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私の勉強部屋コミュのヨシフ・スターリン について調べる

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3


連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく[9][10]、国際連合安全保障理事会常任理事国となり、米国と並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた[11]。ヤルタ会談とポツダム会議では大戦後の欧州情勢についての協議を行って冷戦を始めて鉄のカーテンを築き、ファシズム打倒後の共産主義と資本主義の対立においては西欧諸国と北大西洋条約機構を結成した米国に対し、非同盟を掲げてスターリンと対立したヨシップ・ブロズ・チトー政権のユーゴスラビアを除く東欧諸国とワルシャワ条約機構が後に設立される。アジア情勢を巡っては国共内戦で中国共産党を支援して中国大陸に中華人民共和国を成立させ、第一次インドシナ戦争ではベトナム民主共和国、朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国を支援して竹のカーテンを築いて東側陣営を拡大していく。

1953年の死没まで国家指導者としての立場は続き、ソ連内の戦後復興でも主導的な役割にあったことはスターリン様式の建設物が今日でも多く残っていることからも理解できる。また科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、核武装や宇宙開発などに予算や費用が投じられており、前者は1949年のRDS-1で成功し、後者ものちに実現している。最後に関わった国家指導は大規模な農業・環境政策たる自然改造計画であった。1953年に寝室で倒れ、病没した。

死後から程なくしてスターリン後の権力闘争が行われたが、その過程でニキータ・フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開され始めた。1956年、ソ連共産党第20回大会でフルシチョフは有名なスターリン批判を行い、一転してスターリンは偉大な国家指導者という評価から、恐るべき独裁者という評価へ変化した。この潮流は、反スターリン主義として各国の左派に影響を及ぼした。

その後もスターリンの評価は変遷を続け、現在でも彼の客観的評価を非常に難しくしている。この流れはソ連の後裔国家の一にあたるロシア連邦においても踏襲され、スターリンを暴君とする意見[12]と、英雄と見なす意見とが混在する状態にある[13]。特にスターリン崇拝が強いのは隣国のベラルーシである。

コメント(16)

スターリン恐怖政治 科学における不正行為 疑似科学ルイセンコ主義 https://youtu.be/yrBQxNE4tyg @YouTubeさんから
100人の20世紀 『スターリン』 https://youtu.be/7f9lVxF5JRo @YouTubeさんから

粛清じゃなくて復讐なんだって。
粛清しすぎてナチスに負けてたらしい。
ソ連の歴史4=スターリンの大粛清 FC2 Video https://youtu.be/i-gmfQdSU8k @YouTubeさんから
囚人と言う地位を使って、奴隷を作ったわけね。
有能なのに処刑されてしまうって一体。

ソビエトの悲劇――トハチェフスキー元帥粛清事件の真相
(ビクトル・アレクサンドロフ著/高橋 正訳 昭和38年刊 抜粋)
http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU3/sobiet.htm

●第二次大戦前夜のソビエトでは、スターリンの猜疑心の犠牲となって、革命の元勲たちが次々と処刑される悲劇的な粛清の嵐が吹きまくった。
 そして一九五三年、スターリンは栄光に包まれながら死んだ。
 ●トハチェフスキー事件とは、スターリンとヒトラーの謀略によって一九三七年、赤軍の至宝、ソ連国防次官兼参謀総長トハチェフスキー元帥をはじめ、多数の将星たちが、祖国背信のかどで処刑された事件である。
 これに端を発して三万人に及ぶ将校が粛清され、その結果、独ソ戦初期のソ連軍大敗北の原因となった。
 ●その規模や影響において、ゾルゲ事件をはるかに凌ぐ今世紀最大の国際的大謀略であり、これは単にソビエトのみならず、全世界の悲劇的な運命につながるものであった。
 ●著者は、この粛清事件の真相解明に、ドレフュス事件(注)のゾラにもまさる情熱をかけ、本書は、その克明な調査に基ずいて書かれた真実の書である。
(注)1871年の普仏戦争に敗けたフランスが経済不況に陥っていた時、フランスの反ユダヤ組織が参謀本部のユダヤ人のドレフェス大尉をドイツのスパイだとでっちあげた事件で、フランス国防省は敗戦の責任逃れのためこれを支持しドレフェスは無期懲役の刑を受けた。
 これを作家エミール・ゾラがドレフェスが無罪であることを証明したので、フランスではドイツのような反ユダヤのナチスが起こらないですんだ。
2014年11月放送 スターリンの亡霊 https://youtu.be/E1gH8_CZSs4 @YouTubeさんから へー。
スターリンを肯定する人が増加 https://jp.rbth.com/society/2016/06/06/600635#.WbJQ5hrxBmQ.twitter 2016年
スターリンの恐怖政治 http://karapaia.com/archives/52100315.html @karapaiaさんから
スターリン
http://wolf.adolf45d.com/gunjisuta2.html
スターリン血の粛正
〜20世紀最大の殺戮者と言われた独裁者の狂気と悪夢
http://fusigi.jp/works/works_8_f.html

ここのHPトップは飢饉と大虐殺を集めてるっぽい。



ペルミ36

第10部「閉塞」4回目「強制収容所とロシア」  負の歴史と向き合わず 全体主義色強まる
ロシア・ペルミ地方ペルミ郊外にある強制収容所博物館「ペルミ36」=6月(共同)

 自国の偉大さを強調したい指導者にとって障害になるのが「負の歴史」だ。過去に向き合わず歴史の総括を避けた社会の民主主義はもろい。旧ソ連の独裁者スターリンの功績を前向きに評価し、報道統制など全体主義色が強まるプーチン大統領のロシアでは、地方首長が率先してスターリン批判につながる強制収容所博物館を抑え込んでいる。(記事は2015年10月22日に配信。肩書などは当時)
ロシアの友好国、ベラルーシの首都ミンスク郊外に新しく建てられたスターリン像=6月(共同)
薄められる弾圧の記憶 大統領路線、首長が率先

 タチアナ・クルシナ(66)の携帯電話は弁護士からの連絡でひっきりなしに鳴った。ロシア西部のペルミ地方ペルミ市。地方当局に「外国の手先」などとして訴追され、ビルの一角の事務所は警察の捜索も受けた。弁護士に「勝ち目はない」と言われた。「スターリン時代の弾圧を味わっているよう」とタチアナは言う。


 当局の標的はタチアナと夫ら地元歴史家が20年前に開いたソ連時代の強制収容所博物館「ペルミ36」。政治弾圧の歴史に焦点を当て、同種の博物館でも国内で唯一、かつての収容所の建築材で建物を復元した。


 設立当初から「歴史と民主主義を学ぶ場所」として長年、地方当局も財政支援し、欧米の人権団体や基金も援助した。だが「強いロシア」を目指すプーチン大統領がスターリン再評価の流れを黙認する中、地方当局の姿勢が急変した。


 ▽公然の秘密


 ソ連の強制収容所は1922〜53年のスターリン時代に全土に造られ、刑事犯のほか「反革命分子」などとされた市民や共産党員、日本人を含む戦時捕虜・抑留者が入れられた。道路やダム建設、石炭や木材の産出など強制労働に従事させられ、経済の重要部分を担った。スターリン死後、規模は縮小したが、80年代末まで反体制活動家らを収容した。2千万人以上が収容所を経験し、処刑や過酷な環境で200万人以上が死亡したとみられている。


 強制収容は公然の秘密だった。その場所さえ秘匿で、元収容者は体験を家族にも語らず、当局は処刑の事実も家族に伝えなかった。「恐怖が支配していた。子供には教えず私も知らなかった」。ペルミ大学で歴史を教えるレオニード・オボーリン(65)は言う。86年、ゴルバチョフ書記長が収容所廃止を命じ、収容者の情報を内務省やソ連国家保安委員会(KGB)が公開した。大半の市民がこの時、初めて実態を知った。


 「スターリンの政治弾圧は20世紀最大の悲劇の一つ。何が、なぜ起きたのかを学者として知らせなければ」。タチアナ夫妻は他の地元歴史家らに声を掛け、多数の政治犯がいたペルミ郊外の「第36収容所」を博物館として再建しようと計画。解体後、放置されていた「36」の建築材を集め、収容所跡に残る土台と元収容者らの記憶を頼りに建物群を再建。94年に博物館として公開した。
スターリンの没後60年の2013年3月5日、墓に花を供え一礼するロシア共産党委員長のジュガーノフ=モスクワの赤の広場(共同)

 毎年のイベントには元収容者や学者、ペルミ地方知事らのほかスターリン支持派も参加し、強制収容に関しさまざまな議論を交わした。2004年には文化遺産などの保存に取り組む「ワールド・モニュメント財団」(ニューヨーク)に登録され、博物館の来訪者は年間3万人を超えた。


 
▽解任恐れ


 風向きが変わったのは12年、プーチンが2度目の大統領に就任するのを機に、バサルギン地域発展相がペルミ地方知事に任命されてからだ。


 知事は「現政権に批判的」などとして博物館への財政支援を停止。大統領がスターリンを「第2次大戦を勝利に導いた指導者」と評価すると、知事はメディアを使い「うその歴史を展示している」などと攻撃を強めた。14年2月、博物館は協議の上、行政側との共同運営となったが、「政治弾圧を焦点にしない」という行政側の主張と衝突した。タチアナらは5月、行政側に博物館代表を一方的に解任された上、事業から締め出された。


 ロシアでは12年、国外からの資金を受ける人権団体などを「外国の手先」として登録し財政報告などを義務付ける法律が成立した。タチアナらは登録拒否をしていたことで「外国から大金を受け取る工作員」などとされ、裁判所に14年7月、計40万ルーブル(約73万円)の罰金支払いを命じられた。「全体主義という病は、社会が監視していないと復活する」とタチアナはため息をつく。


 「知事は大統領の路線を忠実に遂行しようとする。いつ、どのような理由で解任され監獄送りになるか分からないからだ」。野党組織「ロシアの選択」のウラジーミル・ルイシコフ代表は、知事が率先してスターリン批判を封じようとした背景を解説する。行政側は、さまざまな理由を付け、取材に応じなかった。


 運営者が代わった博物館を訪ねてみた。早口で機械的に館内を案内した女性ガイドは、子供たちの肖像について尋ねたときだけ声に感情を込めた。「処刑された子たちです」(敬称略、ペルミ共同=舟越美夏)
鋭い政権批判をネットで展開する政治活動家のベラ・キチャノワさん=6月、モスクワ(共同)
民主化の記憶、未来へ 急旋回社会生きる若者

 ソ連が崩壊した1991年前後に生まれたロシア人は今、20代。民主化推進の空気の中で幼少期を過ごし、全体主義色が強まる社会へ急旋回する時代に成人した世代だ。この世代では社会の激変を忌避し、欧米への脱出者が増えているが、民主化時代の記憶を未来の改革の希望につなげて行動する者もいる。


 モスクワ生まれのベラ・キチャノワ(24)は政治活動家。政府の統制下にあるテレビや新聞にはない鋭い政権批判をネットで展開し、ツイッターは3万7千人以上がフォローする。逮捕歴6回だが、地方で自由と個人の権利についての「啓発運動」にも精力的だ。


 9歳の時、政府に弾圧される民間テレビNTVを支持するデモに父と参加したのが初の政治体験。高校からツイッターやブログで政治問題を取り上げて注目され、大学時代の2012年、モスクワの地区議会議員に当選した。


 だが、14年からの隣国ウクライナとの紛争で社会の空気が急変。「戦争を支持しない者は愛国者ではない」というテレビが流す政府のプロパガンダが急速に浸透し「有権者と言葉が通じにくくなった」。今年6月、議員を辞めた。「今、必要なのは、ネットやメディアの情報のうそと真実を見分ける方法を人々に教えること」という。


 「民主的な改革の達成には時間と準備が必要」と歴史から学んだ。政治発言が制限されないウクライナの首都キエフを拠点に、同年代のロシア人3人と旧ソ連各国の民主化やロシア政治を分析するサイトをこのほど立ち上げた。


 
プーチン大統領批判で服役した女性パンクバンド、プッシー・ライオットのメンバーも同年代の友達だ。「目指すところは同じ。戦争がなく人権を尊重する、自由な言論社会よ」。タブレット端末に休みなく入るメッセージを横目でチェックしながら、そう語った。(敬称略)
インタビューに答えるロマン・ロマノフ国立強制収容所博物館館長(共同)
「鉄の意志」で国立を維持 ロマン・ロマノフ国立強制収容所博物館館長

 ―地方当局に弾圧される強制収容所博物館もあるが、モスクワの博物館は国立を維持している。


 「スターリンに父を粛清され自らも強制収容所に10年以上、入れられた歴史家で前館長の故アントン・アントノフオフセエンコ氏が下院に働きかけ、2001年に設立した。当局との予算協議や頻繁に抗議に来るスターリン支持者らと渡り合うなど困難は多いが、私たちの後ろには2千万人の犠牲者がいる。前館長に『鉄の意志』を持てと教えられた」


 ―独裁者スターリンをどう扱うのか。


 「一人の指導者に罪をかぶせることは簡単だが、歴史は単純ではない。あの体制を一人だけの力で維持できただろうか。市民は沈黙したり他人を告発したりし体制に加担した。訪問者には多数の資料で時代を自分で判断してほしい。これは全人類の悲劇でもある」


 ―負の歴史を認めない風潮がある。




 「国は強制収容を総括していないが、われわれが収集した資料は簡単に否定できない。国民はこの時代を語ることができなかったためにトラウマを抱えたままだ。埋もれていた犠牲者一人一人の名を発表することは、人々の精神の回復につながる」


 ―若い世代の関心は。


 「博物館に来た後、元収容者についての展示会や演劇公演を学校内でした高校生もいる。自分たちも歴史の一部だと理解してもらうのが、われわれの目的でもある。暴力的な手段が『正しい目的のため』と正当化される傾向が世界にあるが、過去のそんな風潮がもたらした結果をここで考えてほしい」


   ×   ×


 ロマン・ロマノフ ロシア教育アカデミー大学卒。心理学者。08年、モスクワの国立強制収容所博物館職員となり、12年から館長。モスクワ出身。33歳。

http://www.47news.jp/smp/47topics/postwar70/where/post_20160210164423.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6

カティンの森事件(カティンのもりじけん、ポーランド語: zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソビエト連邦(ロシア共和国)のグニェズドヴォ(Gnyozdovo)近郊の森で約22,000人[1]のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。

NKVD長官ベリヤが射殺を提案し、ソビエト共産党書記長スターリンと政治局の決定で実行された[2]。

「カティン(カチンとも。Katyń)」は現場近くの地名で、事件とは直接関係ないものの、覚えやすい名前であったためナチス・ドイツが名称に利用した。

カチンの森 KATYN https://youtu.be/v-cO3NM_f9I @YouTubeさんから
カチンの虐殺はナチスのせいにしてたのか。 。1943年4月24日、ソ連はポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求した。ポーランド亡命政府が拒否すると、26日にソ連は亡命政府との断交を通知した。

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