ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

今西祐行コミュのすみれ島に誘われて

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
今西先生が亡くなられる前に「今西先生へのメッセージ」として「藤野図書館を考える会」が冊子を作られました。
その時に書かせてもらったものです。
なぜ私は今ここ藤野にいるのか・・・自分の中でかなり整理する機会になった文章です。
ちょっと長いですがよかったら読んでください。


   すみれ島に誘われて
「すみれ島」の絵本を手にしたのは教職について初めての夏休みに入る直前のこと。登校日の子供たちに放映する校内テレビ映像の作成のためだった。5〜6人の先生たちで「すみれ島」を交代読みする、その傍らで絵本のページをビデオカメラで撮るという作業だった。
恥ずかしい話、私は「読み聞かせ」がなんたるものかも分からないまま隣のクラスの先生に誘われ毎朝絵本を子供たちに読んでいた。楽しい時間だった。けれどそれ以上のことは何も考えず、自ら絵本を買おうすることもなかった。
しかし、この「すみれ島」の体験は私にとってただものではなかった。
静かに語られる文章、いつものよく知っている先生方の声で交代に読み次がれていく。いつしか物語の中にどんどん吸い込まれていった。
「叫ばない作家」・・・ある新聞記事に今西先生のことをそう表現していた。うまく言い当ててあると思う。すみれ島に限ったことではないが、作品の中で直接的な表現がされていない。戦闘場面や残酷なシーンは表現されていない。戦争を声高らかに反対し平和を唱えるようなストレートな文章もない。むしろたんたんと表現されている。それゆえ読み手の数だけの「すみれ島」が存在する。
そして、わたしの「すみれ島」は、というと、今もページをめくるとそのとき読んだ先生方の声が聞こえてくる。そして、放送室の息苦しさであったり、バックに流していたモーツァルトだったり・・・。まさしく「読み聞かせ」で体験した「すみれ島」である。それが私の「すみれ島」だ。
誰かに「読んでもらう」という心地よい体験、加えてその作品が「すみれ島」であったということは、私にとってそれこそが読み聞かせの出発点になった。
そしてその日、学校が終わるとすぐに「すみれ島」を買いに子供の本専門店まで車でぶっ飛ばした。紙袋に入りきらないほど買った暑いあの日のことを思い出す。
その日を境に、絵本収集マニア、2学期からは「絵本を読む先生」の看板を自分で上げるようになった。どの学校に行っても、どの学年を受け持っても、教壇を下りるまでできる限り毎日続けた。

神奈川県津久井郡藤野町・・・この地名を耳にしたのは「すみれ島」と出会った同じ頃、友人がここへ引っ越したのが最初。「ぎりぎりいっぱいの神奈川県」それが地図を見て思った感想だった。
次に藤野町という文字を目にしたのは今西先生の「農業小学校のうた」だった。絵本をながめ「へーこんなところなのかー。」と、サラッとした思いしか持てなかった。
そして、初めて藤野を訪れたのは何年かたった夏の終わり。その友人が主催する大石神社人形浄瑠璃公演の時だった。地図の通りに来たつもりが山また山、山・・・引き返す気にもならないくらいに走ったところで公演ののぼりを見つけた。なんともすごいところだと思った。けれど、その公演のすごさはそこが山の中と思えぬほどの熱狂振りだ。今まで劇場で見たどの芝居よりもすごかった。まさに神がかりの舞台。演者と人形と観客とがマジックにかかったかのように一体となっていた。文楽の観客が立ち上がって三味線と一緒になって三番叟を踊り狂うのはここくらいのものではないだろうか。
こんな空気の流れるこの山のどこかに今西先生は住んでいるのだろうなー、ふとそう思った。でも、まさか自分もこの山の中のさらに奥、今西先生のすぐそばで暮らすことになろうとはもちろん思いもしなかった。

藤野に住んではや6年。何で私はここに来てしまったのだろうとため息の出る日は少なくない。あたりまえに夕刊がなかったり、図書館がなかったり、とにかく不便だ。過疎はますます進んでいくし・・・住みやすいとはお世辞にも言えない。
そんなことばかり思っているこの夏の終わりに今西祐行フェアがあった。そこで先生の作品の数々がオペレッタや朗読などで紹介された。
そして三井先生の講演のなかで紹介されたエッセイ「冬の祭り」がどうしても読みたくなった。先生ご自身のこと、ここに移り住んだときの様子、農業小学校の様子、地元の人々の生活観価値観が書かれている。横浜の図書館から取り寄せてもらった。〈藤野にはこの本がなかった〉
読んでみると、厳しい自然、田舎の狭い社会ゆえに存在する細かい習慣、先生のご家族がここに移り住んでこられてから、どんなにか苦労されただろう・・・そう思わずにはいられなかった。けれど、不思議に作品の中からは菅井に住むことが少しも「苦」として伝わってこなかった。
文化風習の違いに適応することにストレスがなかったとは思えないが、それ以上に菅井に住むことや、農業小学校を開校することに先生ご自身の喜びや、楽しさ、躍動感に爽快感がまず伝わってきた。
解釈は人それぞれだけれど、私はそう感じた。本当はそう思いたい自分がそこにいたのだろうと思う。
藤野にすむことの素晴らしさ、自然のスケールの大きさを教えてもらったのだと思う。
どうして今西先生の作品は心の奥にタイミングよく染み渡るのだろう・・・そう思えてならない。

文楽の人形遣いの友人が大阪から好んで藤野に移り住み、その友人の誘いにのって芝居を観にやってきて、その芝居を手伝っていた菅井小学校が母校である人と結婚することになって、あっさり仕事も手離して、生まれ育った街を後にした。
なにか強い「えにし」と不思議な「磁力」なくしてはためらいもなく藤野ヘ来られなかっただろうと思う。あつかましいことだけれど、その磁力の一部は今西先生であると私は勝手に思っている。

今西先生の住んでいる町、今西先生の住んでいる菅井小校区(フスマダ)に住むということは確かに山の中で不便である。だが、言い換えればただそれだけのことだ。それ以上のものがここにはあると感じている。
今西先生が愛したこの町、住んでいる町・・・それが私の支えとなり何よりの自慢であり誇りである。堂々と胸を張って霜柱の立つ冬の空の下も、虫のいっぱい出る夏の日もにこやかにおおらかに暮らしたいと思う。
そして「すみれ島」と出会ったことに感謝しながら、これからも「絵本を読むおかあさん」の看板を上げつづけて行きたいと思う。
今西先生、ありがとうございました。


追記
この文章を書いている最中、今西先生の訃報を聞いた。
直接お話したことはただ一回。結婚式の友人へのプレゼントとして贈った「農業小学校のうた」にサインをして頂いたお礼に伺ったときのことだった。先生はステテコ姿で突然の訪問にあわてておられたのを覚えている。
もっともっといてほしかった・・・そう思わずにはいられない。けれど亡くなられた今も私たちには先生の残して下さった数々の作品を通していつでも先生にお会いすることができるはずだ。そう思うことにしている。
今西先生、長い間お疲れ様でした。そしてほんとうにありがとうございました。 


コメント(3)

はじめまして。先ほどコミュニティに参加させてもらいました。「すみれ島」は私には忘れられない絵本の1つです。その事を語りたくて参加しました。

私は小学校の教師をしています。お恥ずかしい話、「一つの花」のお話は知っていても今西祐行先生のことは余りよく知らないそんな程度でした。そんな中、同僚に「授業ですみれ島をしよう」と持ちかけられました。それが私と「すみれ島」との出会いです。

初めて読んで、途中から涙が溢れてきて止まらなくなりました。美しい絵と胸をえぐられるような話の内容のギャップ…。授業をするまで何度読んでも、その度に涙が出て来ました。職員室で泣いて、笑われる程でした。

授業をした時も「ダメだexclamation ×2」と思いながら子どもたちの前で、涙を流しながら読みました。何故そこまで泣けるのか、自分でもわかりません。

ただ、少しさめていた子どもたち、やんちゃしていた子どもたちがこの授業では真剣に話を聴いてくれていたことを覚えています。そんな力が、この話にはあるんだと思います。

この感動を今西先生に伝えたくって手紙を送ろうと思いながら、日々の忙しさで先延ばししているうちに、今西先生の訃報を知り、とても残念に思っていました。今西先生のことをもっと知りたいと思っています。よろしくお願いします。

すみません、長々と書いてしまいました。


今西先生の名前は、同じ津久井郡に住んでいながら、YUPPIE!さんに聞くまで知らなかったよ。

菅井小のオペレッタはもう20年位前に文福で津久井青年会議所の教育フォーラムに出演してくれた時に見ていますが。

その時まだ小学生だったT先輩のお嬢さんも、今では結婚されて子供も居ると聞いています。
写真があったから探して見ますか・・・

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

今西祐行 更新情報

今西祐行のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング