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ミラン・クンデラコミュのアニェスに向かって

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 または覗きについて。。。

 最高のポルノは行為ではなくて、覗き趣味だという。見られることなくして見る、しかも見られているとは気づかれずに。
 自身は視線と欲望のふたつになりきることができる。視線の形を取った、欲望そのままの支配・被支配関係。肉体を直接伴わないことで、その欲望はきりもなく膨れ上がっていくことができる。(「混沌から創造へ」武田泰淳)

 アンリ・バルビュースの「地獄」という小説があり、ある対談で開高健が、豆かすしか食べられなくて出せるものがないときに、その本でばっちり絞られたと語っている。そのほかにも淳之介らもおなじ思いをしたらしい。

 そのものずばり、パリに職探しに上京した青年が安ホテルで隣を覗く穴を見つけ、愛欲の実態をあからさまに目撃するという話。

「ぼくの視線はあそこにはいり、ぼくはあそこにいるようなものだ。あそこにくるものは、みんな、それと知らずに、ぼくと生活をともにすることになる」
「ぼくがこの女を文句なしに受け入れているのは、この女が手の届かないところにおり、ふたりのあいだに深い溝がほられているからだ。。。。ぼくを引きつけるいっさいのものが、ぼくの近づくのをさまたげる。」

 青年はほんとの愛、情欲、男と女の姿を知り、ふらふらになってパリを後にして、故郷に帰る。

 かくして、高尚なキワモノを描いたバルビュースであったが、第一次戦の悲惨さを語ったのち、イデオロギー色の作品に移っていった。それは表現の可能性に限界を与えるものであったかもしれないが、この作者の後のコミュニズム性というのは、出発点からわかっていたようなものかもしれない。つまり、人間の限界と可能性を底辺から見詰めるということによって。絶望に彩られた「地獄」から後の、人間愛に基づいたイデオロギー性へと。

 開高健は、似通ったテーマの短編を書いた。「二重窓」という。
 「地獄」の青年が人生の謎を前にして、期待と怖れに身を震わせているのに対して、「二重窓」のほうは、典型的・倦怠的ブルジョアということになっている。
 ただ、中国での慰安婦体験と、ブルジョア的享楽的覗き趣味が綯い合わせにされ、後ろめたさ、生きていくことのやましさが描かれているという点で微妙に異なっているけれども、それでも、作者の底に「地獄」が意識されていたことは間違いないとおもう。

(川端の「眠れる美女」も、相手が眠らされているという点では、覗き趣味のバリエーションかもしれない。ちなみに、この作品は海外で評判高し)

 現代人が「見られる」ことに耐えかねて、ついにのぞき屋にまでなり下がった、というのは現代文学にくりかえしあらわれるテーマだそうだ。
 すでに漱石において、自分が探偵につきまとわれているという日常感覚の予感みたいなものがあったという。
 みんなが毎日、誰かをスパイしているらしい。
 それというのも、いわゆる神の視線の内面化はその行き着く末というか、その低俗化として、隠しカメラの内面化に至っているらしい。
 いわば、「見られる不安」から「見られる安心」のなかで今のわたしたちは生きているということであるらしい。
 つまり、自分の不確かさ、あいまいさ、を背負いきれず、他者の視線でプライバシーを覗かれなくては、もう自分がだれかを確かめることもできなくなったらしい。
 ファッションは、自分にはよく見えなくても「私らしさ」を他人に見せることである。
 それに対して、インテリアは他人には見られず、自分だけに見える自己表現のメディアである。 この私の視線こそが匿名の他者の視線とおなじものだという。
 ここまで語ってきたことは、上野千鶴子「「見せる私」から「見られる私」へーインテリアの社会学」という小文に基づいていて、’82年の朝日新聞夕刊に出たもので、わたしのこの人との最初の出会いであった(この文は「増補<私>探しゲーム」(筑摩)に所収)。ずっと後になって、うちの学校にまで講演にきていただいたものである、ただで。
 ここから覗き趣味、覗かれ趣味の意味付けが自ずと導き出されてくると思う。


「アニェスが神を想像し、そしてなすがままを神に見せたのは、まさに悪い癖にふけっているときや、恥ずかしい思いをしている瞬間だった。」
                 ミラン・クンデラ「不滅」

コメント(4)

アニェスを心の友としていた私は、mixiに日記を書くこと自体抵抗をし、鍵をかけたアクリルケースに入れた日記帳と共に、下記のコメントを添えた展覧会をしました。
その後いろいろあって、日記を公開し始めてしまったのですが、どこかでアニェスを裏切ったような、後ろめたい気持ちでいます。

______________________________________

アウトライン化した日記の筆跡を、パソコンにつながったミシンで出力し、刺繍する。
文面は画像処理の対象として客体化され、糸の並びで構成される物質になる。
記録された瞬間から日記帳の中で付着し続けた個人的な思いは退色し、意味内容は形骸化する。
さらに人目に触れれば、そこに自分の中だけで完結してきた私的さは完全になくなるのだろう。
プライヴェートな出来事、思い、記録について考える。
興味深いですね。上野千鶴子さんの本はたまたま手元にあったので読み返してみました。

本文中に「一億総出たがりや時代」がやってくる。みんなが役者になるいやな時代」とつかこうへい氏の言をひいていますが、クンデラの『笑いと忘却の書』にある、

「すべての人間が作家になるとき、本質的な聾者と無理解の時代がやってくるだろう」(手元に本がないため不正確なおそれあり)

という言とも通じるように思います。

東子さんがコメントされているように、このテーマはこうやってmixiで日記をかいていたり、コメントを互いにつけあっている私たち自身の問題でもあるわけで・・・。

どうしてわたしたちは日記なんてみんなにみせたいんでしょうね?
見せること、見せないことがテーマの1つになっているのは、「不滅」以外には「存在の耐えられない軽さ」のテレサしか思いつきませんが、小説という装置を通したあとは、自己判断です。東子さん、かうさんのお気持ちは十分にわかります。ですが、何といっても自分の人生が一番大切ですよ!全然冷たいシャワーを浴びても大丈夫だと思います。
 行為を、あるいは内面を文章化し、不特定多数にさらすということは、ふたつの立場から考えることができるかと思います。

 ひとというのは、演じることから成り立っている、ゆえに内面がどうであれ、ひとというのは他人を意識せずにはいられない。
 場合によっては「ほんとう」のじぶんをどこかに置き去りにしながらも、なんらかのやり方で演じていく。

 ひとの内面というのは、絶対的な秘蹟そのものであり、コミュニケーション不可能性を課せられているがゆえに、いかなる場合でもその存在を暗示するような行為にいたってしまうのは非生産的そのものでしかない。


 東子さんの場合は、日記に代表される内面を、べつのコードに変換することで、完全に客体化しえたのだと思います。

 東子さん、かうさん、Hiroshiさん、コメント、ありがとうございました。

(でも、いまどき「内面」うんぬんなんて時代錯誤もはなはだしいかもしれないけど)

 

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