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在日韓国人コミュのフィギュヤースケートで4位に入賞した村主選手の姓について

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半月城氏という方が、あるMLに投稿された文を引用して、私が研究している、大阪生野の渡来史について、触れてみます。

半月城です。
  フィギュヤースケートで4位に入賞した村主選手のことが前から気になっています。村主をスグリと読むのは、歴史に登場する渡来人の村主と何か関係があるのでしょうか? 歴史上の村主は、デジタル平凡社の世界大百科事典では下記のように説明されています。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
村主(すぐり)
日本古代の渡来系氏族の姓(かばね)の一つ。〈すぐり〉ともいう。村主を〈すくり〉と読むのは,古代朝鮮語の郷,村を意味する su‐kur(足流)という語に由来する。5世紀以降,主として朝鮮百済から渡来した技術者集団である漢人(あやひと)を,各国内の村に配置したさいに,各集団を統率した渡来人の長を村主と呼称したものら
しい。

やがて姓制が確立すると,称号である村主も姓の一つとなり,また後には氏名ともなった。

村主の姓を称する氏族には,高向(たかむく)村主,西波多(かわちのはた)村主,平方村主などがおり,仁徳天皇の時代に百済などから村落の人たちが,こぞって日本に渡来したとする伝承を持ち,いずれも,後に坂上氏となる東漢(やまとのあや)氏の統轄下に,各種の技術者集団の統率者の役割を果たしていたらしい。後には,他の一般氏族と異ならないものとなり,律令政府の下級の役人となっている。氏名の村主には,葦屋村主の同族と称する氏族などがあり,摂津や和泉国などに居住していたことが知られる。

半月城通信 Fri, 24 Feb 2006
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ここからは、絵本(猪甘津猪飼野1600年)の内容とも関連するので、補足します。
http://www.geocities.jp/ku_da_ra/ETC/ehonweb/ehon.htm

坂上氏で代表的な人物が征夷大将軍となった下記の人物です。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ、天平宝字2年(758年) - 弘仁2年5月23日(811年6月17日))は、平安時代の武官である。大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。死後従二位を贈られた。

父は坂上苅田麻呂。中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任の征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を討って降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生んだ。

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そして、生野に隣接し、百済貨物駅のすぐ隣りに位置する平野神社は坂上田村麻呂の子によって、開拓された地なのです。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

坂上広野(さかのうえ・の・ひろの)は坂上田村麻呂の子。坂上広野麻呂とも。

摂津国平野(現・大阪市平野区)の開発領主で「平野殿」と呼ばれた。
薬子の変では父と共に嵯峨天皇につき、広野は近江国の関を封鎖するために派遣され、田村麻呂は美濃道を通って平城上皇を邀撃する任を与えられた。 しかし、それ以外には生前中に大きな合戦はなく、父田村麻呂譲りの武勇に秀でた人物であったが、その腕を発揮することなく死去。姉の坂上春子は、桓武天皇の後宮で、桓武天皇の崩御後は、広野を頼って平野の地に住み、長宝寺を創建し、坂上氏累代の尼寺となる。 融通念仏宗の総本山の平野の大念仏寺は、開祖良忍(聖応大師)が四天王寺で見た霊夢で、坂上広野の私邸内に建てた修楽寺が前身。

坂上広野の子孫は平野氏と名のり、そこから坂上=平野七名家と呼ばれる一族が生まれている。後に東西両家に分かれる末吉氏(平野利吉[ひらの・としよし]の弟の平野利安[ひらの・としやす]が祖)をはじめ、道頓堀を掘った安井道頓こと成安道頓の成安氏などがそうである。

コメント(9)

Tæßikさ様、こんにちは。

百済のことに興味がおありですか。一応、私も百済専門に資料を収集しております。

> 当時のことは謎である部分も多く、「くだら」という言葉の由来が「큰나라」なのかどうかっていうことも謎のままですね。

「くだら」の発音については、王仁や百済の王族が朝鮮半島から出発した港の名前が「クトレ」でそれが訛って「くだら」になったと唱える方もいらっしゃいますが、私の個人的な見解は、今のところ「큰나라」説が有力ではないかと思います。
「くだら」もそうですが、「飛鳥」を「あすか」と呼ぶのも謎とされていますが、下記のページの参考資料をご覧下さい。
http://www.geocities.jp/ku_da_ra/ETC/ehonweb/ikaitsu/27.HTM
近つ飛鳥について触れていますが、百済系の飛鳥戸(あすかべ)氏が実在したこと、そして、この地が安宿郡と称す地域であったことから、「あすか」の語源が「安宿」(アンスク)から転訛したという考え方が一番有力ととらえています。
その点から、飛鳥の起源に多くの百済の渡来氏族が関わり、母国を大きな国(큰나라)ととらえても、なんら不思議ではないように思えます。
ただ、それを証明することは、できないので推測の域をでません。


ごん@よんどん様
これは面白い!思いつきませんでした。
Tæßik様
お詳しいですね。
では、ついでなので、こちらもご覧下さい。
http://www.geocities.jp/ku_da_ra/ETC/osaka-timei.htm#1

ここからは、あるMLで書いた一部を引用します。

> 坂上広野の子孫は平野氏と名のり、そこから坂上=平野七名
家と呼ばれる一族が生まれている。

平野の名称については、この広野が転訛したという説が有力で
すが、仁徳天皇をまつる東高津宮は、昔、平野社と称していま
した。
http://www.norichan.jp/jinja/renai/higashikoudsu.htm

この古地図にも、仁徳天皇居に平野社の文字が見受けられます
。
http://www.geocities.jp/ku_da_ra/samplepage/A3Aomote.html

坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した桓武天皇は、京都に渡来氏族の神社である平野神社(※)を建立しました。

平野という名称は仁徳、天皇家、渡来氏族と密接に結びついており、何かの因果があるのでは、と思えてなりません。

※以前、私の質問に、半月城さんは平野神社について、「平家は百済系か」でレポートされております。
http://www.han.org/a/half-moon/hm107.html#No.782

ご参考まで


> トリノオリンピックでは韓国は強かったですね〜。

ショートトラックに限ったことではありますが、立派なものです。
おやじ様
中央区は、もと東区に属していましたね。
人物の名前説を歴史学者の方もいらっしゃいますね。
これは私の憶測に過ぎませんが、意図的にとなえられた説だと思います。
この人物は、「はやしきゅうたろう」(間違っていると思います!)だったかな、江戸時代の人間だったと思いますが、その人が登場する前の複数の古地図に「久太郎」の文字が見受けられますので、意図的に流布されたものだと思えます。

>>あるML
>わたくし、ずーっとロムりっぱなしです。w

あ〜そうですか。 今後もよろしくです。

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