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さっぱんの小説コミュの認知症高齢者の話

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 私は朝ごはんを食べるために自分の席についたはずです。なかなか女子(おなご)が膳をもってこないので「朝ご飯まだですかあ」と嫌味を込めていってやりました。するとどうでしょう、その女子ったら「門田さん、今は晩ですよ。だから晩ご飯ですよ」と言うんです。晩だから晩ご飯がでてくるのは筋が通っています。しかし、今は朝のはず。さきほど私は長い眠りから目を覚ましたのだから。それが何よりの証拠です。
「どうして? 朝だから朝ご飯でしょう」
 女子は後ろ向きのまま「じゃあ外を見てくださいね、朝ですか?」と語尾をのばしてだるそうに言います。横目で外を見てみるにどうも暗い。朝のはずなのに暗いのはなぜでしょう。まだ夜が明けてない、日の出前の時間帯なのかしら……。それにしては朝ご飯は早すぎるし、食事席には他にもたくさん人がでているし、どうして?
 対面している女性に目がいきます。もうひ孫がいてもおかしくないくらいの風貌の、顔中しわだらけのお婆さんです。
「おばあさん、今晩なんですか?」
 うふふとかすかに漏れ、頬が緩んだようです。それでも言葉として答えが返ってこなかったのでもう一度問いかけてみましたが、またさきほどの薄笑いをされました。耳が遠い方なのでしょうか。
 横から何かが差し込まれてくる気配があって、びくッと上半身を引きました。横から膳が滑り込んできたようです。「はい、門田さん。朝ご飯じゃなくて、晩ご飯がきましたよ」
 少しも染みがないきれいな手は、まるでナイフの鋭さと冷たさで私の胸に刺さってくるようでした。思わずテーブルの上にだしていた両手を下にひっこめてしまいました。それにしても本当に晩ご飯なのでしょうか。ご飯と豆腐とワカメのみそ汁、赤魚の煮付け、ほうれん草のごま和え、みかん。
 もう女子にとやかく言うのはやめました。私は目の前の食事を楽しむことにしたのです。
 憎たらしい女子の作ったものでしたが、朝ご飯はとてもおいしいものでした。



 まったくどうしたことでしょう。私の呼びかけに応える人がいないのです。さきほどから声を張って懸命に息子の名を呼んでいるのに。その前にここがどこなのか分かりません。誰か教えてください。今が何時なのかも分かりません。誰か教えてください。
「淳一ッ、淳一ッ」
 暗闇に声が吸い込まれていくようです。どうして周りに誰もいないのでしょうか。
 ……おしっこがしたい。トイレの場所は明かりがついているのですぐに分かります。あらまあ、便器の中におしっこが残ったままだわ。トイレの紙も流してないし。汚い……。
 取り残されてしまったのでしょうか。ここは無人島? 人の気配がありません。それでも私は呼ぶことをやめませんでした。
「淳一ッ、淳一ッ」
 外を見ると半月がでていました。今は夜なのでしょう。いいや、それも疑い深いことです。あれは絵として描かれた月なのかもしれません。それにしても誰か人がいないのでしょうか。誰かの声が聞きたい。私だけじゃないって存在証明がほしい……。
 ……おしっこがしたくなりました。トイレはどこでしょうか。ありました。明るいから分かりやすいのです。あら……流してないのかしら。汚いですね……。
 息子はどこにいるのでしょうか。一、二度名前を呼んだのですが、でてきてはくれません。どこにいるのでしょうか。
「淳一ッ」
 後ろから右肩をぽんぽんと叩く人がいました。振り向くと若い女子が立っていました。彼女なら何か知っているかもしれません。
「どこいっちゃったのでしょう……淳一。知っていますか?」
 女子は何も言わずに頭を横に振りました。呆れている風です。
「門田さん、淳一さんは帰ってきませんからもう寝てくださいね」
 帰ってこないとは何事でしょうか。顔を近づけて聞きました。
「どうして? どうして帰ってこないの」
「淳一さん言ってましたよ。しばらく仕事で遠いところにいくから帰ってくることができないって。大人しくここにいましょうね、ね?」
 子供をあやすように女子は言ってきます。感じが悪いです。遠いところってどこですか、と聞いても分からないといった感じの顔をします。いつ帰ってくるのか必死の形相で聞いてもまるで取り合わない風です。どうして詳しいことを教えてくれないのでしょうか。私は知りたいのです。息子が今どこで何をしているのか。いつに迎えにきてくれるのか。
 ……おしっこがしたくなりました。随分いってなかったから、早くしたいです。話は後です。おしっこが先です。
 


 私は門田幹枝です。女です。眼鏡をかけています。年は分かりません。太っています。結婚してからぶくぶく太るようになってきました。主人もみるみる変わる私の体型に嫌気が差してきたようで、夜も求められなくなっていきました。それでも私は主人のことを好いていました。主人は……今ここにはいないようですので、たぶん家にいるのだと思います。国語の教師をしています。一方私は英語の教師をしていました。教師というのはストレスのたまる仕事です。だからお菓子を食べて発散していたのです。でもやっぱり太る一方でした。おばあさんと言われる年になってからでしょうか、病院からもらうお薬の量が多くなってきました。今でも若い女子がご飯の後にお薬ですから飲んでくださいねっていろいろな錠剤をもってきます。何に効くお薬なのでしょうか。「何に効くのですか?」と尋ねても「大きなお腹が小さくなるお薬ですよ」などといって笑うだけです。思わずつられて私も愛想笑いを返してしまいますが、それは大変に失礼なことではないでしょうか。編み物が好きです。主人と付き合う前からセーターや手袋を編んだものです。料理も好きでした。小さい頃から母親と一緒に作っていたのです。キュウリの千切りもタマネギのみじん切りも、ニンジンのいちょう切りだってお手の物です。でもこの前でしたか、左手の中指を切ってしまって。感覚が鈍ってしまったのかしら。それでも明日には息子も帰ってくるだろうし、おいしい肉じゃがでもごちそうしてあげようと思います。
「門田さん、三時ですからでてきてくださいね」
 入り口の戸が開いて中年のおばさんが声をかけてきました。昨日も見たおばさんです。熊のかわいい絵がついたエプロンなんて着ちゃって……。年をわきまえた方がいいと思います。それにしても、まだ三時なのですか? もうすぐ晩ご飯がくる頃だと思っていたのに……。



 コツコツコツ。コツコツコツ。コツコツコツ。コツコツコツ。
 何もすることがないです。仰け反りぎみに椅子に座ってぼーっとしているだけ。何もすることがないので、テーブルを人差し指で小突いて気を紛らわせているのです。私はここにいるのですよってサインをだしているのです。こうしていたら、息子あるいは主人が気付いて早めに迎えにきてくれるかもしれませんから。
「うるさいなあ……」
 左斜め前のおばあさんがそうこぼしたような気がします。眉間にしわを寄せた表情がそう物語っていました。どこのおばあさんでしょうか。私には分かりません。同じ地区の方だったら話も弾みそうですが、こんな顔をする人とは話をしたくありません。
 三人が忙しなく辺りを歩き回っています。おばあさんとは言われない方々です。おばさんが二人に、お姉さんが一人。三人とも初対面です。でも皆さん私の息子や主人の名前も知っているので驚きました。どうして知っているのでしょうか。もしかしたら二人がどこにいるのか、いつくるのかも聞いたら教えてくれるかもしれません。目の前に置かれたレモンティーを飲みほしたら聞いてみようと思います。

 三足すニは五で、六引く三は三です。そう答えを鉛筆で書いていきます。二十問中十九問正解でした。私としたことが、間違えた一問は空欄のままだったのです。とぼけていました。若いお姉さんはぱちぱちと大げさに手を叩いて「さすが門田さんですね」。これは勉強なのでしょうか? 一桁の足し算引き算を解くことは小学生でもできます。二桁の計算もできますし、三桁だってできるでしょう。英語の教師でしたが、数学も得意なのですよ。一桁の計算問題って、もしかして私を馬鹿にしているのかもしれませんね。あらあら、前の人ったら何でしょう、ミミズのはったような字を書いて。間違いだらけですし。



 なんだかちょっと気持ちが悪いです。起きてみたら下半身が冷たかったので、パジャマのズボンを脱いで、下着も脱いでみました。ちょっと濡れていたようです。どうして濡れたのでしょうか? まさか私がお漏らしをしたのですか……。いえいえ、そんなはずはないでしょう。そういえばさっきから寒いです。寒さのおかげでいろいろ冷たくなっているのでしょう。さあ着替えないと。
 薄闇の中、下着を探していると壁に丸い光が現れました。それは少しずつ移動して、私の顔に当たりました。まぶしいです。一体なんですか!
「門田さん、どうしましたか。何か探しものでもあるんですか」
 部屋が一気に明るくなりました。目の前には若い男性が立っています。私はとっさに手にもっていたズボンを股の辺りにもってきてしまいました。冷たさが全身を駆け巡りました。そして、少しの恥ずかしさのあと、頭に血が上っていくのを感じました。
「なんですか! あなた誰ですか! 何をしにきたのですか!」
 若い男性は少しひるんだようです。
「いえいえ、巡回の時間なのできてみたんですが……見たくもないものをみたよ、ほんとに」
「なんですって?」
 最後の方が聞き取れませんでした。でもそんなことは今どうでもいいのです。
「いいから、早くでてってください! 訴えますよ」
「はいはい」
 男性は力まかせに戸を閉めていきました。耳が遠い私の耳にもその振動はびりびりと伝わってきます。
 しばらくして、落ち着いてきたらなんだか涙がでてきました。どうしてでしょう? 分かりません。



「こんにちは。きたよ」
 うっすらヒゲを生やした眼鏡の男性が椅子に座っている私に声をかけてきました。目尻にしわがたくさんあります。還暦が近いくらいの年でしょうか。どことなく私の息子に似ています。でも、違うでしょう。どう返事を返したらいいのでしょうか。
「こんにちは」 
 ぺこりと頭を下げて、できるだけ丁寧に返事をしたつもりです。
「母さん、俺だよ。分かる?」
「え?」
 思ってもみない言葉でした。俺だとこの男性は言っています。目を丸くしてしばらくその顔を見るに、息子の面影がたしかにあるような気もしてきました。淳一、淳一なの?
「淳一?」
「そうそう、あなたの息子。覚えておいてよ、息子の顔くらい」
 心が躍るようでした。思わず手を取って上下にぶんぶん振りました。
「淳一、淳一」
「母さん、ここでの生活には慣れたよな? もう三ヶ月くらいになるけど」
「三ヶ月? 何いってるの」
 私は昨日ここにやってきたはずです。昨日あなたに送られてきたんじゃないの。「ホテルに一泊する気持ちで過ごしたらいいから」とか言われて。全く何を言い出すのでしょう、淳一ったら。
「職員さんにもよくしてもらってるようだし、すごく助かるよ。……あ、助かるってのは違うか」
 苦笑いをしています。どうしてそのような顔になるのか分かりませんが、私はこれから家に帰るんです。そのために淳一も来てくれたのでしょうに。
「あら大変。帰る準備を何もしてないわ……。もっと早く連絡してくれればよかったのに」
「いいんだよ、それは。母さん、ちょっとこっちの用事が長引きそうで、もう一泊してもらうことになったから」
「そうなの? 用事って何の用事かしら」
 淳一の濃くて厚い眉毛が下がって困ったような表情になります。この顔はよく見たことがあります。私か厳しく叱ったときはこの顔によくなったものです。「外国に勉強を教えにいくんだッ、お母さんお願い」って懇願されたときはどうしようかと思ったけど、結局は日本に戻ってきてくれて、社会の教師になってくれてよかったわ。あなたは私の自慢の息子よ。淳一。淳一……。
「母さん、じゃあまた近いうちにくるから。ああ、明日か、明日くるから」
「明日ね……大人しく待っているわ」
 淳一は椅子を片付けたら入り口で振り返ることもなく出て行ってしまいました。

「門田さん、さっきはよかったですね。息子さんきてくださって」
 若い女が膝に手をあてて中腰で言ってきます。
「息子? 淳一のこと?」
 さっき淳一がきたようなことをこの女子は言うようですが、私は全然そのようなことを知りません。覚えていません。淳一とは会っていません
「ええ、さっき。三十分ほど前ですかね」
「三十分? 全然覚えてないですよ……。きてないのでしょう」
 でもそういえば、手の平に淳一の温もりのようなものがまだ残っている気がします。服に淳一の匂いがかすかに残っている気がします。本当にきたのでしょうか。なんだか頭の中がうまく整理できていません。遠い記憶や近い記憶が止まることなく、あちこちを飛び交っているようです。……気持ちが悪くなってきたのでしばらく寝ることにします。

「ここを開けてくださいッ。開けてくださいッ」
 暗闇の中にいるようです。辺りには馴染みのあるものが何一つありません。触ったことのないテーブル、食器、手入れをしたことがない花、眠ったことのないベッド。どれも私を威圧しているかのように沈黙しています。睨みつけているようです。
「開けてください。助けてくださいッ。助けて、助けてッ。淳一、淳一ッ」
 閉じ込められてしまったのかもしれません。何度も呼んでいるのに淳一はきてくれません。誰もきてくれません。冷たい水が股の間を流れていきます。涙もでてきたようです。夢の中にいるのでしょうか。きっとそうです。私がこのような理不尽な目に遭うはずがありません。叫んでいたら元の世界に戻れるかもしれません。誰か助けてくださいッ。助けてくださいッ。

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