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ヨーロッパ浪漫紀行コミュの【第53話】  母なるエルベ

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ドイツを貫流する二つの大河、「父なるライン」に対し「母なるエルベ」は
45年の長きにわたり母の意志を無視されて、東西ドイツ分断の国境い
にされてきました。
ボクがハンブルグにいた60年代末から70年代初にかけて、何度となく
出張者を案内してエルベ沿いにドライブしたものですが、ところどころに
火の見やぐらのようなような木造の建築物があり、その高楼に登って対岸
にハンカチを振る人々(高齢の女性が多かった)の姿を見ました。

そのころ「ベルリンの壁」が崩壊し、ソ連も潰れて、東西冷戦が終結する
日が訪れるなんて考えられなかった。
東側の友人や親戚に、西側の人々はハンカチを振る自由があったけど、
対岸の人々はそれに呼応する自由が無かった。国境警備兵の監視の
眼が怖かったのです。
高楼の傍には立て札がありました。「この向こう側もまたドイツです」と書か
れていました。

当時西ドイツのTVで見る天気予報では、東ドイツは元より、戦後の線
引きでポーランド領にされた旧ドイツ領までの予報がされており、ドイツ人
の旧領回復への想いの一端を見た感じがしました。
日本では、北方領土や竹島、尖閣列島の天気予報はおろか、地図に
はっきりと赤で表示がなされているんだろうか。

東西ドイツの統一がなって、双方の旧国鉄も統合し、ハンブルグからドレ
スデンに列車で行けるようになり、96年8月にそれに乗りました。列車の
終点はウイーンだったが、この時点ではまだチェコをビザ無しでは通過が
認められなかった。

旧東欧諸国の中で、最も民主化に力を注いでいたのがチェコスロバキヤ
でした。ドプチェクというすぐれたリーダーの下に、人々は民主国家再現を
信じて頑張っていた。そんな時、68年5月ソ連戦車隊が侵入してきた。
「プラハの春」は潰されました。物凄いパージ(公職追放)が行われ、大学
教授がガソリンスタンドで働かされたり、政府高官がタクシー運転手にされ
たりでした。
外国貿易省に行っても、そこは下克上の世界で、元の下っ端が高官の
席に座っていて話が通じない。プラハは暗〜い町でした。

今のプラハを見に行きたいと思います。予定通りに行けたら8月4〜6日
に、いまや京都の2倍近い観光客が訪れる、おそらくは明る〜いであろう
プラハを見ることになります。

                            パパゲーノ

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