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『本道樂』コミュの【未刊行「日本民權次良長談話」に就て(一)】

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未刊行「日本民權次良長談話」に就て(一)

  井棲閑

 萩原乙彦は亡びゆく江戸時代の戯作者であつた。今その略歴すら得ないが、乙彦は萩原秋巖の養子であつた。秋巖は書を好くし「安鶴在世記」に「隨處樂」と題賛されたその人である。さらば乙彦の静岡に於けるこの戯作も因縁浅からぬ関係をば持つてゐることにならう。
 私は乙彦の静岡新聞記者(社長)時代に著作された未刊行「日本民權次良長談話」の挿畫木版十四枚とその草稿一冊とを偶然にも借用し得たことを喜ぶ。それは静岡初期に於ける書籍刊行界の一端を窺知することの出來得るがためにある。この計劃は明治十四五年頃の事であつたであらうか。
 明治十三年といへばその頃駿河國有渡郡静岡呉服町五丁目に金蘭閣故吉見義次さんが書肆を營むで居られその金蘭閣は呉服町六丁目の晩翠閣と合梓で「挿畫違式註違條件」を編輯された年であつて、その外に金蘭閣の發行した面白誌を始め種々冊子雑誌等出版物があつた東京の感化を受けた試練時であつたからであらう。
 明治十三年二月二十五日静岡新聞は二度廃刊同様に休刊をして三度目に再興の旗をばあげた。
 静岡新聞社は今の江川町安倍銀行支店の左隣地にあつたかに覺えてゐる。この三度目の静岡新聞は六百六十五號を發行して日刊新聞となつたのである。
 静岡新聞の大發展―當時の―が、東京から梅星叟萩原乙彦を社長に招聘したのである。静岡新聞には故山梨易司といふ、山梨稲川の縁家が経營者として苦勞されていた。山梨は後に大務新聞から民友新聞の基礎を作られた人で静岡に於ける新聞界にあつては忘れてならぬ人である。
 乙彦は江戸の人で梅暮里谷峨といひ、釈迦實録、智計雑談、連理(※印字不鮮明)梅、色競べ、水滸傳(七十回本)等の著作、があり、維新の際書肆の嘱託で東京繁昌誌(繪入)軍語類編、修身學、漢語二重字引、新聞字引等を著作し明治十二年の春には新門辰五郎遊侠物語を書き洋本風の民權百家傳、造(※印字不鮮明)化機論第三編、山陽墨寶帖、譯文稗史、三大家文集などを著作された。餘談ではあるがこの新門辰五郎は慶喜公に従ひ静岡に來て今の劇場若竹座の前身小川座を建設した人であつて、感應寺で四斗樽に二朱金を盛り幾つかならべ立てゝ兩換して豪勢振りを示し、あれはチヤラ金だと噂さされた侠客であつた。大久保候(小田原)の御用ものゝ指物をしてゐたが徳川亀之助が静岡に一時落ちついた時、小田原をこげて静岡兩替町に草鞋をぬいだ故中村三次郎は新門は浅草のどぶさらひであつたが隨分立身して男をみがいたものだとその當時を追懐して私に話されたことがあつた。三次郎は體に大きな疵跡があり左腕かに僅に文身してゐた。
 如上の如く乙彦はその當時名の賣れた先生であつたので静岡新聞は再興と共に招聘して社長になほしたのである。それほどに當時は有名な人であつたのだ。乙彦は假名垣魯文と交りを親しうしてゐた。静岡新聞に掲載された魯文の手簡によつてよく知られる。

 北堂御歸宿に付一翰御托し申上候御存じの如く迂生が寓居は新富町劇場河岸軒場に四方を眺むるに西南芙蓉の半手體を現し築地海邊に近く松原はなしと雖も彼の太田道灌よくよんだ我庵はの歌の体にも似て風景あり此富士と朝暮に眺め老兄と一別以來疎遠隔絶なるも合璧の意を生じ太田君父子の事も思ひ出られ侯殊に郵送の貴社新聞に依つて老兄が病痾の全快も覺へ大慶/\且老兄入社以來社運隆盛日一日に到るを賀す猶御社員協力を仰ぐ耳老兄時ありて歸京の際一日出刷の貴社新紙を以て御近傍の富士山を貼抜静岡土産に御持上り然可候今朝も西南に對して「富士見るや君と我との夏隣」又「浦山し富士を机の筆かけや硯の海にうつす君かも」富士おろし二挺さみせんの評判記大極上上吉以下は次號の便りの風穴かしこ
            魯 文 拜
 萩に置く露にて思ひ出侯荻江露八兄は相變ず全盛に候よし夫婦中は定めてよからんか。五月二日
  乙彦先生足下

 乙彦は滿一年勤務の約束で東京に老母を残して静岡に赴任したそれが任期を三年に延したので老母を迎えることになつたのだ。乙彦を知つてゐる人はあたまのツル/\した、きれいなおぢいさんであつたといふてゐる。静岡へ來た時には既に相當な年であつた老母といふは養母か。養父秋巖は既に故人となつてゐたのであらう。老母は魯文方に假寓してゐた。(一五、一〇、八)

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