の男が飛び出してきて彼の周りを囲み、ひざまづいた。男はそんな彼らを見て満足そうにうなずく。
「一週間。俺を待たせるな」
 命令はそれで十分だった。自分を除く男たちが去っていく。
 残されたのは1人。
 彼は呟く。
「殺してやる」

 憎しみに満ちた言葉はしばらく空中を漂い、やがて空へと消えていった。

 さて、そのころリヒトはというと。
「待てよレナ!」
 レナを追って個人の家にしては妙に長い廊下を走っていた。眼前のレナは脇目も振らずに奔走している。
 が、やはり男の足には敵わない。リヒトはぐっと気合いを入れて加速し、だんだんと距離が縮まってくるのを目で確認すると目の前の少女へと手を伸ばす。
 乾いた冷たい空気の先。
 指先になびく髪が触れる。
 静寂の後に生じる、やけに響く床の軋み。
 掌から伝わる確かに肩を掴んだ感触。
 レナの動きが止まった。構わず手に力を入れ、自分の方に引き寄せようと試みる。体が半ばリヒトに向く形になった。
「何よ」
 レナは至極冷静な声音で応じた。
「何があった?」
 それにあわせてリヒトも弾む息を吐き出し、なるたけトーンを抑えて尋ね返す。
「お前らしくないぞ。いきなり取り乱すなんて」
「うるさいな」
 対するレナは低い声で呟き、彼の目を見据える。その姿はどこか焦りを隠しているように見えた。だがそれも一瞬。リヒトが怯んだ隙に彼女は肩の手を振り払い、前を向いてしまっていた。
「レナ」
 名前を呼ぶ声に非難の響きが混じる。レナは諦めた、といった風体で大きなため息をついた。
「ねぇリヒ君。逃げよう?」
 思いがけない言葉。リヒトは唇を固く結び、目を見開く。だが何も口にはしない。次に理由が語られることを察しての行動であった。果たしてその通りで、レナはしばらくするとまた口を開く。
「あの人……レンジさん、私たちが赤眼だって知ってた。きっとあの人の部下なんだよ!」
「知ってた? 確かなのか?」
 レナの返答に驚きながらも彼は必死に頭を働かせる。
「あの人、俺たちを助けてくれたんだろ?」
 命の恩人、なのに敵。その矛盾点を突きつけられ、それでも彼女の口調はしっかりとしていた。
「そんなの、油断させるために決まってるじゃない」
 鼻で笑って虚勢を張る。いつもはすぐに感情の波を見せるリヒトが嫌に冷静なことになぜか腹が立った。自分も少なからず感じた違和感を簡単に探りあてる。全てを見透かされているようで怖い。
 リヒトは何も言わない。ただじっと黙っている。
 やがてレナが沈黙に耐えきれなくなる頃、それを見計らっていたかのように、
 突然リヒトの手がレナのそれを掴んだ。
「戻るぞ」
 返事も待たずに彼はきびすを返して歩きだす。急な力がかかったことにより体勢を崩したレナが彼に倒れかかった。
 リヒトはそれを何も言わずに腕の力で無理やり押し戻し、また歩みを再開する。
「ちょっと、何で」
「何で戻るかって?」
 レナの言葉が終わる前にリヒトは憮然と言い放った。
「お前の言う通りなら二人で外に出る方が尚更危険だ。待ち構えた部下に捕まったらどうする? 可能性はゼロじゃないんだぞ」
 もっともな意見だ。その指摘に返す言葉が見つからず、レナは下唇を噛み、うつ向く。そんな彼女の行動を知ってか知らずか、リヒトは同じ調子で続けた。
「とにかく直接聞こう。推測はよくない」
 少女からの返答はない。リヒトは心配そうにその横顔を見やったが、表情に変化がないのを見てとると、伏し目がちに2、3度瞬きし、また視線を廊下の先へと戻した。
 無言。
 木の床がたわむ音だけがその場を支配する。
 時おり後ろを歩くレナの長い髪が自分の頬に当たる。
 繋いだ手に確かなぬくもりを感じる。
 だがそれほど近くにいるのに、リヒトにはレナの考えていることが全く解らなかった。
 ――なぜだろう。
 心の中で彼はそっと呟く。
 何も考えなくてもお互いの気持ちなんて分かり合っていたはずなのに。
 近づけば近づくほどレナが離れていく。根拠はないがなぜかそんな気がした。
「リヒ君?」
 彼の様子を察したのか、遠慮がちな声がレナの口から漏れる。
 だがそれはうわべだけ。
 リヒトは聞きのがさなかった。レナの声音に幾らかの苛立ちが混じっていたことに。
 何ともいえない気持ちが溢れる。

 涙が出そうになるのを必死に堪え、リヒトは返事の替わりに握った手にほんの少しだけ力をこめた。

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