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トム爺の奨励集コミュのトム爺の奨励集(3)

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本
2006.5.24.(第4水曜日)
門戸聖書教会・祈祷会・奨励
「現実、聖書、祈り」(ローマ4:19-21、ヤコブ2:21-23)
信徒伝道者・宮平光庸
1.私たちは何処から初めるのか?
 聖書は「初めに神」から始まります。私たちが何処から始めようと、私たちは「初めに神」の中に置かれているため、意識的にせよ無意識的にせよ、その枠の中でしか何事も始めることはできません。しかし、実際問題として、私たちの意識は、私たちを取り囲む全ての環境に影響されながら、私たちが現在置かれている現実から始まります。
 それでは、私たちが置かれている現実とはどのようなものでしょうか?それは個人的にはそれぞれ異なっているわけですが、もし何か共通項が見出されるとすれば、それは「どうしようもない現実」ではないでしょうか?しばしば、クリスチャンの悩みとして経験させられることは「どうしようもない罪の現実」だと思われます。
 それが神の前において、神と自分しか知られていないと思われるような、自らの心の中の戦い、心身的な戦い、家庭や教会の中での人間関係に伴うもの、その他、人間として自然に生起してくる不可避的なものが想起されます。そのような状況の中で、クリスチャンに許された問題へのアプローチとして、一つの方向性を模索する際の指針はやはり聖書だと思われます。
2.アブラハムのケース
 今日の聖書箇所の中に見出されるアブラハムにとっての「どうしようもない現実」とはどのようなものだったでしょうか?それは「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であること」、いやそれだけでなく、「サラの胎の死んでいること」(ローマ4:19)という厳しい現実でした。誰が考えても若返ることが不可能で、人間的には対応策なしの状況でした。
 それにもかかわらず、アブラハムには神の言が臨み、アブラハムはそれを「信じた」のでした。アブラハムが「信じた」とはどういうことでしょうか?それは、神と神の言の「真実」に「アーメン」と応答したことです。自分と自分の信仰ではなく、神と神の言を真実としました。自分の信仰の力ではなく、「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」(4:21)
 アブラハムは神と神の言を信じてからどうしたのでしょうか?アブラハムは、人間的な希望に逆らって神を信じ、その信仰を行動に移したのでした。信仰とは行動を伴うものです。行動を伴わない信仰は信仰ではありません。また、そのような信仰と行動は、アブラハムの祈りそのものでした。祈りとは、神の言を聴き、それを信じ、それに従って行動することに他なりません。
3.神に認められたアブラハムの信仰と行動
 アブラハムの祈りの生活に関する今日の聖書箇所であるローマ書とヤコブ書は一見して矛盾した記述であるように思われるかもしれませんが、決してそうではありません。あたかも一つのコインに両面があるように、祈りの生活というコインにも信仰と行動という両面があります。その意味では、今日の主題はむしろ「現実、聖書、信仰・行動」と書き換えた方がベターだと思われます。
祈りはしばしば「神との交わり」にたとえられますが、祈りというコインには、「神に聴くこと」と「神に語ること」の両面があります。もし、神が神であられるならば、人が神に語ることの内容は人の言葉の前段階である思いの段階で神に知られており、真に神に聴き、神の御旨を確信できれば、神に語ることの内容は、神の言への応答としての、生活の中での行動に現れるはずです。
したがって、人にはその声が聞こえないような心の悩みを注ぎだしたハンナの祈りも、神の真実を信じてその御旨を確信するときに、その顔は以前のようではないものとして(?サムエル1:18)生活の中での行動に表現され、その子サムエルは、「僕語る、主よ聴きたまえ」ではなく、「僕聴く、主よ語りたまえ」(?サムエル3:10)と祈り、主に聴従しながら、生きました。
4.聖書から学ぶ基本的姿勢と反面教師性
 そのような「祈りの模範」を示したサムエルを主の宮で指導したエリは神に仕える祭司でした。しかし、エリにもその人生の中で大きな失敗がありました。残念なことに、エリはサムエルを指導しながらも自分の子育てに失敗しました(?サムエル2:22〜26)。聖書の素晴らしさは、人の失敗を隠さずにあからさまに記述しながら、人生の真実を教えていることです。
 ここで、私たちはサムエルに祈りの基本を教えた祭司エリの反面教師性から学ぶ必要があるように思われます。私たちは人の成功からよりもむしろ失敗から学ぶことが多いのではないでしょうか?たとえ神に仕えることがその使命である祭司でも、神は正しく裁かれます。いや、そうだからこそ、裁かれるのでしょう(?サムエル4:17〜18)。これはエリに限ったことではありません。
 私たちは、波乱に満ちたダビデの生涯をよく知っています。ダビデのように主の前に真実に生きた王は稀有といってもいいでしょう。しかし、よくご存知のように、ダビデ王は、あの美しいバテシバとの姦淫とその夫ウリアの殺人という最も恐ろしい罪を犯しました。しかし、神は悔い改めたダビデを赦されるとともに、その生涯の中で厳しい裁きを実行されました。
5.生き様に現れるアブラハムの祈り(信仰と行動)
 私たちはアブラハムの生涯からもその反面教師性を学ぶことができるのではないでしょうか?それは、神の言を信じながらも、それを自分の判断に基づいて解釈をし、行動したことだと思います。つまり、アブラハムは妻サライの勧めに従って、女奴隷のハガルのところに入り、イシマエルを産ませた(創世記16:1〜4)ことです。
 また、アブラハムはもう一つの苦しい経験を経なければなりませんでした。それは自分の命が危険にさらされる事件に遭遇し、それから逃れるために人間的な知恵を巧みに働かせて、自分の父の娘であるが母の娘ではない自分の妻を自分の妹だと語って、妻サラを危険にさらしたことでした。アブラハムはそのためにも苦しい祈りをしなければなりませんでした(創世記20:1〜18)。
 このような苦い経験の後に、アブラハムはサラによってイサクを与えられたのですが(創世記21:1〜3)、神はアブラハムにそのイサクを捧げよとの厳しい試練に合わせられました。このような極限状態においても、アブラハムは神を信じ、その信仰により行動したのです。すなわち、先ず神を礼拝し神に祈る、という生き様を貫徹したのです(創世記22:5)。
6.祈りの構造
 以上の学びから、祈りの構造が見えてくるのではないでしょうか?結論から先に言えば、祈りとは神とその言を信じ、そのような信仰に基づいて、神とその御旨に従って行動することであり、そのときに始めて、神の言が祈る人の生き様の中に実現され、祈りが聞かれたという信仰的な経験をすることが許されるように思われます。
 このような祈りの構造を図式化することは必ずしも適切ではないと思いますが、祈りの順序をより明確にすれば、?先ず自分の願いを神に告げて、?神がその願いを聞き入れてくださるまで祈り続けるという一般的な祈り方に疑問が感じられるようになってくるのではないでしょうか?それは聞かれない祈りという惨めな結果を招くように思われます。
逆に、?先ず神の言である聖書を通して、普遍的な神の御旨を知り、そのような御旨がどのように自分の具体的な生活環境に適用され得るかについて黙想することを通して、すなわち「僕聴く、主よ、語りたまえ」という祈りによって神が心に語りかけて下さる静かな声を聴き取り、?その具体的な御旨を信仰によって実行に移すこと、が祈りではないでしょうか?
以上


2006.7.16.(日)
門戸聖書教会・礼拝奨励
「聖書・現実・信仰」(創世記3:14〜19)
信徒伝道者・宮平光庸

1.人間存在の不思議:「人間とは何か?」が解明されていない!
私たちは「時間」についても「人間」についてもよく知っているはずであるが、説明しようとすると説明しきれないことを知らされる(アウグスティヌスの「時間論」を参照)。
聖書における神の啓示がなければ、私たちには世界と人間の初めと終わりについて知ることができない。現実の世界は実に豊かであり、私たちの理性的な理解をはるかに超えている。
それのみでなく、現実に経験している様々な不条理について理解することも説明することもできない。それを多少とも理解するためには、理性のみでは不可能であり、信仰が要請される。
 私たちは人間として、私たちの理性による現実理解からスタートせざるを得ないが、幸いなことにクリスチャンは聖書信仰が与えられており、神の啓示に信頼して、聖書からスタートすることが許されている。

2.人間としての一般的な発想:「現実・聖書・祈り」
   私たちの日常世界における諸問題へのアプローチは、理性的な現実理解から始まるのが通常であり、それ以外の方法は考えられないように思われる。世界と人間の現実の姿を理解することは大変な作業である。
   今ここで世界と人間に関する詳細な描写を試みるまでもなく、私たちは嫌というほど現実の苦悩を経験している。それを一言で表現することができるとすれば、それは「どうしようもない」現実であるに相違ない。
   そこで私たちは理性の限界を知らされ、理性に矛盾しない範囲内で、理性を超える理解を信仰に求めるようになる。クリスチャンの場合は、聖書における神の啓示に対する信仰がそれである。
   私たちが聖書的な現実理解を示されて諸問題に対処しようとするときに自然とニーバーの祈りのように、現実を変える勇気と、変えることができないものへの受容と、それらの両者を識別する判断力が必要とされる。
  
3.クリスチャンに許されている発想:「聖書・現実・信仰」
   幸いなことにクリスチャンは、聖書の啓示に対する信仰からスタートすることができる。それは盲目的な信仰ではなく、自律的な理性の放棄でもなく、現実を総合的に理解しようとする「知解を求める信仰」である。
   上記のように一般的な問題解決プロセスである「現実・聖書・祈り」というアプローチを試みながらも、聖書的な現実理解からスタートすることにより、信仰的理解で諸問題への対応を試みることに安心感を覚える。
   それは、世界と人間に関する現実の姿が聖書に啓示されている通りであることを圧倒的に納得させられることにより、神の言がその通りに現実化し成就されていくことに対する信頼が増幅されていく過程ともいえよう。
   ごく大まかに言って、聖書における世界と人間の理解に関して、私たちが理性的に検証でき極めて説得的な事柄とともに、現在では未だ理性的に証明され得ず、信仰によって理解しなければならない事柄がある。

4.聖書と現実の一致が実証されている事柄
   私たちが十二分に経験している事柄の一つは創世記3章14〜19節に記されている。それは、アダムとエバの堕落の結果、男が額に汗して労働に従事しなければならないという厳しい現実である。
   また、自然と社会への文化的働きかけという仕事を果たすために、エバが必要な助けを与えながら、協働者を産み増やしていくときに、産みの苦しみが伴うという聖書の啓示と明らかな現実の姿である。
   問題は結果的に伴う男女間の主従関係のみでなく、この世の中ではそれより厳しく強力な権力の下で多くの人々が苦しみ呻いている主従関係が現存していることは聖書(マルコ10:42)の示すとおりである。
   さらに現代の資本主義経済の悪弊として最近のマスコミを賑わした事件として周知の事柄は、手段であるはずの金銭が目的化され、マモニズムという偶像礼拝(?テモテ6:10)が横行していることである。

5.聖書の啓示が理性的に検証できない事柄
   以上のように神の言としての聖書が現実の世界を極めて的確に啓示していることに説得させられる私たちは、理性的に実証され得ない事柄についても聖書の啓示を信頼するように導かれている。
   その代表的な事柄は、人間が何処から来て何処に行くのか、という昔からの神秘に閉ざされた未解決の問題である。この点で、聖書は世界と人間の初め(創世記1:1)と終り(ヨハネ黙示録21:1)を啓示している。
   天地創造の啓示は、私たちの信仰的理解(ヘブル書11:2)のスタートラインであり、死後の世界に関しては聖書の啓示がなければ人間の理性には未知の事柄として残らざるを得ない。
   人間が死に至る存在であることはハイデッガーの言に待つまでもなく、全ての人が感知している。しかし、聖書は死が罪の結果であることを明言している(ローマ書5:12)。

6.私たちはどのように生きていくべきか?
   私たち人間は、死に至る存在として、どのように生きることができるのであろうか。私たちは聖書の啓示の全体から生活に関わる教えを学び具体的な指針に従って生きることが最も安全な道であると信じる。
   それでは私たちに要請されることは何だろうか?それは、聖書と現実の一致から確信させられるように、理性によって実証されていない事柄についても「神の言は必ず成就される」という信仰(ルカ1:45)である。
   さらに、「あなたのおことばのとおりにこの身になりますように」(ルカ1:38)という祈りである。私たちは「僕語る、主よ、聴き給え」と祈りやすいが、サムエルのように「僕聴く、主よ、語り給え」と祈りたい。
   私たちは「神にとって不可能なことはない」(ルカ1:37)という信仰に基づいて、自分たちの利己的な願いが聴きとげられることではなく、御心に適う祈りをしてその現実化を信じて待つのである。
以上


2006.8.27.(日)
門戸聖書教会・礼拝奨励
「キリストが来られた目的」(マタイ5:17)
信徒伝道者・宮平光庸
1.キリストが来られた目的
 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)
  これはイエス・キリストご自身が語られた言葉です。キリストが来られたことそれ自体が福音そのものですが、その福音の目的は律法を成就するためです。

2.キリストの意志的な誕生
私たちが自分自身の意志で生まれてきたのではないことは自明のことです。しかし、キリストの誕生は、意志的でない私たちの誕生と異なっています。
 「わたしは来ました。・・・あなたのみこころを行うために。」(ヘブル10:6〜7、詩篇40:6〜7〜8)と記されているように、キリストはご自身の意志により、父なる神の御心を行うためにこの世に来られました。

3.成就された律法
私たちは、キリストご自身の言葉として、律法の一点一画も廃らないこと(マタイ5:19)を知っていますが、その律法とは何でしょうか。それは旧約聖書(=律法や預言者)の律法(=トーラー)であり、それを要約したものが十戒(出エジプト20章2〜17節、申命記5章6〜21節)に他なりません。
  
4.律法学者に対するキリストの質問と答え
  新約聖書では律法のエッセンスが「神と隣人に対する愛」(ルカ10:25〜28)であると要約されています。この聖書箇所によれば、律法の専門家は知的には律法を理解していましたが、キリストが律法を要約された意味において理解していなかったことが明らかです。18節で明らかなように、私たちは律法を実行すれば、それにより命を得ることは明らかです。問題は、私たちが律法を真の意味で実行できるかどうかにあります。

5.律法の意義
  律法の聖書的意義について理解するためには、先ずそれが誰に与えられたかを確認する必要があります。上述した聖書箇所である出エジプト記20章から明らかなように、十戒は罪人に与えられたものです。律法とは、先ず、人間が守るべき法として与えられたものです。しかし、罪人である人間は、それを実行することができないために、律法はそれを成就されたキリストへと導く養育係となります。さらに、キリストへと導かれた私たちが、石版に刻まれた十戒ではなく、心に記された律法を社会生活のルールとして感謝して受け取るべきものです。

6.キリストはどのように律法を成就されたか
  キリストが律法を成就するために来られたことは上述のように明らかです  
 が、それはどのような内容を持っているのでしょうか。ここで想起されることは、聖書的信仰の先達として著名なJ.G.メーチェンが死に直面したときの言葉です。それは、「私はキリストの消極的従順と積極的従順に感謝する。」というものです。キリストの消極的従順とは、律法を破った人間の身代わりとして十字架上で受けられた神の罪人に対する正しい裁きです。キリストの積極的従順とは、律法を真の意味においてキリストの生涯を通して守られたことに他なりません。

7.律法と福音の問題
キリスト教会の内部でも律法と福音の関係に関する理解の相違があります。
 しかし、一見して矛盾するかのように見える聖書箇所にも矛盾はありません。要するに、キリストの誕生はそれ自体が福音ですが、その目的は律法の成就であり、律法が成就されることこそ福音に他なりません。もし私たちが律法を実行できれば、それによって命を得ることができるのは前述の通りです。しかし、罪人である私たちは、律法を実行することはできませんでしたが、律法の行いに拠らず、福音を信じることに拠り、救われた私たちは、心に記された律法を行うように導かれています。イエスキリストは私たちの救い主であられるとともに、私たちの模範でもあられます。

8.聖書原語における命令形と未来形
私たちは律法が「・・・せよ、・・・すべからず。」という命令形で与えられていると感じています。しかし、旧約聖書のヘブル語における動詞の基本形は完了形と未完了形からなっています。旧約聖書(創世記1:3)において、神が「光あれ」と言われると「光があった」と記されていますが、前者は命令形(未完了形)で後者は完了形です。神の言が人の言葉と根本的に異なるのは、神が語られた言は必ず実現される点にあります。神の律法は、一点一画も廃れることなく必ず成就されます。「神と隣人を愛せよ」(ルカ10:27)というギリシャ語の命令形も未来形に翻訳することが可能です。すなわち、それは「あなたは神と隣人を愛するようになる」という意味になります。私たちは前者を律法のように感じますが、後者は福音と感じないでしょうか。神が語られた必ず成就する律法は、キリストの律法に対する従順により、また聖霊の働きにより、私たちも実行できるように約束されている福音として受け止めることが許されているのではないでしょうか。

9.使徒信条と主の祈りと共に十戒を週報に記す必要性
  私は信徒伝道者としていろいろな教会の礼拝で奨励させていただきましたが、教派により、教会により礼拝の様式に相違がみられるとともに、週報にも相違がみられることを感じてきました。それはそれらの教派や教会の信仰の表れだと思います。ある週報には使徒信条や主の祈りとともに十戒が印刷されていますが、ある教会では十戒をキリストの来臨まででその役割を終了した律法的な性格(キリストへと導く養育係)をもつものとしてのみ理解しているように思われます。しかし、もし上述した律法と福音の関係が聖書的なものであれば、十戒は私たちの信仰生活と社会生活のルールとして、重んじるべきものではないでしょうか。

10.祈り
  奨励を終えるに際して、私たちが出エジプトを経験した後に、約束の地に入るまでの荒野の生活がどのような生活であるのかを覚えるために、申命記8章11〜16を読みたく思います。礼拝を終えて、再びこの世の生活へと送り出される備えとして、お祈りしましょう。「神様、私たちもイスラエルの民と同様に、あなたを信じて救われてから、荒野の生活を続けて苦しんでおりますが、それは私たちを幸せにするためであることを覚えて感謝します。どうぞ、私たちのために青銅の蛇のように十字架につけられた、キリストを仰いで生かされた者としてあなたの御心を行うことを学び、幸せになることができますように、導いてください。主の御名により祈ります。アーメン。」
目がハート

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