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トム爺の奨励集コミュのトム爺奨励集(2)

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本
2005・8・21・(日)
門戸聖書教会・礼拝奨励
「神のいましめと愛の自覚」(?ヨハネ5:1〜5)
担当・宮平光庸

1.はじめに
先月の「最も大切なもの」という主題の奨励では旧約聖書の申命記とレビ記に記されているとおり、「神に対する愛」(申命記6:5)と「隣人に対する愛」(レビ記19:18)が最も大切ないましめであることを学びました。
それは私たちにとって最も大切なものである永遠の命を得るために必要なことでした。もし私たちが真実かつ完全に神を愛し人を愛することができれば、私たちはその愛の行為によって永遠の命を得ることができるはずでした。
しかし、私たち罪人にとっては残念ながらそれは不可能なことであります。
それでは、永遠の命を得るために罪人には希望が残されていないかというと、幸いなことにコリント人への第1の手紙15章に明確に記されていますように、私たちがキリストの十字架と復活を信じる信仰によって永遠の命の祝福を受けることができます。これこそ私たち罪人にとって正に福音であります。
それでは、福音への信仰によって、神と人に対する愛は必要がなくなったのでしょうか。決してそうではありません。キリストの十字架と復活の背後には、私たち罪人に守れなかった神と人への愛をキリストが完全に守ってくださった事実があり、その最も大切ないましめを破った私たちに代わって、十字架上で呪いの刑罰を受けてくださったのであります。
そこで、そのいましめの後に出てくる良きサマリヤ人のたとえ話にあるように、私たちもイエス様がおっしゃったように、行って隣人への愛を実践すべきであります。

2.隣人への愛の内容
それでは、隣人を愛するとはどのようなことを意味しているのでしょうか。私たちは自分なりに愛についての考え方を持っておりますのでなかなか聖書が語っている最も大切な愛について同じような理解をもちにくいかもしれません。もしかして、隣人を愛することを隣人を好きになることのように理解していないでしょうか。もしそうだとすれば、私たちには嫌いな人を愛することができないのではないでしょうか。
結論から先に言いますと、愛することの内容は隣人を?知ること、?信頼すること、?尊敬すること、であります。ヨハネの福音書を学びますと、父・御子・御霊の神様の相互的な交わりにおける愛の内容は、知識・信頼・尊敬であることがわかります。神の像に似せて造られた人の交わりにおける愛の内容も同じはずであります。
私たちが結婚するときに、クリスチャンを結婚に結びつける愛とはどのような愛であるのか、尊敬する先生にお聞きしたことがあります。そのときにいただいたアドバイスは今でもよく覚えておりますが、それは信頼と尊敬でありました。私たちはそれを信じて結婚を決意しました。私たちは結婚してから40年以上たちますが、良い先生から良いアドバイスをいただいたことを感謝しております。

3.原点に戻って
先ほど朗読していただきました今日の聖書箇所で明らかなことは、私たちにとって最も大切な神を愛する愛とは神の命令を守ること、すなわち、神のいましめを守ることであると記されております。そして、先月も学びましたように、神のいましめとは神と人への愛であるとすれば、これは同語反復と見られないでしょうか。
ここで、言葉の混乱を避けるために、「愛する」という言葉で聖書が意味している内容をわかりやすく表現している本田哲郎訳聖書を見ますと「大切にする」と訳し直されています。本田神父はローマ教皇庁立聖書研究所を卒業されてから聖書学教授として神学校で教えておられましたが、フランシスコ会の日本管区長になられた方です。しかし、あるとき釜ヶ崎を巡回しておられて、そこで呻いておられる極度に貧しい人々に心が釘付けにされ、日雇い労働者の一人として釜ヶ崎の方々と共に生活するようになられました。
そこで、神の愛を語っても、人々にはその内容が伝わりませんでした。そこで誰にでもわかる言葉で「愛する」ことを「大切にする」と訳し直されたわけです。

4.愛が自覚されるとき
いつ私たちは愛の自覚が生じるのでしょうか。今日の聖書箇所によれば、それは私たちが神の命令を守るときであり、その命令は重荷とはならないと記されています。
もし、神のいましめである神と人への愛が、私たちにとって重荷と感じるならば、私たちはどこかで間違っているのではないでしょうか。重荷を負って疲れている人への慰めに満ちたイエス様の招きの言葉は良く知られておりますが、その後半にはキリストの荷は軽いと記されています。
私たちが、その軽い荷を重く感じなくなるとき、私たちは神と人への愛を自覚することができるようにされるのではないでしょうか。

5.エロースの愛と聖書のアガペーの愛
私は北森嘉蔵著『マルチン・ルター』という小冊子を読んで感銘を受けたときのことを覚えております。ここでその一部をご紹介したいと思います。
聖書が明確に語る神の愛は「アガペー」の愛であり、そのアガペーの愛の純粋性はその対象の価値によって動機づけられないところに成立するのではないか。
「信仰のみ」によって神のアガペーの愛の純粋性を示された罪人こそ自己の実存においてそのような愛を具現化し、同じ罪人である隣人をエロースの愛によってではなく、アガペーの愛によって純粋に愛するという山上の垂訓におけるような、倫理的課題を担うことができるように、させられるに至るのである。
私たちが結婚相手を選択するときに経験させられるように、エロースの愛は、相手のもつ価値に依存する。従って、エロースは、自己の内から自発的に流れ出ることはできず、相手の持つ価値によって他動的に引き出されてくるものである。エロースが相手を選択するのも正にそのためである。エロースは、価値判断によって相手を選択する。そのようなエロースは決して永続しない。何故なら、価値は絶えず変化し、エロースもそれに応じて変化するからである。そのような価値の変化は三つの道をたどる。その一は、相手の価値が、あたかも美しい花の美が萎れていくように、消滅していく場合である。その二は、たとえ、相手の価値に変化がなくても、同じ価値の持続により倦怠感が生じる場合である。その三は、相手の価値よりもさらに高い価値が出現する場合である。
このような愛の変化こそ人間の罪の大きさと深さを示すものである。換言すれば、エロースの愛の変化とは愛の裏切り行為以外の何者でもない。相手の人格を人格として取り扱うことは、相手を自分の手段としてではなく、あくまでも目的として取り扱うことに他ならない。エロースの愛は相手を手段化するのに対してアガペーの愛は相手を目的化する。すなわち神のアガペーの愛は人間のもつ価値によって変化することがない。

6.結び:愛と信仰の関係
私たちが倒錯したこの世の愛の中でそこに引きずり込まれないために必要なことは、アガペーの愛と信仰との関係を明確に自分のものとして理解することではないでしょうか。今日の聖書箇所に記されていますように、私たちの信仰こそ世に勝つものであります。
私たちは生まれながらにしてエロースしか持たない罪人であり、罪人には
神のアガペーはありません。私たち罪人が神のアガペーを受けるのは信仰によるほかありません。その信仰とは、無から有を造りだす神、無価値の中に有価値を造りだす神のアガペーの愛を信仰によって受ける以外に方法はありません。
このテーマについては、来週の奨励で「ハーヤーの神」と題して取り上げさせていただきたく思います。
最後に一言お祈りいたします。「神様、あなたを信じます。信仰の薄い者を助けてアガペーの愛を与えてください。主の御名により祈ります。アーメン」
以上

2005.8.28.(日)
門戸聖書教会・礼拝奨励

「ハーヤーの神」(出エジプト3:14〜16)

担当・宮平光庸

1.はじめに
人間が神の像として創造されているのであれば、人間にも神の愛が理解できるように造られているはずです。ヨハネの福音書を学びますと、父・御子・御霊の神間関係の愛は、?知識、?信頼、?尊敬をその内容としていることが判ります。それは、人間関係にも適用され、特に結婚関係において、そのような愛が重要であることが体験的に痛感されると思います。
しかし、残念なことに私たち罪人は利己主義的なエロースの愛しか持っていないため、人間関係においても相手の価値を選択し、その価値を手段として自己目的のために用いようとします。
そこで、聖書の教える神の愛(アガペー)、すなわち、相手を手段としてではなく、目的として大切にする愛のいましめの重要性がわかります。

2.最も大切な神のいましめ
先週ご一緒に学びましたように、私たちにとって最も大切ないましめは、
「神を愛せよ」および「人を愛せよ」(ルカ10:27参照)という二つのいましめです。それはそれに続く「良きサマリヤ人の譬」においても強調されていることです。
この点についてボベー著『魂への愛と慰め』において、とても慰めに満ちたことが書かれています。すなわち、「神を愛せよ」という神のアガペーのいましめは命令形に翻訳されているが、そのギリシャ語原文は未来形である、というのです。それを正確に訳し直しますと、「あなたは神を愛するようになる」(=アガペーセイス)となります。
私たちは好きでもない隣人をアガペーの愛でもって愛さねばならない、という律法的なプレッシャーの下で律法主義的に生きていないでしょうか。
むしろ、本田哲郎訳の福音書にあるように隣人を「大切にする」ことが教えられているのではないでしょうか。そして、そのように福音的に隣人に接しているうちに、神の恵みによって、私たちはその隣人を福音的に愛するように変えられていくのであります。

3.アガペーの愛は律法ではなく福音である
以上のことを要約すれば、神と人に対するアガペーの愛は、神を愛することができない私たち罪人に対する律法的な命令ではなくて、神の約束が必ず実現する喜ばしい福音であります。
神の前には私たち人間の過去・現在・未来はありません。人の言葉を用いて語られる神の言は、新約聖書(ルカ10:27)においても、命令形で訳されているところが、原語は未来形であるように、未完了の律法的ないましめが、神の恵みによって実現され、完了形の福音の言に変えられるのであります。

4.言葉と実体の関係
9.11の衆議院選挙を目前にして、私たちは約束を守らない政治家の公約に諦めにも似た思いを持っているかも知れません。いや、政治家だけではなく、私たち自身も自分の言葉に信頼性が伴っていないことに気付かされていないでしょうか。
「即非の論理」という不思議な現実理解を前にして、私たちは残念ながら、人間の言葉が語られる瞬間に実体から離れたものとなる悲しい経験をしていますが、神の言(ダーバール)はそうではありません。それは言が実体(出来事)と一致するものです。
その点で、神の言を人の言葉で語らざるを得ないときに、聖書と聖伝の関係に留意しなければならないことに気付かされます。神の言を人の言葉に翻訳するときに、誤りが入り込むことに注意しなければなりません。

5.「ハーヤーの神」(出エジプト3:14〜16)
私たちが罪人であるにも拘わらず、失望しないで、希望を持って生きることができるのは、私たちの神が「ハーヤーの神」(出エジプト3:14〜16)であるからです。
すなわち、聖書に啓示された神の名は、その名と実体が完全に一致している神です。そして、その名は「有りてある者」または「成りて成る者」です。聖書の神は静態的な神ではなくて、動態的な神です。それは、抽象的な神ではなくて、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」です。
神の言の素晴らしさは、神の言(約束)は必ず実現(成就)する、という点にあります。神が「光あれ」と言われると光があったように、旧約聖書における神の未完了形の律法は、必ず完了形で終わり、福音となります。

6.結び
私たち罪人の心が慰められるのは、私たちに最も大切な神のいましめを思いめぐらしながら、マリヤのように、それが我が身にも成りますようにと期待しながら生きることが許されている点にあるのではないでしょうか。
最後に一言お祈りします。
「ハーヤーの神様、あなたのアガペーの愛が、この身に成りますように。主の御名によって祈ります。アーメン」
以上


2006.3.19.(日)
門戸聖書教会・礼拝奨励

「聖書日課の意義」(ヨハネ福音書5:39)
担当・宮平光庸

1.IVF聖書日課『聖書を調べよ』(Search the Scriptures)の題名
  キリスト者学生会の世界的な本部である英国のIVFから『聖書を調べよ』(Search the Scriptures)という聖書日課が出版されています。これは聖書の全巻を毎日3つの質問に自ら解答しながら3年で通読できるように工夫されています。その書名が先ほどお読みいただいたヨハネ福音書5:39からとられています。それは「聖書を調べよ」という命令文としてとられていますが、2通りの解釈が可能であり、多くの聖書翻訳では通常の叙述文として訳されています。
  聖書通読ガイドにはいろいろなものがありますが、私が知っている限り、
 このガイドブックが最も優れたものの一つだと思います。何故なら、それは
 単に通読箇所を指示するだけではなく、また特定の解釈を提示するのでもなく、通読者が自ら祈りながら考えるように導いているからです。

2.聖書を調べる目的
  聖書を読む目的は人によって異なります。ある人は世界の名著である文学 
として、またある人は永遠のベストセラーとしての好奇心から読んでいるかも知れません。しかし、先ほどお読みいただいた聖書箇所では、特に二つの読み方が示されています。それは?その中に永遠の命を探す読み方であり、また?そこに証されているキリストの下に来るような読み方です。
 その?については、宇宙の中に神を探すような読み方であるとも言えますが、
 宇宙は神存在の証拠であると理解することができても、その中に神ご自身を見出すことはできません。それと同様に、聖書の中に永遠の命を見出そうとしても、それは困難な試みであり、イエス様ご自身が語っておられるように、
 聖書はイエス・キリストを証するものであり、聖書は永遠の命の源である神、すなわちイエス・キリストの下に来るために読むものです。それを一言で表現すれば、「キリスト論的」な聖書の読み方と言えるでしょうが、そのような
 具体的な試みの一つは『66巻のキリスト』のような読み方と言えるかもしれません。

3.いろいろな聖書日課
  現在、私たちが入手できる聖書日課にはいろいろありますが、その代表的なものとして、?ローマ・カトリック教会とルーテル教会の聖書日課、?福音的諸教会の聖書日課の他、?個人的な聖書通読法が挙げられるでしょう。
 ?は、教会暦に基づく聖書日課で3年で全聖書の主要な部分をカバーできるように工夫されており標準的な解説もあって、地域教会の礼拝でも同じ箇所から説教されています。
 ?には、私たちの教会が採用している「みことばの光」や、「ローズンゲン」  
 などがありますが、概して教会の礼拝説教では牧師に一任された聖書講解方式が多いようです。これらの中には、聖書日課と礼拝説教との統一性に難点なしとしないもの、主題聖句が神の導きを信じて籤によって決められるものもあり、問題なしとしないものもあります。また、牧師に一任された聖書講解の場合には教会のニーズに合わない可能性もあります。
?の場合は、旧新約聖書をその順番どおりに通読するため、最も基本的で望ましいのですが、通読目標期間が不定で非計画的になりやすいようです。

4.聖書日課の良い点と問題点
  そこで、特定の聖書日課を採用すれば、その良い点は、教会暦との調和を保ちながら、約3年間で聖書全体を一応バランスよくカバーできることでしょう。もし、特定の聖書日課を採用するとすれば、可能な限りその聖書日課に従って、主日礼拝の講解説教も祈祷会の聖書講解もその聖書日課との関連性を保持しながら行われる必要があるでしょう。ここで大切なことは、主日には主日に定められた聖書箇所のみを講解し、祈祷会には祈祷会の日に定められた聖書箇所のみを講解するのではなしに、絶えずその前後の聖書箇所の文脈をとばすことがないように留意されねばならないと思います。
しかし、その問題点としては、聖書日課の聖書箇所と教会暦の聖書箇所が相違したり、主日礼拝の聖書講解箇所や祈祷会の聖書講解箇所がバラバラになったりすることが多いことも否めないと思われます。さらに、ある聖書日課を採用することにより特定の聖書箇所は一度も言及されることなく済まされる可能性も残ります。

5.牧師一任の場合の良い点と問題点
  上記のような問題点を回避するためには、聖書講解者が聖書の全体を講解説教していく方法があります。それが忠実になされるとき、それは聖書日課でカットされた聖書箇所についても、語られるため、聖書の全体が解き明かされることになります。ここで、留意すべきことは、聖書の一部が語られるときも、常に聖書全体の教えの中に位置づけることにより、全体的な視野を保持することだと思われます。つまり、木を細かく調べるとともに、林ないしは森の全体を学ぶような試みが必要になってくると思います。
しかし、現実には2〜3の特定文書の講解説教だけで数年に及ぶことが多いため、聖書全体がカバーされず、バランスを失するという問題点が生じてくる場合が起こり得ます。例えば、聖書日課に従えば約3年で聖書全体の66巻がカバーされるところを、創世記や黙示録だけで2〜3年もかかるとすれば、信徒のためというよりも、牧師中心の聖書研究的な講解説教といわれても仕方がないでしょう。そのような場合、教会役員をはじめ、教会員の責任は小さくないと思います。とくに信徒総会や役員会で教会全体の目標を定めるに当たって、牧師の説教方針を冷ややかに批判するというのでは決してなくて、教会全体の必要のために聖書日課を定めることが求められるのではないでしょうか。

6.望ましい聖書日課と聖書講解説教のバランス
  そこで、聖書全体をカバーできる聖書日課に基づく聖書講解説教が要請されるわけですが、そのためには教会暦と聖書日課を採用しながらも、それを年中行事的な繰返しには終わらせない工夫が必要になってきます。
  その目標としては、それによってエマオ途上で弟子たちの心が燃やされた(ルカ24:27、32)ように、「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体」が説き明かされる必要があるのではないでしょうか。
  また、パウロがいつも心がけていたように、「神のご計画の全体を、余すところなく」(使途20:27)伝えるような聖書の説き明かしが要請されてくるのではないでしょうか。
ここで留意すべきことは、世界の初めと終りを絶えず念頭に置きつつ聖書を学ぶことだと思われます。これまでの傾向としては、創世記の講解説教などにより世界の初めに戻りながら現在を読み取ることがなされてきました。近年では、逆に黙示録の講解説教などにより世界の終わりから現在を見直すような試みがなされてきたようです。
これは終末論的な聖書の読み方と言えるでしょう。そのような視点に立つことによって、年中行事的な教会生活と聖書の学びから脱却することが可能になるでしょう。それは世界の終末論的視点とともに、個人が不可避の死に備えるという意味で、個人の終末論的な聖書の読み方も要請されてくるように思われます。もっとも、個人の終末論的な聖書の学びは死に直面しておられる病床の人への個別的な牧会的配慮によりカバーすることも可能ですが、家族の死に直面して慌てないためにも普段から備える必要があるでしょう。

7.祈りながらの聖書講読
  言うまでもなく、私たちは終わりの時代に生きています。その意味で、世界的かつ個人的な終末論的な聖書の学びが必要になってきます。そのような試みを別の表現で表せば、それを「聖霊論的」な聖書の学びと言えるでしょう。
ご聖霊はキリストを証しされます。イエス様のお言葉によれば、ご聖霊は慰め主です。さらに、ご聖霊はさらに大きな働きをされるお方です。聖霊は命の御霊であり、真理の御霊です。そして、真理は私たちを自由へと導いてくださいます。また、ご聖霊は、アレオパゴスの人々とは別の意味で、私たちを「新しさ」へと導かれます。終末の新天新地はその極地でしょう。しかし、それに至るまでにおいても、私たちが聖書を祈りながら学ぶときに、新しい発見に導かれます。
祈りとは「主が語られる」ことに「聴き従う」ことです。結論的に言えば、これまでも言われてきたことですが、私たちに求められていることは、祈りながら聖書に親しんでいくこと、ベレアの人々のように、教会で語られるメッセージが本当にその通りであるのか、その内容が真に聖書的であるのか、日々に「聖書を調べる」ことではないでしょうか。
以上
目がハート

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