ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

snoopyじゃなきゃ!コミュの2月12日、スヌーピーの生みの親、シュルツさん9回目の命日。

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
いちよう毎年この2月12日(ちょっと時間は早いですが)は、ほぼ同じ日記の内容になりますが、

今日は、皆様方の愛するスヌーピー、そのスヌの生みの親であり、Peanutsの偉大な作者でもあるチャールズ・M・シュルツさんの9回目の大切な命日であります。


1950年10月2日からPeanutsの連載開始。最後の漫画は、デイリー版が2000年1月3日、日曜版が、2月12日、世界中のPeanuts、スヌーピーファンの悲しみに包まれながらシュルツさんのお亡くなりになられた翌日である同年2月13日でした。

シュルツさん自宅で永眠77歳でした。

Merは、一生この日を忘れることはありません。
なぜならこの日はMerの生まれた日だからであります。

なので毎年Merは誕生日を迎える半面、切ない思いの日だからでもあるからです。

でも、自分の誕生日なのに切ない思いはいけませんね。
きっと空の上のシュルツさんも、そんな切なくならず、明るく元気でスヌやその他の愉快な仲間たちのことをよろしくねとささやいてくれていると思います。

50年という長きに渡り、ずっと変わらない制作スタイルを守り続け、誰に頼ることもなく自らの手でひたすら描き続けたシュルツさんのピーナッツへの思いは、世界一だと思います。

そんなシュルツさんの漫画に対する思いは、人生においてもMerは尊敬して、目指していきたいです。

サンタローザの自宅で眠っている間に息を引き取ったみたいですが、Merは、もしかしたらピーナッツの事を思い描きながらだったのではないかと思います。

それが、最後のコミックでタイプライターを打つスヌーピーの姿だったのではないでしょうか。

そして、最後のコミックの「チャーリー・ブラウン、スヌーピー、ライナス、ルーシー...どうしたって忘れられっこないよ」という言葉を読むたびに、心にグッときてMerは何度も涙してしまいます。

そんな心と感動をピーナッツに思い描いてくださったシュルツさんにお疲れ様でしたと感謝したいと思います。

そんなシュルツさんの思いのこもったピーナッツは、永遠に世界中に語り継がれていくと思います。


こうしてMerがいつまでも大のスヌ好きでいられるのも、心温かい大のスヌ好きなコミュの皆様方と楽しく仲良くスヌを語ることができたのも、偉大なる作者チャールズ・M・シュルツさんの50年という長い年月、汗と涙と思いをPeanuts、スヌーピーに捧げ、大変な努力と功績によって世界中にPeanuts、スヌーピーが行き届き、愛されてきたからでもあります。

そんな今は亡き、偉大なPeanutsの作者シュルツさんに心から感謝したいですね。

空の上のシュルツさんは、きっとあの愛くるしい笑顔で、世界中のPeanuts、スヌーピーファン、そして、大のスヌ好きなMerのマイミクの皆様方にもこれからもPeanuts、スヌーピーのことをよろしくね!と微笑んでくれているにちがいありません。

大のスヌ好きな皆様!、そんなスヌの生みの親であり、偉大なPeanutsの作者でもあるチャールズ・M・シュルツさんに、今年も心から感謝の気持ちをお願い致します!。



ちなみに日が明けての今日12日は、Merの所のTOP画、大事なシュルツさんの命日でもありますので、心から感謝をこめて、愛くるしい笑顔のシュルツさんにさせていただきました。




あと、最後になりますが、コミュの方からの大変ありがたい情報で、日が明けての今日2月12日シュルツさんの9回目の命日にあたるこの日、日本テレビ系列「おもいっきりイイテレビ」「きょうは何の日」のコーナーで「スヌーピー」がとりあげられます。

コーナーは12時55分前後から約12分の枠です。

みなさんお忘れのございませんように!。










<チャールズ・M・シュルツ>

1922年11月26日: チャールズ・モンロー・シュルツ、ミネソタ州ミネアポリスでカール&ディナ・シュルツ夫妻の一人息子として誕生

1920年代: セントポールのマトックス・スクールの幼稚園で先生から「チャールズ、いつかあなたはアーティストになるでしょう」と言われる。

1930年代: 少年シュルツ、コミックに興味を持つ。特に、ポパイやウォルト・ディズニーのキャラクターなどに強い関心を持つ。

1934年: スヌーピーのモデルとなった白黒の犬がシュルツ家にもらわれる。その名はスパイクであった。

1937年: シュルツにとって初めて印刷される作品となった愛犬スパイクのスケッチが新聞漫画ロバート・リプリーのBelieve it or notに採用される。

1939年―1940年: 高校の最上級学年在籍中にのちにART INSTRUCTION SCHOOLとして知られる連邦制学校の通信講座で漫画コースを受講する。

1940年: 高校卒業。高校の卒業記念アルバムにシュルツが寄稿したイラストは採用されなかった。

1943年: シュルツ20歳で陸軍に徴兵される。初歩訓練の最中に母を癌で亡くす。シュルツ、機関銃分隊長としてドイツ、フランス、オーストリアに従軍。のちに回想し、「孤独についてのすべてを軍隊で知った」と語っている。

1945年: シュルツ復員、セントポールに戻る。

1947年: セントポール・パイオニア・プレスで掲載されたパネルコミック "LIL'L FOLKS" (リル・フォークス)でシュルツの漫画家としてのキャリアがスタートする。

1948年―1950年: シュルツ、17作品のパネルコミックをサタデー・イヴニング・ポストに売る。

1950年: いくつかの不採用を経て、ユナイテッド・フィーチャー・シンジケートに作品を売る。配信会社はその漫画を「ピーナッツ」と改名。シュルツは生涯そのタイトルを気に入ることがなかった。

1950年10月2日: 「ピーナッツ」が7紙でデビュー。シュルツが最初のひと月に配信会社から支払われた稿料は$90だった。

1951年: シュルツ、ジョイス・ハルヴァーソンと結婚。コロラド州コロラド・スプリングスでわずかの期間暮らしたのちミネアポリスに一家は戻る。

1952年: 「ピーナッツ」のサンデー版スタート。この年掲載数は全米で40紙となる。また、初めての単行本「ピーナッツ」が出版。

1955年 コダックが最初の製品スポンサーとなり、「ピーナッツ」のキャラクターをカメラの取り扱い説明書に登場させる。同年シュルツは、全米漫画協会からリューベンを授与。

1958年: シュルツ、妻と5人の子供たちとともにミネソタからカリフォルニア州セバストポールに移住。「ピーナッツ」の掲載数は全米で355紙、海外で40紙となる。初めてのスヌーピーのプラスチックドールが製造される。

1960年: ホールマーク社がピーナッツのグリーティングカードを製造。フォード社がファルコンの広告キャンペーンにピーナッツのアートとアニメーションを起用。

1962年: "HAPPINESS IS A WARM PUPPY"(幸せはあったかい子犬)が出版。「ピーナッツ」が全米漫画協会からベスト・ユーモア・ストリップに選出される。

1964年: シュルツ、全米漫画協会が主催するリューベン賞史上初の二度目の受賞を果たす。

1965年: 「ピーナッツ」がタイム誌の表紙を飾る。初のアニメーション作品"A CHARLIE BROWN CHRISTMAS" がテレビ放映される。のちにエミー賞およびピーボディー賞を受賞。

1966年: 父カールがカリフォルニアのシュルツ一家を訪問中に死去。セバストポールのスタジオが火事で焼失。

1967年: ミュージカル"YOU'RE A GOODMAN, CHARLIE BROWN"がオフ・ブロードウェーで初演。アメリカでもっとも多く制作上演されたミュージカルとなる。

1967年5月24日: (当時)カリフォルニア州知事ロナルド・レーガンが議会の式典においてシュルツを迎え、「チャールズ・シュルツ・デー」を公布。

1969年: チャーリー・ブラウンとスヌーピーがアポロ10号で宇宙飛行士たちと宇宙へ飛び立つ。シュルツ、カリフォルニア州サンタローザにレッドウッド・エンパイヤ・アイスアリーナを開設。

1972年: シュルツ、ジョイスと離婚。

1973年: シュルツ、ジーニー・フォーサイス・クライドと再婚。シュルツ、テレビのアニメスペシャル"A CHARLIE BROWN THANKSGIVING"でエミー賞を受賞。

1974年:シュルツ、パナデナのローズパレードでグランドマーシャルをつとめる。

1975年: 「ピーナッツ」25周年。掲載数全米でおよそ1480紙、海外で175紙、読者数9000万人になる。テレビのアニメスペシャル"YOU'RE A GOOD SPORT, CHARLIE BROWN"がエミー賞を受賞。

1978年: モントリオールにあるInternational Pavilion of Humorがシュルツをその年最高の漫画家に選出。

1979年: シュルツとリー・メンデルソン共著の"HAPPY BIRTHDAY, CHARLIE BROWN゛が出版。

1980年: シュルツとR. スミス・キリパー共著の"CHARLIE BROWN, SNOOPY AND ME"が出版。テレビアニメスペシャル"LIFE IS A CIRCUS, CHARLIE BROWN "がエミー賞を受賞。

1983年: テレビアニメスペシャル"WHAT HAVE WE LEARNED, CHARLIE BROWN"がピーボディを賞受賞。カリフォルニアのナッツベリー・ファームにキャンプ・スヌーピー開設。

1984年: 「ピーナッツ」の掲載紙数が2000紙に到達しギネスブックの世界記録に認定。

1985年: "YOU DON'T LOOK 35, CHARLIE BROWN" が出版。カリフォルニアのオークランド・ミュージアムで35周年記念展示会"THE GRAPHIC ART OF CHARLES SCHULZ"が開幕。

1986年: カートゥーン・アート・ミュージアムによってシュルツが漫画家の殿堂入りを果たす。

1989年: リタ・グリムリィ・ジョンスン著 "GOOD GRIEF"(グッド・グリーフ)がシュルツの協力のもと出版される。

1990年: フランス政府がシュルツに芸術勲章を授与。゛SNOOPY IN FASHION"がルーブル美術館で開催。ワシントンD.C.にあるスミソニアン国立歴史博物館が「THIS IS YOUR CHILDHOOD, CHARLIE BROWN展」を開催。

1992年:モントリオール ミュージアム オブ ファインアートで「SNOOPY, The Masterpiece展」開催。シュルツ、イタリアの文化大臣より表彰。

1995年: 「ピーナッツ」45周年を記念してフロリダ州のスペースセンター・ヒューストンで「AROUND THE MOON AND HOME AGAIN: A TRIBUTE TO THE ART OF CHARLES M. SCHULZ展」が開催。

1996年6月28日: ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムにシュルツの星が登場する。

1997年10月16日: シュルツと妻ジーニーは、ヴァージニア州のD-DAYメモリアルの建設に$100万を寄付することを発表。カーネギーホールでエレン・テーフ・ズウィリック作曲による「ピーナッツ・ギャラリー」が世界初演。

1999年: シュルツ著「PEANUTS: A GOLDEN CELEBRATION」が出版。"YOU'RE A GOODMAN, CHARLIE BROWN"(きみはいい人、チャーリー・ブラウン)がブロードウェー作品として新たに制作上演される。この年、「ピーナッツ」の掲載紙数が全世界で2600紙におよび、また、「ピーナッツ」の関連商品が20,000点以上になる


1999年12月14日: 健康上の理由からシュルツが引退を発表

2000年1月3日: 最後のデイリー版コミックが世界中の新聞で掲載。

2000年2月7日: カリフォルニア州議会が2月13日をチャールズ・シュルツ・デーと制定。

2000年2月12日: シュルツ自宅で永眠

2000年2月13日: 最後の日曜版コミックが全世界の新聞に掲載

2001年5月17日: 米国郵政公社発行の「ピーナッツ」記念切手発行がカリフォルニア州サンタローザにあるレッドウッド・エンパイヤ・アイスアリーナで行われる。

2002年8月17日:Charles M. Schulz Museum and Research Centerがサンタローザで開館。

シュルツ没後受賞歴
2000年5月: 米国漫画協会がミルトン・キャニフ、ライフタイム、アチーブメント・アワードを授与

2001年6月7日: 米国がシュルツの功績をたたえ、民間人として催行の栄誉である「議会金章」(コングレッショナル・ゴールドメダル)を授与。
(チャールズ・M・シュルツ ミュージアム参照)

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

snoopyじゃなきゃ! 更新情報

snoopyじゃなきゃ!のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング