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スピリチュアル ジョン平野コミュのスピリチュアルの成長

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私たちがどれだけのクラスを取り、どれだけの本を読んだのか?を考えると驚く物があります。

私は読書家なので、いつも沢山の本を読みます。

私たちが情報やスピリチュアルサポートを、見つける事が出来る資源や場所がある事は

とても幸運な事です。みんなが、その選択肢を持っているわけではないのです。

事実、沢山の方が何処から見始めたらいいのかわからないです。

特に、彼らが自分自身を“宗教家”とみなさない限り。たとえ、彼らが宗教家だとしても、

多くの人たちが毎週のサーヴィスの中で彼らが求めているすべての事を

見つけられているわけではありません。私は、いつも質問をされます。

ダラスの何処に援助してくれる所がありますか?

 オマハでは、何処に行ったら良いですか?などなど。

人々は成長したいと思っていますが、時として彼らは彼らの信じる物の為にリンチを受けたり、

非難されたり、嘲笑されたりしない安全な場所が何処であるのかがわかりません。

調査結果によると、1400人のアメリカにいる成人で過去6ヶ月宗教的サーヴィスに

参加していない人の72パーセントは、神様、もしくは最高者が実際に存在すると信じています。

“ライフ ウェイ リサーチの調査によれば86パーセントの人が教会に所属しなくても、

神様と良い関係を持つ事が出来ると言っている事がわかりました。”

スピリチュアリティーとスピリチュアルの成長は、他の沢山のスピリチュアルの概念と同じ様に、

「スピリチュアルの成長」は誤記です。事実は、スピリットは成長したり縮んだりする物では

ありません。それは、いつもそのままなのです。私たちは成長をしていません。

私たちは認識しているのです。そして、私たちは気づき出しているのです。

話を合わせるのならば、スピリチュアルの成長とはエゴが小さくなって、私たちが意識の

許容の中にいる時に起こるのです。どんなスピリチュアルの成長も小さくなったエゴとの

直接的な関係においてだけ起こるのです。エゴが小さくならない限り、

スピリチュアルの成長はありえません。私は自分が見つけたこれらのたとえが

とても気に入っています。スピリチュアルの成長対エゴの成長のたとえ。

もしも、私たちがほんの少しも報酬や成果を考えないで無欲で良い行いをしたとするのなら、

その結果は、私たちはスピリチュアル的に成長するでしょう。

もし、私たちが何か良い行いをして誇りに思ったり、または単に気分が良くなったりしたのであれば、

それはエゴを強めた事になります。ごまかしのようではあるけれど、理論的でしょ?

同じ行いではあるけれど、思いが変われば全ては変わってきます。

さらに、もし私たちが心を落ち着かせて考える事無く瞑想をしたのであれば、

私たちはもっと多くのスピリットについて知る事になるでしょう。しかし、再度、もし私たちが

正しい瞑想とは違ったやり方で成功した事を誇りに思ったとしたら、私たちは何も成功したとは

言えないのかもしれません。私たちは、私たちのエゴを増長させただけなのです。

私は、性格的にも良く、霊的にも勉強している人が、いつも大変な状況に自分を置いたり、

エゴと心を試すような人たちに感情的に頼ったりするのを見ていると困惑してしまいます。

私たちのスピリチュアルの成長の為に神様に近づこうとした時、どんな態度で臨んだら

一番良いでしょう?

時として、通常の聖書からの引用文に従うと、私たちはまだ神様を畏れる必要性があると聞きます。

しかしながら、このアイディアは背景から取り除かれ、殆どは彼らの思い込みと

一般的な知られざる物への恐怖の為にすでに神様に恐れを抱いている人たちによって

使われています。これについては、聖書的に長ったらしい論争や口論をする必要は無いと

思いますが、最初の戒律では畏れの反対を激賞し、「あなたの全ての心と精神と魂において

神様を愛しなさい。」とはっきりと言われています。

あなたが本当に愛している物を、あなたは本当は畏れてはいず、その必要も無いのです。

さらに、神様は私たちの内においてだけ見つける事が出来るとするならば、

神様と私たち本来の純粋な存在は、水滴が湖の本質と同じ様に、本質の中で関係しているのです。

だとするのならば、神様を畏れる事は自分を恐れることに他ならないのです。畏れるのではなく、

正しい態度としては好奇心の方が良いでしょうー好奇心は、探求者の結果が見つかった時だけ

満たされます。忍耐、持続、無害を含む他の特質とルールや法に従う事は、キリスト教、

ユダヤ教、仏教やその他の聖典の中に記述されています。もっとも大切な態度は、

もちろん興味と好奇心を残す事。なぜならば、私たちの宝物が何であれ、殆ど通常私たちの興味を

引き付ける物だからです。聖書の中のルーク12:34で「あなたの宝のある所は、

あなたの心もある所でしょう。」と、言っています。

私たちの成長、 私たちの神様との関係、私たちの許容、そして私たちの気づきは宝なのです。

本当に沢山の宗教家の人たちが本当に神様を見つける事が出来るのは、

彼らがあの世に帰ってスピリットになって体と感じている事は、とても興味深いですね。

沢山の宗教家の人たちは神様の直接的知識は、記述されているルールや儀式に従ったことによる

報酬として死んだ後にだけ増やす事が出来ると信じています。

ユダヤ教が信じる物、そしてキリスト教の人たちが彼らの記述されたルールを“戒律”と呼びます。

他の宗教のルールも、もしも、同じでは無いとするのであれば、とても似ています。

私たちの成長について言うのであれば、特定の前提や基準を元にしています。

たとえば、戒律や宇宙の法則など。

多分、戒律は単に権威主義者のルール以上の物でしょう。

バガバッド・ギタと聖書の言い回しの少しの違いを比べてみると、私たちは戒律の明確な解釈を

受け取り、最初の戒律に従う事は自己報酬と自己を罰する事の代わりだと言う事に気づきます。

(死んだ後に神様によって課される報酬と罰の仕組みではありません。)

この戒律は、ユダヤ教、キリスト教、モスラム教、ヒンドゥー教、とその他と共有され、

ひとつの文章に要約されているでしょう。「あなたの心と精神と魂の全てにおいて神を愛せよ。」

バガバッド・ギタからの同意義の戒律としては、「私(神・ブラフマン)を究極のゴールとしてみなし、

精神の安定を実行し、あなたの心を常に神と共にあられよ。」神様に意識を向けていてください。

本質的な所では、全ての主要な宗教は同意しています。しかし、本当の意味について

深く知ろうとした時に困惑するのです。

もし、神様が遍在する意識として私たちの魂の中心にいるのであれば、

宗教的儀式やしきたり(帽子をかぶる、頭を剃る、ひげを生やす、ワインを飲む、割礼など)に

惑わされるより、純正の集中による行動を通してこの純正の気づきを発見するより良いチャンスを

私たちが主張する為の理由として存在するのです。

私の最初のルールは、いつにおいてもあなたがする全ての中で常に神様に貢献すると言う事です。

私たちが過去の儀式やシンボルを見た時、宗教において結局は彼らの神様への道のりは

そんなに変わらないのです。最初の戒律は集中力を要求します。

私たちの心、精神、魂の全てによって神様を愛する事は、本当に他の思いにほんの少しの隙間しか残しません。

そして、安定した平静のこれらの瞬間の間だけ、私たちの魂の中心にである

本当の自分自身である神様は現れるのです。

その様な状態にいる時は、私の髪の毛の色は何色?とか、何が食べたい?などの

質問は出て来ません。

私たちが神様を中心とするのならば、私たちの成長はシンプルでそんなにグラマラスでは

無いかもしれませんが、目を覚まさせてくれ、

そして自分の本当の神様を認識する助けとなるでしょう。

神様といる時、あなたがあなたとなり、心を開き、魂を解き放つでしょう。

 エゴはドアの所に置いて来てね。

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