4.共同体としての「神の民である教会」の広がり ?神の民である教会の時間的・歴史的かつ空間的・地域的な広がり 近年、「教会とは何か」という問いが「教会とは誰か」という問いに変えられてきているようであるが、「罪人の集まり」としての教会は個人から構成される集合体ではあるが、その強調点は個人よりもむしろ「共同体」にあり、使徒信条において告白されているところの「聖徒の交わり」にあると思われる。それは信仰の共同体ではあるが、より適正に表現すれば「信仰・生活の共同体」である。 その共同体としての神の民である教会は、正に神が創造されたエデンの園 に始まり、終末においては「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」 (ヨハネ黙示録21:3)とあるように、約束された神の言が成就された形で現れるに相違ない。 ?教会の現状と主イエスの祈り 「聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。・・・父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。・・わたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。・・わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(ヨハネ17:11、21、22、23) 上記の主(=神)イエスの祈りの言は、神の言として、成就されるに相違ない。 ?「ある」ものに「なる」 私たちは既にクリスチャンである。しかし、完全なクリスチャンになっているわけではない。私たちは人間である。しかし、完全な人間になっているわけではない。私たちは他の人々をクリスチャンにしようとして伝道に努めるかもしれないが、人間がクリスチャンになるのではない。クリスチャンは人間になるのであって、その逆ではない(Christians are to become human-beings, and not vice-versa.)。クリスチャンになるとは、神に向かっていない人間が、神に向かう人間となることに他ならない。 キリスト教会は、まだこの世の人々がそれを見て信じることができるようには一つになっていない。しかし、主イエスの祈りにあるように神が一つであるように、共同体としての神の民としての教会も「一つである」(22)。だから「一つとなる」(23)のである。 クリスチャンは既にクリスチャンであるとともに本来的なクリスチャンになるのであり、人間は既に人間であるとともに本来的な人間になるのであり、クリスチャンは、決して神のようになるのではなくて、本来的な人間になるのである。