ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

トム爺の奨励集コミュの「神の民としての教会」

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
チャペル
2007.7.8.(日)
M教会・礼拝奨励
「神の民としての教会」
(申命記29:10〜15)
信徒伝道者・宮平光庸
(はじめの挨拶)
  K神学館にS教授が来られる前から、その著書“Talking to God”に注目していたが、このたびG先生の前任組織神学教授・S先生の教会論講義を聴講できたことは感謝であった。
?最初に驚いたことは、R神学校のテキストであったC.H.の組織神学テキストに教会論がないことであった。
?次に驚いたことは、S先生の教会論講義が改革派的というよりも、真に聖書的な内容であったことである。
 ?さらに驚いたことは、最近来日されたW先生の教会観(=教会はエデンの園に始まる!)をお聞きして、それが私の考えていた教会観に類似していることである。
 そこで、私が聖書から学ぶことを許された「神の民としての教会」につき、深い感謝の気持ちを表しつつ、ここに奨励という形でお分かちしたい。

1.「神の民」という教会的メタファーの旧・新約聖書的な背景
  旧・新約聖書を一貫して流れている根本的な思想は、憐れみ深い神が罪深い人間に対して語りかけておられる約束の言に最も明確に表現されている。それはいわゆる「恵みの契約」における「神の民」というコンテクストの中に出てくる下記のような聖書箇所である。

(旧約聖書)
?「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。」(出エジプト6:7)
?「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」
(レビ記26:14)
?「さきに主が、あなたに約束されたように、またあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立ててご自分の民とし、またご自身があなたの神となられるためである。」
(申命記29:12)
?「主と王と民との間で、主の民となるという契約を結び、王と民との間でも契約を結んだ。」(?列王記11:17)
 ?「王は柱のわきに立ち、主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、精神を尽くして、主の命令と、あかしと、おきてを守り、この書物にしるされているこの契約のことばを実行することを誓った。民もみな、この契約に加わった。」(?列王記23:3)
 ?「主はこう仰せられる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。」(イザヤ49:8)
  「あなたはわたしの民だ。」(イザヤ51:16)
 ?「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ7:23、11:4、24:7、30:22、31:33,32:38)

(新約聖書)
 ?「わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(ヘブル書8:10)
 ?「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」
(ヨハネ黙示録21:3)

2.「神の民」である旧約のイスラエルと新約の教会
  しばしば旧約聖書における神の民イスラエルが神の裁きの対象として証しされ、新約聖書における神の民クリスチャンの群れである教会が神の憐れみの対象として証しされていると言われている。
  しかし、上記の聖書箇所からも明らかなように、神の民は神の恵みの契約に基づくものであって、神の前にはイスラエル人と異邦人という人種的差別はなく、そのほか男女別差別や年齢別差別もない。
  パウロがローマ人への手紙で明言しているように、「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなるときまでであり」(11:25)、「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められた」(11:32)のである。

3.「神の民」という神の「言」が歴史的「出来事」として実現する根拠
 ?神の言が書かれたヘブル語の未完了形と完了形
  神が未完了形で語られる言が完了形になるわかりやすい例示として次の神の言を挙げることができる。「すなわち、「光あれ」と神が言われると「光があった」と記されている。」(創世記1:3)とおりである。
  神が「その民」の神となり民が「神の民」となるという神の約束の言が神の恵みによって実現するということ、すなわち神の約束が必ず成就することの確実性は神の約束の「言」(=ヘブル語「ダーバール」)が現実の「出来事」(=同じへブル語「ダーバール」)と同じであるという確実性に他ならない。
 ?人間の言葉には「即非の論理」が妥当する。
残念ながら、私たち人間の言葉には「即非の論理」が妥当し、人間の約束が必ず成就するという確実性はない。しかし、神の言は必ず成就する。罪の弱さをになう私たち人間が、罪人であるにも関わらず希望を持つことを許されているという確実な聖書的な根拠はここにある。

4.共同体としての「神の民である教会」の広がり
 ?神の民である教会の時間的・歴史的かつ空間的・地域的な広がり
 近年、「教会とは何か」という問いが「教会とは誰か」という問いに変えられてきているようであるが、「罪人の集まり」としての教会は個人から構成される集合体ではあるが、その強調点は個人よりもむしろ「共同体」にあり、使徒信条において告白されているところの「聖徒の交わり」にあると思われる。それは信仰の共同体ではあるが、より適正に表現すれば「信仰・生活の共同体」である。
  その共同体としての神の民である教会は、正に神が創造されたエデンの園
に始まり、終末においては「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」
(ヨハネ黙示録21:3)とあるように、約束された神の言が成就された形で現れるに相違ない。
 ?教会の現状と主イエスの祈り
  「聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。・・・父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。・・わたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。・・わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(ヨハネ17:11、21、22、23)
  上記の主(=神)イエスの祈りの言は、神の言として、成就されるに相違ない。
 ?「ある」ものに「なる」
  私たちは既にクリスチャンである。しかし、完全なクリスチャンになっているわけではない。私たちは人間である。しかし、完全な人間になっているわけではない。私たちは他の人々をクリスチャンにしようとして伝道に努めるかもしれないが、人間がクリスチャンになるのではない。クリスチャンは人間になるのであって、その逆ではない(Christians are to become human-beings, and not vice-versa.)。クリスチャンになるとは、神に向かっていない人間が、神に向かう人間となることに他ならない。
  キリスト教会は、まだこの世の人々がそれを見て信じることができるようには一つになっていない。しかし、主イエスの祈りにあるように神が一つであるように、共同体としての神の民としての教会も「一つである」(22)。だから「一つとなる」(23)のである。
  クリスチャンは既にクリスチャンであるとともに本来的なクリスチャンになるのであり、人間は既に人間であるとともに本来的な人間になるのであり、クリスチャンは、決して神のようになるのではなくて、本来的な人間になるのである。

5.「神の民」の現状と目標に向けて
  しばしば指摘されてきているように、私たちが神の民の現状を正直に直視するならば、そこに見られるのは神の民における悲しい「分離」の実情であろう。その根本的な理由の一つは、神の言である聖書に基づく信条ないしは信仰告白の相違に拠るものであろう。その底流には、聖書に基づく信条であるにも関わらず、いつの間にか信条に基づく聖書解釈が無自覚的に支配的になってきていることが指摘されよう。
  ここで大切なことは、それぞれの福音的な聖書信仰の背景にはそれぞれの伝統があることを認めながら、真に聖書的伝統を追求する必要があるのではないかと思われる。
  現状を直視していま一つ気づかされる重要な事実は、信仰と生活の分離ないしは分離傾向ではないかと思われる。経済学の父とされるアダム・スミスが経済学と道徳哲学(経済倫理)を分離したように、信仰の世界においても信仰と生活が分離されて論じられてきたように思われる。しかし、聖書においては、本来、信仰と生活は一つのものであり、教理と実践も分離されてはならないものである。教理の生活化こそ「神の民」である信仰生活共同体の中で実践され、証しされるべきものであろう。
  そのときに初めて、もう一つの「主の祈り」である「神の民」が「一つとなる」(ヨハネによる福音書17:11)という言が出来事として成就されるものと信じる。

(おわりの祈り)
神様、私たちも恵みによって、あなたの民である教会に属する者とされて有難うございます。どうか、あなたが一つであられるように、私たちも一つになることを通して、未だあなたに向かっていない方々があなたに向かうものとされますように導いてください。主の御名により祈ります。アーメン。
以上

天秤座

コメント(1)

本
M教会での礼拝では、三年前にも奨励を担当したことがあります。一昨年も昨年も、夏休みにお招きを受けましたが、既に先約があり、お断りしていました。今年は早めにご依頼があったため、三年ぶりに、ご一緒に礼拝を守ることができました。
M教会で礼拝の司会をしてくださったF長老が、奨励の後に、「言葉に表現できない感動を覚えました」と会衆の前で語ってくださったことが、奨励者の慰めとなりました。
また、Dr.P.B.が「自分自身に語られたと思いました。祝福されました。」と英語で話して下さったことも感謝でした。
トム爺は、いつものように、自ら聖書から教えられたことを、「自分に向けて語るように語っただけです。」とお答えしました。
それから、心のこもった昼食をいただき、交わりの途中で、母教会の役員会に出席するため、早めにM教会の皆様とお別れしました。
目がハート

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

トム爺の奨励集 更新情報

トム爺の奨励集のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング