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トム爺の奨励集コミュのトム爺奨励集(1)

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本
2005.5.15(日)
門戸聖書教会・礼拝奨励
「主の血による新しい契約」(?コリント11:23〜26)
奨励担当・宮平光庸
1.はじめに
今日はペンテコステ、すなわち聖霊の降臨を記念する日です。私たちは先ほど、ともに使徒信条に基づいて私たちの信仰告白をいたしました。私たちの信仰は、初めに天地の創造者である父なる神を信じるものです。次に、私たちの主イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰です。さらに聖霊を信じる信仰ですが、私たちは聖霊についてはそれほど多くのことを学んでいないかもしれません。
私はかつて内外の先生方に聖霊の証についてお聞きしたことがありますが、十分なお答えは得られませんでした。聖書によれば、聖霊は私たちの慰め主であり、私たちを真理に導き自由を得させてくださるお方であり、私たちを新しくしてくださる聖なる神様です。ちなみに、ある教会では、聖霊を聖神と呼んでいます。また、神の言とともにキリストを証ししてくださるお方です。
先日の公園伝道のときには、人々が天にも届くようなバベルの塔を建て始めたときに言葉が乱されて意思疎通ができなくなったのに対して、ペンテコステの聖霊降臨に伴って、人々が他の国の言葉で話し出し、意思疎通ができるようになったことをお話しました。また、今朝の教会学校では、神が神の霊を注がれることによって、老人が夢を見、若者が幻を見るようになることをお話しました。
この礼拝奨励では、聖餐(主の晩餐)についてのパウロの教えから、聖霊が教えてくださる「主の血による新しい契約」について共に学びたく願っています。
2.主の晩餐に関する教え
ここで、私たちには聞きなれない言葉であるかもしれませんが、パンとぶどう酒がキリストの体と血であるという教えとともに、それが「契約」を意味していることを教えておられます。
聖餐の教えに関連して私たちがよく聞くことは、ある教会では「パンとぶどう酒がキリストの体と血に化体する」と教え、ある教会では「パンとぶどう酒の中にキリストの体と血が実在する」と教え、ある教会では「パンとぶどう酒の中にキリストの体と血が霊的に実在する」と教え、またある教会では「パンとぶどう酒はキリストの体と血を象徴するものである」と教えていることです。
私たち信徒は、たまたま自分が導かれている教会の立場に従って、それぞれの教えを信じているわけですが、あまり深く立ち入って考えることなく単純に聖書の内容を教えられるとおりに信じていると思います。
そこで、私たちでは簡単に解決できそうにない問題から少しはなれて、今日の聖書箇所に基づいて少し別な視点から主の晩餐の意義について学んでみたく思います。
3.契約としての主の晩餐の意義
私たちは概して法的な概念である契約を苦手としているかもしれませんが、私たちの日常生活は意識するとしないにかかわらず多くの契約で取り囲まれています。契約という言葉を約束という言葉に置き換えて考えれば、そのことが十分納得させられるのではないでしょうか。人生の主要な節々である入学・就職・結婚は言うにおよばず、ごく普通の衣食住に伴う事柄も契約に基づいています。食べ物や衣類を買うのは売買契約ですし、住宅を購入するまとまったお金がないときに部屋を借りるのは不動産の賃貸借契約ですし、必要な資金を調達するのは金銭の消費貸借契約ですし、安定した仕事につくときには雇用契約ですし、結婚も本来は神と人の前で厳粛な約束をする契約であるはずです。いうまでもなく、契約(約束)は当事者が契約内容を守ることを前提にしており、破ってはならないものであるわけです。
それでは「主の血による新しい契約」とは、どのような契約なのでしょうか。ここでは、以下のように、いくつかの側面からその意味内容の理解に努めたく思います。
?主の死を告げ知らせる血の契約
私たちの罪が赦されるためには血が流されなければなりません。旧約聖書を読みますと、私たちに代わって身代わりの動物の命が絶たれ流された血によって私たちの罪がその動物に転嫁されるという予表を学んで知っています。あの出エジプトのときに、イスラエルの民は家の門に子羊の血を塗ることを通して主の裁きが過ぎ越されたことを知っています。いうまでもなく、子羊の血は罪のない主イエス・キリストの身代わりの死の血に基づく贖いの契約を意味しています。
?契約違反者を呪う(自己呪詛的)契約
エレミヤ書34章18節には、私たちに理解しにくいことが書かれています。すなわち、「わたしの契約を破り、私の前で自ら結んだ契約の言葉を履行しない者を、彼らが契約に際して真っ二つに切り裂き、その間を通ったあの子牛のようにする。」と記されています。当時のイスラエルでは、契約に際して動物を二つに引き裂き、血を流し、その二つに引き裂いた動物の間を契約の当事者が通ることによって、自分が契約を破れば、その引き裂かれた動物のように自分も引き裂かれてもよいという命をかけた決意をもって契約を結んだことがわかります。
出エジプト記2章24−25節を読みますと、イスラエルの民の出エジプトに先立って、「神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。」と記されています。このアブラハム契約については創世記15章に厳粛な記事が書かれています。
 神はアブラハムと契約を結ばれるに際し、アブラハムが準備した真っ二つに切り裂かれた動物の間を通ったのは誰であったでしょうか。それはアブラハムではなく、契約を破ることのありえない神ご自身でした。つまり、万一契約が破られたときに、自らの肉が引き裂かれ、血が流されて、人の契約違反の罪の責任を自らが負われるという決意表明に他なりません。それはまさにキリストの十字架によって成就されました。
?なぜ血による契約なのか
それでは、なぜ血が流されなくてはいけないのでしょうか。レビ記17章11節には、「生き物の命は血の中にある・・・血はその中の命によって贖いをするのである。」と記されています。
私たちが肉親の死に直面するとき痛切に実感することは、最も大切なものは命であり人の死は何ものによっても取り戻せないということではないでしょうか。マタイによる福音書16章26節に「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払いえようか。」と書かれている通りです。私は生命保険会社に勤務していた関係から、いくつかの大学や短大で保険論の非常勤講師をいたしましたが、当然のことながら生命保険で人の命が保険(保障)されるわけではありません。それは正確には生活保険にしか過ぎません。しかし、イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25−26)と明言されています。これこそ、真の生命保険です。ここに、私たちを誘惑する世と肉と悪魔よりも手強い最終的な敵である死が襲いかかるときに、唯一の希望の根拠があります。
?死により有効になる遺言契約
よく知られているように、遺言は双務契約ではなく、片務契約です。その意味で、キリストの十字架の死に基づく私たちの救いは、私たちの律法の行いによるものではなく、キリストが律法を成就してくださったことを信じる信仰による義に基づくものです。それはまさに恵みの契約に他なりません。それはイエス様の遺言すなわち自らの十字架によって有効となる契約内容を私たちが信仰の手をもって受け取ることにより私たちのものになる遺言契約です。
母親の懐に抱かれた赤ちゃんは母親に信頼する他になすすべがなく全く母親に依存していますが、それでも赤ちゃんの握力には想像を超えるものがあります。私たちの信仰の手の握力には限界がありますが、私たちが伸ばす信仰の手を受け止めてくださる神の手の握力によって私たちは堅く引き上げられるわけです。
?確かな契約
キリストの契約が確かであるのはキリストが神であられるからです。神の契約の確かさは神の約束が必ず成就することにあります。神と人との契約において、人が契約を破ることにより契約が無効になることがないように、人の連帯保証人となられたのが私たちの主イエス・キリストに他なりません。
近年のわが国の労働事情と結婚事情にはまことに厳しいものがあります。私がよく知っている人もそのような厳しさの波を受けた一人です。若くてもリストラの対象にされ、その影響が家庭に波及して意図せざる離婚に追いやられ、そのショックたるや愛する肉親との死別をもはるかに上回るものでした。わずかな退職金も底をついて、ワンルーム・マンションの賃料が不払いになり不動産賃貸借契約が無効になりかけたとき、その連帯保証人が未払い賃料を立て替えることにより失効を免れました。
私たちの罪により神との契約が失効せざるを得ないときに、私たちの連帯保証人であるキリストの身代わりの十字架の死により、また律法を完全に成就してくださったことにより、命の恵みの契約は有効に存続し得るのです。
?新しい契約
エレミヤ書31章31〜34節を読みますと、そこには慰めに満ちた神の約束を見出すことができます。そこには神とイスラエルの家、ユダの家との新しい契約が記されています。それは出エジプトのときの契約とは異なり、神の律法を人々の胸の中に授け、心に記すような契約です。その内容は「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」また、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」という喜ばしい音信(福音)です。
これと同じような新しい契約がエゼキエル書36章26〜28節にも書かれています。すなわち、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。・・・」この霊こそ、まさにペンテコステの聖霊であります。
4.主の晩餐の終末論的な意義
私たちが与かる聖餐はこの世で生きる命の源となるのみでなく、それは言わば天国での祝宴の前味であり、本番の晩餐を望み見ることによって、私たちの最終的な敵である死を乗り越えさせる希望を与えるものです。
ペンテコステの聖霊は私たちの内に留まり、やがて私たちがフルに享受することが約束されている神の国の祝福を確実に保証するものであります。アーメン、ハレルヤ。
以上


2005.6.26.(日)
門戸聖書教会・礼拝奨励
「最も大切なもの」(マタイ22:34〜39)
奨励担当・宮平光庸
1.中学校で習った英文法における最上級の表現
奨励のテーマに「最も大切なもの」としましたが、これは「大切なもの」の中でも一番大切なもののことです。私が中学校の英文法の時間に最上級の表現を習うまでは、最上級は一つしかないと思っていましたので、例えば「世界4大聖人の一人」という表現はなかなか納得できませんでした。
私たちが「最も大切なもの」と言うとき、その中には生命、真実、家族、愛、
健康、衣食住、お金、その他、いろいろなことが考えられると思いますが、今のあなたにとって最も大切なものは何でしょうか?具体的に異なる環境の下での個人的な必要は異なるとは思いますが、それは生命ではないでしょうか?
2.今日の聖書テキスト(マタイ22:34〜39)の主題
新改訳・新約聖書には「たいせつな戒め」との小見出しが付いており、新共同訳・聖書には「最も重要な掟」とありますが、総合的にみれば、ここで提示されている問と答から多くの律法規定の中で最も大切なものに焦点がしぼられてきています。
ここで、共観福音書の並行箇所であるルカ福音書(10:25〜28)を見ますと、律法の専門家の質問内容の中心は「永遠のいのち」であることがわかります。たとえ、それがイエス様を試そうとする質問であったとはいえ、その主題は、間違いなく「最も大切なもの」でありました。
3.最も大切な永遠のいのちを受ける方法
ルカ福音書によれば、律法学者の質問に対して、イエス様は「律法には何と書いてあるか」と逆に質問されました。律法学者は律法を見事に要約して?神に対する愛と?隣人に対する愛だと自問自答し、イエス様はそれを正解としてそれを実行するように言われました。
マタイ福音書によれば、イエス様ご自身が「神に対する愛」(申命記6:5)と「隣人に対する愛」(レビ記19:18)が「律法全体と預言者とが、この二つの戒め」にかかっていると語っておられます。すなわち旧約聖書全体の教えの要約は、「愛神・愛人」であり、それが永遠のいのちへの道であります。
4.最も大切な福音に関する聖書の教え
 ここで、私たちがコリント人への手紙第一15:3を開きますと、そこには最も大切なこととして、聖書の示す福音すなわちイエス様の十字架と復活を信じることによって私たちが救われることが書かれています。これらの最も大切なことについて私たちはどのように理解すればよいのでしょうか?
イエス様が律法学者の質問に答えて、律法の要約である?神への愛と?隣人への愛を実行することによって永遠のいのちが得られると教えてくださったことと、パウロがイエス様の十字架と復活を信じることによって救われると教えたこととの間には、どのような関係があるのでしょうか?
5.律法の行いによる救いについて
律法学者が自問自答した永遠のいのちへの道である?愛神?愛人はイエス様も権威をもって認められたものであり、そこに間違いはありません。もし、私たちが、真実に神を愛し、隣人を愛することができれば、そのような律法の行いによって永遠のいのちが得られるに相違ありません。
しかし、深刻な問題は、私たちには真実に神を愛し隣人を愛することができない点にあります。一体、律法の要約である十戒は誰に与えられたのでしょうか?それは罪人に与えられました。律法の行いによっては救われる望みがないことを悟らせ私たちを真の救い主へと導く働きをするのが律法に他なりません。
6.福音を信じることによる救いについて
あたかも病人が医者を必要としているように、罪人は救い主を必要としています。イエス様が来られたのは罪人を救うためであります。それでは、私たち罪人はどのようにして救われるのでしょうか?それは、イエス様が愛神・愛人に要約される律法の要求を完全に実行されたことによってです。
それだけでなく、私たちが律法の要求を破ったことによる罪と罰をイエス様が私たちに代わって十字架上で神の呪いを受けてくださったことによってです。
イエス様が復活されたのは、それを父なる神が認められたからです。福音を信じることによって私たちが救われるのは、それが神の示された道だからです。
7.律法と福音の関係について
それでは、私たちが律法によって福音へと導かれ、私たちが福音を信じて救われた以上、律法の働きは終了して、もはや、私たちには律法は不要になってしまったのでしょうか?それとも、イエス様が聖書全体がこの二つの戒めにかかっていると言われた愛神・愛人の教えは今でも重視すべきなのでしょうか?
これはいわゆる「律法の第3用法」の問題として、現在でもキリスト教会の内部では見解が分かれています。ある教会では、救われた者が感謝を表すものとして律法を守ることを重視しています。そこで、私たちは少し視点を変えてイエス様の山上の説教に注目しましょう。
8.イエス様の山上の説教における律法
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだ、と思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でもけっしてすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:17−18)
ここで明らかなことはイエス様が律法を重視しておられることです。私たちが救われたのはイエス様が律法の一点一画に至るまで完全に行われたからです。それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか?イエス様が律法学者に律法を行うように語られた後に、有名な「良きサマリヤ人の譬」があります。
9.良きサマリヤ人の譬と山上の説教
確かに良きサマリヤ人は神と隣人を愛することのモデルであり、その完全なモデルはイエス様ご自身に他なりません。良きサマリヤ人になれない私たちが救われるためには福音に留まり続けなければなりません。しかし、救われた私たちは福音にふさわしく生きることが期待されているのではないでしょうか?
福音にふさわしい生活とは、正に山上の説教に生きることではないでしょうか?しかし、山上の説教は私たちに実行可能なものでしょうか?それは最高の道徳・倫理であっても、罪から完全に清められてはいない地上の生活においては単なる理想郷のようなものではないのでしょうか?
10.神の言が人の言葉と異なる理由
 私たちは文字通り罪深いため、福音の素晴らしさを過小評価しやすいのではないでしょうか?ここで、私たちは、自分の姿から目を離してしばらく神の言に傾聴したく思います。すなわち律法が全部成就されると明言されたイエス様の言は、同時に神の言であることを銘記したく思います。
 神の言が神の言であるのは、それが必ず成就される点にあります。神が「光あれ」と言われると「光があった」ように、神が「殺すな」と命じられると、私たちは「殺さなくなる」ことが期待されていると同時に、現実にそうなるのではないでしょうか?その実現こそ「良き音信」ではないのでしょうか?
(お祈り)
「神様あなたの御言が私たちの身に成りますように主の御名により祈ります。」
以上
目がハート

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