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アメリカン・マフィァの生涯コミュのアルフォンス・カポネに付いて語ろう!!!

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アルフォンス・カポネ(Alphonse Gabriel Capone, 1899年1月17日 - 1947年1月25日)は、アメリカ・シカゴの暗黒街のボス。自称「家具販売業者」。タイム誌の表紙を飾るほど有名なギャングスタ。身長179cmであり当時としては大柄であった。カポネ家の四男。家族は妻のメエと息子のソニー。顔に傷があったことで「スカーフェイス」というニックネームがあった。しかし、本人はこの呼び名を嫌っていたため、本人の前で呼ぶ者はいなかった。英語の発音ではカポネよりもカポーンが近い。
イタリア・ナポリから来た移民の子としてニューヨークブルックリンで生まれる。アルは自分がナポリではなくアメリカで生まれ育ったことをつねに強調し、誇りにしていた。禁酒法時代にシカゴで高級ホテル、レキシントンを住まいと事務所にして、そこから組織を指揮し、密造酒製造・販売、売春業、賭博業をして組織を拡大し犯罪組織の統合近代化していった。その陽気な性格からマスコミにも取り上げられることが多く、自らも生活貧窮者に対する食事の無料給付の慈善事業を行うなど大衆の支持獲得に腐心した。
ボクシング世界チャンピオンのジャック・デンプシーとは友人だった時期もあり、試合前には花束を贈ったりもした。デンプシーもアルのことを「最高のファンの一人」と言っていた。
アル・カポネはコカインの常習者でもあった。後年アルカトラズ刑務所から移送される直前の1938年に身体検査を受けた。このとき刑務所の医師はアルの鼻中隔穿孔に気づく。鼻孔の間にある軟骨組織に穴があく原因で1番考えられるのはコカインである。鼻孔の間にある軟骨組織に穴が開くほどには何十万ドル分もすわないとならない。不定期の使用や反復使用ではならないと言われている。アルのコカイン常用が周りに気づかれなかったのは、組織の全員に対し、コカインやヘロインの取引をご法度にしていた事情がある。部下には麻薬をやっていたら首にするか、もっと痛い目にあわせると言っていた。カポネのコカイン使用を裏付ける証拠は不十分ながらも否定しようがない。カポネは1931年以降に刑務所に入ったので、1920年代初めから中ごろである可能性が最も高い。
アルは学校では6年生までは成績も良かったが、その先は転落の一途だった。学校をサボるようになり、怠け癖が成績に響いた。7年生に進級する頃、担任の女教師にくどくどと注意されたことで、殴り合いの喧嘩となった。その後、2度と学校には行かなかった。この頃のアルは遊び好きで、しゃれた服を着て外出しはしゃいだりしたという。玉突き(ビリヤード)の名手で町のチャンピオンだった。アルの幼友達だったエドワード・ディーン・サリヴァンはアルについて無邪気な少年で、酒は一滴も飲まなかったが、アドニス社交クラブという暴力の巣窟のような店にも出入りしていたという。ここでアルは銃の扱いかたを覚えた。ジョニー・トーリオとこの頃出会う。
アルはチンピラの頃3〜10ドルと金を稼ぐと、その金を家に持ちかえり母親に渡すような少年だった。この頃はファイヴ・ポインツ・ジュニアなど色々なギャングに入ったりもした。
まだ駆け出しの頃、トーリオの紹介でフランキー・イェールと出会う。アルはイェールに気に入られ、彼の店ハーヴァード・インで皿洗いから給仕までなんでもこなした。そして、イェールに認められて本格的に暗黒街に入る。
ハーヴァード・インで働いて1年ほどたったある夜、店にいた若い女性客にひわいな言葉を言った。すると、女性客の兄のフランク・ガルチョが妹を侮辱されたとしてアルを1発殴り、ナイフでアルの左頬と首筋を切りつけ、店から逃走した。このときで顔に傷がついたことで「スカーフェイス」(向こう傷)という異名がついた。この後、アルはガルチョを探し復讐しようとしていた。そのため、ガルチョは知り合いを通じて、サルヴァトーレ・ルカニーア(後のラッキー・ルチアーノ)にこの事件を話した。このことでアル、ルカニーア、ガルチョ、そしてイェールで正式な話し合いをした。その結果、ガルチョの妹を侮辱したアルがガルチョに謝罪することになった。
後年アルは機会と力を手にしたとき、ブルックリンの小悪党にすぎないガルチョに恨みを晴らしたい気持ちがあったかもしれないが、それを抑え、そればかりか彼を週給100ドルで使い走りに雇ったという。
19歳のときに、メエと出会う。1918年12月4日にソニーが生まれ、12月30日に結婚式が行われた。 実際のアルは結婚してから、イェールの下で働くのを一時期やめて、ボルチモアへ行き、建設会社に簿記係として就職した。毎日スーツにネクタイのまじめな服装で経営者のピーター・アイエロの事務所へ出勤した。しかし、父ガブリエーレが死んだ1920年ごろにトーリオとイェールとの付き合いを再開した。1920年アイエロに退職を申し出た。餞別にアイエロはアルに500ドル貸した。アルはこの恩義を決して忘れなかった。後年にピーター・アイエロが技術大会でシカゴに来たとき、大物になったアルは、彼を歓迎する宴会を開き、シセロではパレードを行なった。
1920年(1919年や1921年とする説もある)にトーリオに呼ばれてシカゴへ行く。この頃アルは、ホワイト・ハンドを痛めつけたため、ボスのワイルド・ビル・ロベットから狙われていた。他にも2件の殺人事件に関与しており、起訴されそうでもあった。そのためシカゴ行きはちょうど良かった。シカゴへ行くとき、友人のラッキー・ルチアーノは2万ドルの餞別を渡したという。そのときのことを「カポネのやつ感極まって、今にも泣きそうな顔だったよ」と後年に語っている。
最初はジム・コロシモの売春宿でポン引きなどをしていた。この下積み時代に不正事業を組織化して反対派と和解するトーリオの手法を見習ったという。
1年とたたないうちにトーリオ帝国で出世し、賭博場兼売春宿のフォア・デューセスの支配人になった。雇われ人ではなくパートナーになると、客引きなどする必要はなくなった。この頃すでに2万5千ドル近い年収を稼ぐ実業家になっていた。この頃、シカゴに自分名義で家を購入しブルックリンから家族を呼んだ。妻子だけではなく、母や兄弟たちも呼んだ。
ウィリアム・E・ディヴヴァーがシカゴ市長になると政治改革が続くと考え、事業の本部をシセロへ移した。シセロでは賭博事業者だけではなく建設請負者としても名を上げようとし、シセロの道路舗装工事を取り仕切った。
この頃、兄フランク・カポネが警察に射殺された。このことが、ギャングスターとしての転機になり、このときからやみくもに覇権を目指す筋金入りのアウトローに変身したと思われる。
シカゴで暴力事件や殺人事件があると、毎回アル・カポネの名前が浮上したが、決め手が一つもなかった。
ダイオン・オバニオンを暗殺した頃から、自分も暗殺されるのではないかという恐怖から警備が厳重になった。どこに行くにも両脇に2人のボディーガードを連れて行き、外出には必ず車を使った。この時期、自宅以外1人でいることは無かったという。
1925年1月12日に“ハイミー”ワイスと“スキーマー”ドルッチとジョージ・モランは最初のカポネ暗殺を企てた。アルの車にトミーガンで攻撃した。ボンネットが引き裂かれ、エンジンが壊れるほどの威力だった。運転手は負傷したが、アルは車にいなくて無事だった。その後、トミー・クイリンジョーネという若い運転手が誘拐され殺されるという事件があった。
ロバート・セント・ジョンというジャーナリストはシセロ・トリビューンという新聞でカポネ一味の悪影響を糾弾し、暴露していた。そのため、ラルフ・カポネが部下を使いセント・ジョンを暴行した。アルはそのことを謝り、金で解決しようとした。しかし、セント・ジョンは金を受け取らなかった。そのため、アルは新聞社の出資者に圧力をかけ、新聞社の権利を買い取ることにした。その後、セント・ジョンは新聞社を去った。
1925年にジョニー・トーリオが敵に襲われて引退すると縄張りを譲られ、組織のトップに立った。このとき26歳。酒の密売でのし上がっていくが、その過程で次々と敵を抹殺していった。酒の密売についてはアルはよく「俺は人々が望むものを与えてきた。なのに俺に返ってくるのは悪口だけだ」と言っていた。さらに”ビッグ・ビル”・トンプソンをはじめ、政治家、警察などの官憲を買収して勢力の拡大と安泰化を図った。アル・カポネは1920年代、実質的な市長だったとも言える。
1925年のクリスマスに一度ブルックリンに戻り、ホワイト・ハンドのリチャード<ペグレグ>ロナーガンや一味を暗殺し、ホワイト・ハンド一味をつぶし、イタリア系の犯罪組織で不動の地位を得る。このことは「アドニス・クラブの虐殺」として、有名になった。その後、ニューヨークのギャングとの仲を深め競争相手を葬っていった。
1926年4月27日にカポネ組の構成員が、敵のオドンネル兄弟と間違えてウィリアム・H・マクスウィギンという若い検事を殺害してしまった。そのため、アル・カポネは指名手配された。300人の刑事が3ヶ月捜査しても見つからなかったので、アル・カポネはカナダかイタリアへ逃亡したのではないかという噂が流れた。実際にはミシガン州ランシングに身を隠し、友人のアンジェロ・マストロピエトロの協力を得て、安気な逃亡生活をおくっていた。
ランシングでは暴力や殺人はなかったが、それでも警戒してジャック・マクガーンとフランク・ニティの2人の部下を呼んだ。アルはランシング郊外のラウンド・レイクの湖の周辺を散歩したり、ひと泳ぎしたり、ときには湖に遊びに来た子供たちの相手をした。ランシングに住むイタリア系の人々はアルの潜伏に手を貸していた。この頃ランシングの人たちはブラック・ハンドの残党やパープル・ギャングの犠牲になっていた。アルはそういった連中に「ランシングの人たちに手を出すなら、このアル・カポネが相手になる」と言うと、彼らは手を引いたという。貧しい家庭には生活費や学費を出したり、子供たちを連れてアイスクリームを買いにつれてったり、こうしてアルはこの街で人気者になった。
3ヶ月間ランシングで過ごした後、シカゴへもどる。1926年7月29日、シカゴ刑事裁判所に出頭する。警察などが事件を調べていくうちにマクスウィギン殺人事件は起るべきして起った事故ということになった。なぜなら、彼のことを調べていくうちに彼はアイルランド系のギャングスターと付き合いがあったし、禁酒法に違反してもぐり酒場にも頻繁に出入りしていた。とても検事とは思えない行動をとっていたことが暴露された。アルに対しても3ヶ月間、行方をくらましている間に市民の怒りもおさまっており、捜査でも事件について法的に立証できず、アルは自由の身になった。
アルはシカゴ・ハイツを自分の帝国に治めようとした。しかし、そこはシチリア系のギャングが支配していた。そのため、カポネ組と抗争になった。この抗争は、血で血を洗うゲリラ戦だった。最初にカポネ組はシカゴ・ハイツでもっとも恐れられた恐喝屋でシチリア系の親玉のトニー・サンフィリッポを血祭りに上げ、その後も、次々とボスを暗殺して、シカゴ・ハイツを手中に収めた。アルはこの街で、貧しい人や子供たちに車から1ドル銀貨をばらまき、ロビン・フッドのようなことをした。そのためこの街でも人気があった。
1927年頃には、シカゴで有名人になっていた。
1928年、この頃フランキー・イェールとの闇酒取引はうまくいっていなかった。イェールは酒を運ぶトラックのハイジャックが増え続けていると言っていた。このことについてアルはイェール本人を疑っていた。この輸送ルートはカポネ組の大きな収入源(この頃アルの年収は推定で1億ドルを超えていた)の一つだった。詳しく知るために友人のジェームズ・デ・アマートをブルックリンに送りイェールの監視を頼むが、アマートはやがて殺された。そしてイェールの闇酒取引の不正が疑いから確信に変わり、ジェイク・グージックらと暗殺を計画する。マクガーン、アルバート・アンセルミ、ジョン・スカリーゼ、フレッド<キラー>バーグの部下を使い、1928年7月1日に暗殺を実行する。 その年の夏の終わりに、イェール暗殺の仕返しと思われる事件があった。アルの友人でウニオーネ・シチリオーネの会長のアントニオ・ロンバルドが暗殺され、そのあとを継いだパスカリーノ・ロロルドも暗殺された。
マクガーンが自分の命を狙ったジョージ・“バグズ”・モラン一味を抹殺すべきだと言ったとき、アルにとってもモランは商売敵で自分の命を脅かす存在だったため、それに同意し、彼に1万ドルと暗殺にかかる諸経費を支払う約束した。そして1929年2月14日に聖バレンタインデーの虐殺は実行された。事件は全米のマスコミに大きく取り上げられた。虐殺が行なわれた当時、アルはマイアミ・ビーチに滞在していた。警察はアルを疑い電話の記録を調べたが、事件の前後数日間はシカゴからの記録もなかった。
1929年5月の初めに、部下のジョン・スカリーゼとアルバート・アンセルミが裏切ろうとしているという情報が入ってきた。そのため、5月7日にインディアナ州ハモンドのレストランで晩餐会を開き、食事が終わった頃、アルが2人と同席していたシチリア人同盟会長ジュゼッペ・ギュンタを裏切り者と罵り、部下が3人を椅子に縛り上げた。そしてアルは野球のバットで3人を死ぬ一歩手前まで殴り、部下が銃で止めを刺した。翌朝、インディアナ州のハイウェイで3人の死体は発見された。死体を調べたフランシス・マクナマラ医師はこれほど損傷のひどい死体は見たことがないと語った。
1929年5月にアトランティック・シティで行なわれた。暗黒街の会議の後、拳銃の不法所持で自作自演で逮捕される。その理由は、聖バレンタインデーの虐殺でカポネの行動が目立ちすぎているので、世間の非難の目をそらすという意味だった。このことも会議の議題の一つになっていた。刑期は5月17日から1930年3月17日の10ヶ月間。刑務所内では言うまでもなくVIP待遇だった。一部資料によると莫大な利益を上げているカポネと、ニューヨークやその他のギャングの仲が悪くなり、カポネが身の危険を感じたためだという話もある。
1930年の暮れ逮捕を逃れるために、アルはシカゴのサウス・ステート・ストリート935番地の店で貧しい人たちに1日に3度、無料給食を提供した。このことは新聞などでも報じられ、国民が感心した出来事だった。無料給食を運営するのは1ヶ月に1万ドル経費が掛かるとアルは言っていた。しかし、実際には経費のほとんどはアル・カポネ自身ではなく地元のパン屋、生肉業者、コーヒー豆屋などに寄付するように言い、彼らはアルの言いなり状態だったという。
1931年、ニューヨークではサルヴァトーレ・マランツァーノとジョー・マッセリアの覇権争いカステランマーレ戦争が行なわれていた。アル・カポネは最初マッセリア側に軍資金を送ったが、マランツァーノ側から早まったマネはしない方良いと言われ、それ以上のことはしなかった。その後、マッセリアが暗殺されて、抗争が終わり、1931年5月にシカゴでギャングの集まりがあった。その時に、マランツァーノはアルのことをシカゴ・ファミリーのボスとして認め、アルを讃える演説をした。このときアルは、マランツァーノにダイヤをちりばめた腕時計を贈った。マランツァーノに同行して来たジョゼフ・ボナンノはこのときのことを「カポネは最高のホストだった」と絶賛している。
1931裁判の始まる何年も前から国税局はアルの脱税を調査していた。
アルは裁判が始まる事前に、陪審員候補者のリストを入手して1人千ドルで買収した。しかし、このことはアルの部下のエドワード・J・オヘアが裏切り事前に国税庁のフランク・J・ウィルスンに知らせた。オヘアは密告したことで、後に殺害される。
1931年10月7日にアル・カポネの脱税裁判が始まる。裁判ではかつてカポネ帝国の会計係だったフレッド・リースが証言台に立ち賭博場のことなど証言する。そして有罪判決を受ける。合計11年の懲役、罰金8万ドル、アルは刑を宣告されたとき自分が予想していたよりも過酷な宣告だったため、微笑はにがいもので今にも怒りが爆発しそうだったという。
アル・カポネは事前に陪審員を買収したということもあって、彼の弁護士は裁判での弁護を怠っていたといわれている。
1931年10月24日にクック郡刑務所に入る。この刑務所でアルは所長と職員を買収し、レキシントン・ホテルに住んでいたころと変わらない豪華な生活をしていた。そこから以前と同じように組織を動かしていた。所長がアルの機嫌をとっていたという。
しかし、1932年5月2日、アルにとって最後の望みであった再審請求は最高裁から退けられた。この時アルはかなり失望したという。
1932年5月3日午後に、アルは家族に別れを告げ、列車でアトランタへ向かう、このとき刑務所へ向かうアルを見ようと来たエリオット・ネスがいた。そこでアルとネスは少し話をした。アルとネスが会ったのはこの時が最後である。
アルがアトランタ刑務所に入ったころ新聞ではアル・カポネが刑務所を牛耳っていると書いたりしたが、実際には逆でアルが他の囚人の標的になっていた「酒と女はどこにある?デブ」などと言われたりもした。しかし、刑務所内では娑婆にいた頃、アルに世話になった者もいて、そういった連中はアルの味方になった。
ここでのアルの仕事は靴工場で靴の修理だった。毎日8時間電動ミシンで靴底を縫い合わせていたという。
8月22日にアルカトラズ刑務所に到着する。ここでアルは囚人85号になる。
1936年に囚人によるストライキがあったが、アルは参加しなかった。このことで他の囚人から妻と子を殺してやるなどの脅しを受けた。すると、アルは独房で毛布を頭からかぶり泣いていたという。この子供じみた行動も神経梅毒によるものだが、看守や囚人たちは梅毒とは知らないので、長い刑務所暮らしで頭がおかしくなったのだろうと思った。
1936年6月23日にはジミー・ルーカスという囚人に刃物で刺されるという事件があった。原因はルーカスがアルから金をゆすろうとしたが断ったのと、ストに参加しなかったこと。ルーカスはその後、6ヶ月間の隔離棟での生活で狂人になったという。
その後、アルはしだいに梅毒の症状がひどくなりロサンゼルス近くの連邦矯正施設に移る。そこで残りの刑期の1年近くを過ごす。
1939年10月25日にFBI捜査官のD・W・マジーがアルを面会した。マジーはこのときの面会について、アルは現実と妄想の区別がつかなくて、理性を失っていたと感じた。
1939年11月16日にアルは釈放された。このときのアルはクック郡刑務所に入るときの、身なりがよく自信に満ちあふれた人物とは別人だったという。
出所後、ボルチモアのユニオン記念病院で梅毒の治療を受けることになる。4ヶ月の治療の後、アルと家族はフロリダのパーム・アイランドの家で生活する。この頃、アルの家には暗黒街の人間が訪れてきたりし、アルと雑談をしたり、他の兄弟と商談をしたという。
1945年にアルは梅毒治療として民間人ではじめてペニシリンを投与されたが、病気が進行しすぎていたので効果はなかった。
1947年1月25日土曜日午前7時25分に死亡。出所してから死亡するまでかつて牛耳ったシカゴへ1度も戻ることはなかった。アル・カポネは土曜日に死亡したので、各紙の日曜版には大きく報じられた。ニューヨーク・タイムズはこのことを「悪夢の終わり」と伝えた。
2月4日に行なわれた葬儀の会葬者の中にはかつてアルの側近だったジェイク・グージックや、後にシカゴの大物ボスになるマレー・ハンフリーズの姿もあった。
アル・カポネが死亡した後、シカゴ暗黒街のボスは、フランク・ニティ、ポール・リッカ、トニー・アッカルド、サム・ジアンカーナ、サム・バッタグリアと引き継がれていく。
1990年代に行なった模擬裁判でアル・カポネは無罪だったという。
アル・カポネをモデルにした映画やテレビドラマは数多く作られ、今も歴史上最も有名なギャングとして語り伝えられている。エソワード・G・ロビンソン主演の「犯罪王リコ」はアル・カポネをモデルにした映画であり、「暗黒街の顔役」「スカーフェイス」はそのリメイク版。
1957年にエリオット・ネスの活躍を描いて発行された「アンタッチャブル」は、1950年代後半にTVドラマ化され人気を博したが内容のほとんどはドラマシリーズ用のフィクションである。テレビドラマや映画の中でネスは家族おもいの家庭人だが実際は女好きでアル中の目立ちたがり屋だった。アル・カポネも実物とは似ても似つかないと実際のカポネを知っている人たちは言っている。
なお、「アンタッチャブル」は、1950年代後半〜1960年代初頭にかけて放送されたテレビドラマ版、1987年に製作・公開されて大ヒットしたリメイク映画版(ブライアン・デ・パルマ監督作品。主演:ケビン・コスナー。カポネ役:ロバート・デニーロ)の他に、1990年代にもテレビドラマ化されている(1990年代のリメイクテレビドラマ版は、日本では、『新アンタッチャブル』の題名でテレビ放送された)。

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