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前世療法の探究コミュの「前世の記憶想起」か、「前世人格の顕現化」か?

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このコミュニティに興味のある方は、グレン・ウィリストン/飯田史彦編集『生きる意味の探究』徳間書店、1999を読んでおいでだろうと思います。

最近この『生きる意味の探究』を読み直し、ウィイリストンほどの前世療法家がなぜ?と思うことがしきりです。その「なぜ?」の部分を前掲書から4点取り出してみます。
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?ある人物が、催眠状態で、過去に生きていた人物になりきり、異なる抑揚や調子で話し始め・・・P23

?彼女は過去生へと戻っていたのだ。彼女の名前は、もはやジャネットではなくメアリーだった・・・私の耳に聞こえる声は、東部訛りの成人女性の声から、ソフトな響きの英国少女の声に変わっていた・・・P26

?退行催眠中に、まったく別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じながら、その話の中に割り込むことができなかった。このような「意識の分割」は、過去生の退行中に必ずと言っていいほど見られる非常に面白い現象である。私はのちに、多くの人々からこの現象を何度も観察するようになった。・・・・P61

?過去生の人格が知る由もない文明の利器の名前を出すと、クライアントは驚いて、催眠中にけげんなそうな表情を浮かべる・・・P121

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上記抜き書きの?と?を読む限り、ウィリストンは、セッション中のクライアントの語りをあくまで「前世記憶の想起」であるととらえています。

それは「過去に生きていた人物になりきり」や、「過去生へと戻っていたのだ」というウィリストンの文言から明らかなように思われるからです。どこまでもクライアント自身の想起する前世記憶だととらえているのです。


しかし、?では、「別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じながら、その話の中に割り込むことができなかった」というクライアントの「意識の分割」状態を述べています。

また、?ではウィリストンが「過去生の人格が知る由もない文明の利器の名前を出すと、クライアントは驚いて、催眠中にけげんなそうな表情を浮かべる」という奇妙な現象を述べています。

私が? に思うのは、??の意識現象をきちんととらえているにもかかわらず、なぜ相変わらず「前世記憶の想起」という解釈を通すのか? という点です。

?のように、「別の人格が自分の身体を通して語っているのを感じ」るのであれば、前世の人格が顕現化してクライアントの身体を通して自己表現しているのだとありのままに解釈するべきでしょう。?「東部訛りの成人女性の声から、ソフトな響きの英国少女の声に変わっていた」というクライアントの声の変質状態を観察しながら、英国少女の前世人格が顕現化したと、なぜ考えないのか。

また、?のように、「過去生の人格が知る由もない文明の利器の名前を出すと、クライアントは驚いて・・・けげんそうな表情を浮かべる」ことを、ありのままに解釈すれば、「けげんそうな表情」を浮かべるのはクライアントではなく、顕現化している「過去生の人格」なのだと考えるべきでしょう。

これまで、「何千人もの人々と」前世療法をおこなってきた(P23)ウィルストン が、ついに,
「前世人格の顕現化現象」という仮説を持たなかったのか、私には不思議でなりません。

おそらく、「あなたは、トンネルを抜け、過去の場面に到達するでしょう」、「目の前に展開している過去の場面を見ていきます」(P316)などの誘導法に、最初から含意されている「前世の記憶場面を想起する」という常識的先入観、大前提から、ついに脱することができなかったからだ、と私には思われます。
そして、不可解なことは、「生まれ変わりの真実性は証明不要なほど確かな事実だ(P96)」と断言しているにもかかわらず、「前世の記憶」がどこに存在しているのかについて一切言及していないことです。このことは、ブライアン・ワイスも同様です。まさか脳内に存在していると思ってはいないでしょうに。

私の知る限り、前世療法中のクライアントの語りを、「クライアントとは別の前世人格が顕現化してクライアントの身体(脳)を通して自己表現しているのだ」という解釈をしているのは、応答型真性異言を発見したイアン・スティーヴンソンだけです。彼は、「トランス人格(催眠性トランス状態で現れる前世の人格)」が顕現化して、応答型真性現現象を起こしていると表現しています。
しかし、スティーヴンソンも、「トランス人格」の存在する場については言及していません。


そして私は、顕現化する前世人格の存在の場は、「魂の表層」であり、しかも、今も当時のままの感情をもって生きて存在している、という作業仮説を立てています。

したがって、セッション中に私が対話する相手は、クライアント自身ではなく、クライアントの魂の表層から顕現化した前世人格とであり、しかも現在進行形で対話していると考えています。
この仮説に自信を与えたのが「ラタラジューの事例」でした。

このような途方もない前提でおこなうSAM前世療法は、世界唯一のものだと自負しています。
特許庁は、SAM前世療法を独自の前世療法として商標登録を認めてくれたのです。



日本でウィリストンより知名度の高いワイスが、前世療法を始めたのはまったくの偶然だったようです。
彼の『前世療法』山川夫妻訳、PHP、1991によれば次のようにその消息が語られています。

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「あなたの症状の原因となった時まで戻りなさい」
そのあと起こったことに対して、私はまったく心の用意ができていなかった。
「アロンダ・・・・私は18歳です。建物の前に市場が見えます。かごがあります。かごを肩に乗せて運んでいます。・・・・(後略)時代は紀元前1863年です。・・・・」
彼女はさらに、地形について話した。私は彼女に何年か先に進むように指示し、見えるものについて話すように、と言った。(前掲書P25−26)
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クライアントはコントロール不能の不安に悩む28歳の女性キャサリン。
そして、突如、紀元前19世紀のアロンダと名乗る18歳の娘として語りはじめたというわけです。
注意すべきは、上記の「彼女」とは文脈からして「前世人格アロンダ」ではなく、クライアントのキャサリンに対して指示していることです。
ワイスは、明らかにキャサリンが前世記憶として、紀元前19世紀に生きたアロンダのことを語っている、ととらえています。
しかし、アロンダの語りをありのままに受け取れば、「前世人格アロンダ」が顕現化したとらえるべきではないでしょうか。
ワイスの思考は、この現象を次のようにとらえています。

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そして、キャサリンは紀元前1863年にいた若い女性、アロンダになった。それとも、アロンダがキャサリンになったというべきなのだろうか?(前掲書P36)
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上記の「キャサリンが・・・アロンダになった」、「アロンダがキャサリンになった」というワイスの思考法は私には理解不能な奇妙な考え方に写ります。
キャサリンが前世のアロンダになれるはずがないでしょうし、逆にアロンダが現世のキャサリンになれるはずもないからです。
「キャサリンがアロンダであったときの前世記憶を語った」のか、「前世のアロンダがキャサリンの口を介して自分の人生を語った」のかと考えることがふつうだろうと思われます。

結局、ワイスは、「「前世のアロンダがキャサリンの口を介して自分の人生を語った」という素直な解釈をとらず、「キャサリンがアロンダであったときの前世記憶を語った」という解釈を、以後の他のクライアントにおこなった前世療法の語りにも適用しています。そのことはこの本の末尾で次のように述べていることから明らかです。

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こうした人々は、それ以外の前世についても思い出した。そして過去生を思い出すごとに、症状が消えていった。全員が今では、自分は過去にも生きていて、これからもまた生まれてくると固く信じている。(前掲書P264)
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「前世についても思い出した」、「過去生を思い出すごとに」の文言で明らかなように、ワイスにとっては、前世療法におけるクライアントの語りは、「クライアントが前世の記憶を語るのだ」と終始とらえられているということです。
「前世人格が顕現化してクライアントの口を通して語る」とは考えなかったのです。
グレン・ウィリストンと同じく、ワイスもついに「前世人格の顕現化」というとらえ方ができずにいることは、私よりはるかに数多い前世療法セッションをこなしているはずなのになぜでしょうか?
私がワイス式と呼んでいる、ワイスの前世療法の誘導文言が、『前世療法2』の巻末に次のように書かれています。

「階段の下の方には、向こうにまばゆい光が輝いている出口があります。あなたは完全にリラックスして、とても平和に感じています。出口の方に歩いてゆきましょう。もう、あなたの心は時間と空間から完全に自由です。そして、今まで自分に起こったすべてのことを思い出すことができます」

やはり、ワイス式においても、クライアントは前世の記憶を「思い出す」のです。


誤解を恐れず言えば、ワイスもまた、唯物論的思考から抜け出すことができなかったのだ、と私には思われます。
したがって脳内? のどこかにある「前世の記憶」を想起している、というとらえ方しかできなかったのだと思います。
こうした固定観念から、前世人格が顕現化して語っているのだ、という発想の転換ができなかったのでしょう。
また、私の「ラタラジューの事例」のような応答型真性異言に出会ってなかったこともあると思われます。


ワイスが「キャサリンの事例」に出会ったのは1980年代の半ばころだと思われます。
私が、「ラタラジューの事例」に出会ったのは2009年です。

前世療法が市民権を得て、20年程度の間、「前世の記憶」として扱われてきた概念を、私は「前世人格の顕現化」だと主張するに至りました。
この主張は、「ラタラジューの事例」という証拠があってこそのことです。
そして、SAM前世療法を創始してからこの3年間に2ヶ月から3ヶ月に一度、クライアントに私の守護霊を名乗る存在や神を名乗る存在が降りてきては「SAMの仮説は正しい。自信をもって進みなさい。あなたは懐疑的な語り方をやめ、確信をもって霊現象を語りなさい」というメッセージを繰り返し告げています。

うがった考え方をすれば、ワイスにキャサリンというクライアントが贈られたように、私に里沙さんという被験者とSAM前世療法を贈り、「前世の記憶」から「前世人格の顕現化」へと、とらえ方の転換をさせようという流れが作られている(計画されている)ということかもしれません。

コメント(2)

うっかりすると見過ごされてしまうかもしれないけれども、スピリチュアルに関する理解の中でも、もっとも重要な、〔何が転生輪廻するのか?〕という問題を提起しておられると思います。


ユング派の前世療法家である、ロジャー・J・ウルガーは自著「『魂』の未完のドラマ」という本の中でそのような問いを自ら発していますが、明確な答えには達していないようです。


しかし、ウルガーは著名なブライアン・ワイスほかの前世療法家が気にも留めないことを問題視するあたり、たいしたものだと思います。


おそらく、〔人格〕というものを認識するパラダイムというかモデルが違うのだろうと思います。


単一のメタ人格とでも呼ぶべきものが、転生ごとにそれぞれ独自の人格を持つけれども、それはあたかも、役者が舞台ごとに異なった役を演じるようなもので、いわば便宜的にそれ以前の転生を忘れる、もしくは記憶をブロックしているに過ぎないと考えるとしたら、たぶん、ワイスの考えに近いのではないでしょうか?


一方、先生がお書きになっておられる、各転生ごとの複数の人格が独自性と独立性を保ちつつもなお、より大きな自己というものを形成するという概念は、一部スピリチュアリズム思想家が説く〔類魂〕という概念や、ヘミシンクの実践者である、ブルース・モーエンが自著「死後探索」シリーズの中で書いている認識と非常に近似していると思います


また、前記したロジャー・ウルガーは同書の中でいわゆる、チャネリングを論じて、ジェーン・ロバーツをチャネリストとして語られたものを書き起こした「セスは語る 魂は永遠であるということ」という本だけは、考慮にあたいする内容を含んでいる、と高い評価を下していますが、同書にはまさに、転生した人格についての先生の見解と非常に符合する説明が記されています。


わたしは、先生の論旨はまことにもっともだと思いますが、その意味するところは実に深遠であると思います。各転生における、人格が独自性と独立性を保ってなお、より大きな〔自己〕というものに収斂されるという人格構造のモデルの持つ、意味深さは、特段の探究にあたいすると思います。
稲垣先生が提唱される魂の表層に存在する前世の人格モデルに加えてこのような解釈も成り立つのではないかと思います。



そもそも人格とは何でしょうか?わたしは、人格とは特有の仕方で内外の刺激に反応して精神機能を営む自立的で自発的なシステムのことだと思います。


たとえるとすれば、独特の仕方で情報を収集し、記録し、それにもとづいて一定の判断を下し、その判断を実行したりする自立的で自発性を備えたソフトウェアのようなものだと思います。


ソフトウェアはそれ自体、一種の情報として記録できますし、そのソフトウェアで処理し、記録した情報もまた、ソフトウェアと一体で記録できますが、人格も一種のソフトウェアのようなものとして記憶されるものであると思います。そして、それに付随するさまざまな記憶も人格と一体で記憶されるものだと思います。


ソフトウェアが書き変えが可能なように、人格もまた、書き変えが可能です。心理療法というのは、ある種の人格の書き変えと言えますし、その極端な例を、洗脳や催眠下に置ける人格の置換に見ることができるでしょう。


いったん、記録したソフトウェアは随時、呼び出して実行させることができますが、人格もまた、呼び出して機能させることができるのは、それが記録=記憶であるからだと思います。前世の人格とは、そのようにして呼び出された記憶=記録された、精神活動のシステムのことであると考えることもできると思います。


前世療法で呼び出され人格が記憶であることを示唆するのは、それが過去のエピソードに強く固着していることを濃厚に思わせるからでもあります。


人格というものは、変化するものです。何かを学んだりさまざまな体験を積み重ねることで人格は変化します。ですから、生きている健康な人の人格は未来に向かって開いていて、今を生きていると言えると思いますが、前世療法で呼び出される人格は過去の体験のみに生きていて、そこから、成長と発達を止めてしまったかのように思えるのは、やはり、それが記憶だからなのではないか?とわたしは思います。


さまざまな理由で人生のある時点から成長と発達を止めてしまった人格の一部と呼べるようなものが存在することは、たとえば、インナーチャイルドや解離性同一性障害の事例における、未熟で未発達な人格に見てとることができると思います。それらは、まるで凍りついてしまったかのように過去のある時点に張り付けられ、人格の全体構造から分離して、いわば置き去りにされてしまったかのように、特有の感情や観念の記憶にしがみついているように思えます。


ある特定の場所に現れて機械的と言えるほどに、過去の出来事を再現しようとする、いわゆる幽霊現象は、心理学で言うところの強迫性反復に実によく似ているとわたしは思います。


幽霊というのは、断片化した心の一部が見せる、神経症のようなものではないか?とわたしは思います。

ですから、いわゆる浄霊や除霊というのは、分離した心の一部をもとの心に再統合する心理療法と捉えることも可能なのではないかと考えます。


魂というのは、人格の上位概念で、人格を超えてそれを含むものなのではないかとわたしは思います。魂そのものは超越的な存在ですが、その多面的な無数の側面を一つの具体的な人格のみで表現しきることができない、ゆえに魂はいくつもの人格を表出することにより、自らの存在を表現している、それが現世や前世の人格なのではないかと考えます。

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