ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

みんなにやさしい自作小説コミュの小説「雨の行きつく場所」 第五章 −小夜−前編−

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「あなたはなぜ絵を描くの?なんのために?」
 天気が悪い。昨日からずっと曇り空だった空は今にも泣き出しそうだ。
 君の輪郭がはっきりと見えない。君の怒りと悲しみだけが、あざやかな痣のように浮かび上がる。
君は、僕をまっすぐ見ずに横を向いている。窓際のカーテンがぬるい風にゆれ、君のほほをなでる。

 彼女が僕の顔を見ずに横を向いてしゃべる時は、僕とのことで怒ったり傷ついたりしている時。

(さよ…。なあ、小夜…。)
 僕は彼女の側に近づき、その細い肩にふれようとする。しかし、僕の手にはしっかりと絵筆が握られている。べっとりとついた絵の具。手のひらを広げても絵筆が手から落ちない。ぬぐっても絵の具がとれない。

 これでは彼女を抱きしめることができない。

「あなたは絵筆を捨てないのね。」
 そのままの姿勢で彼女はそう言う。
「あなたは、私を決して選ばない。」

(待って、小夜、違うんだ。話しを聞いてくれ。)
 …声が出ない。

「私はあなたにとって絵以上の価値がないのは、知っていたわ。」
(違う。そんなことはないんだ。)

 たえかねたように、雨が降り出す。それは彼女の涙だった。

(小夜、窓を閉めて。雨が…。)

 雨はからみつく絹の糸のように、窓から部屋の中に降り込む。しかし小夜はそんなことは気にもとめない。雨はどんどん強くなり彼女の顔にかかる。黒く美しく腰に届くほどの長い髪を濡らしていく。エリのついた品のいい白いシャツが濡れ、グレーのタイトスカートが濡れる。仕立ての良い上等な黒いパンプスが濡れる。

 いつの間にか雨が部屋の中にも降っている。
 そして、濡れた場所から徐々に徐々に消えていく。

(待ってくれ、小夜。違うんだ。僕が絵を描くのは、僕が絵を描くのは…!!)
 僕の声は声にならず、手から絵筆が離れず、雨は降りやまず、世界で一番大切な存在をつなぎとめるすべが何もないその時、

 彼女もろとも部屋が消えた。

 僕は青い空にぽっかりと浮かんでいる。
 そこに、彩が現れる。
「先生?」
「彩ちゃん…。」
「先生は、恋をしているんですか?」
しっかりとこちらを見る健やかな瞳、まっすぐな魂で聞いてくる。心の中の微妙な変化を見わたし、僕の答えを真剣に待っている。


 大友公彦は、ひどい汗をかいて目を覚ました。そこは自分一人が住まう家の寝室で、ベッドと小さな椅子と机、そして本棚がある。
 銀色の古い目覚まし時計は、朝の五時を示している。

「…ああ。」
 起き上がり、両手で顔を覆う。夢だったんだ。見なくても自然と机の上のクリーム色の封筒の中身のことを意識する。心の目が、びんせんの細かな字や添えられた写真をなぞる。
 そこに在る、彼女ー野維小夜−の確かな生活の幸福と向けられた愛の言葉の数々。大学で出会って気の遠くなるような時間が経っても、僕が絵を描く道を選んだことを責めても、君は僕をそれでも許して手紙を送り続けてくれる。僕は絵で食べていけるようになるまで、小夜を求めてはいけないと思った。あまりにも不確かな僕の人生に、彼女を巻き込みたくなかった。幸福でいてほしかった。いつも、いつも満たされ安心した場所にいてほしかった。それを叶えるために出した答え。
なのに、彼女は無言で雨を降らし続ける。びんせんに言葉の雨をしたためて、かすれた声で叫んでいる。

これだけ時間が経った今でもなお、僕は安定した場所に立てず、小夜を求める資格がないというのに。


 二回目のモデルを彩に頼んだ。絵を描く作業が終わったあと、彼女は約束の絵を僕に見せてくれた。路上で見た時と同じ感想だ。筋がいい。多少仕事としてやっていくには性格的に甘いところはあるが、それは彼女の性格から言ってきちんと指摘すれば努力でカバーするだろう。
 絵にかける情熱、技術、才能、そして夢を形にする、それに必要な人脈を引き寄せる天性のキャラクターと吸引力。すべてを、備えている。僕は久しぶりに興奮した。深い坑道を彷徨っていたところに、きらきらと輝く原石を見つけた喜びでいっぱいだった。彼女を育ててみたい。その先の世界を見てみたい。そう思わずにはいられない。
「先生?」
彩が不安そうに聞いてくる。僕はふと現実に戻り、彼女の顔を見た。ばら色のほほ。 
「いいと思います。」
「本当ですか?」
「もちろん。」
 その姿は先日会った時よりもさらにエネルギーにあふれていた。風が吹いたら壊れてしまうはかないものとは違う、自らが太陽となり光を発する力強い美しさ。
「どうしでだろう。先日よりもずっとずっと幸せそうです。」
 僕は正直にたずねる。彼女の口からこぼれた言葉に僕は驚いた。
「彼に、プロポーズされたんです。」
「…ほう。」

 脳裏に窓から僕を見下ろす小夜の姿がよぎった。大きな屋敷の裕福な美しい一人娘。対象的な貧しい小さな僕の洗いざらした服。

「それはおめでとう。どうりできれいなわけですね。」
かろうじて、現実にとどまる。
「ありがとうございます。」
 彩は顔を真っ赤にしながら笑っている。
「絵を続けることに、彼はなんて?」
「これをくれました。」
 彼女は絵筆を差し出す。学生が買うにはかなり勇気のいる金額のものだ。尚、という青年の意志の強さがとても率直に表れている。この子を決して離すつもりはないのだろう。

「彼は、私と生きるためなら自分を犠牲にしても私を選ぶと言ってくれました。絵を描き続ける私と一緒になることは、ばくちです。そのことの是非さえ責任を取ると、言いました。そこで、私も覚悟ができました。」
「覚悟?」
「先生はなぜ絵を描くのかと仰いました。それについて、私は本当にわからなかった。けれど、尚の存在が答えを出すきっかけになりました。

絵は私が私であるたった一つの居場所だったんです。そこでは、のびのびと息をして感情のすべてを表現することができた。そして、そうやって率直にいても絵である限り人を傷つけないと。正直であることは、時々人を傷つけるから…。


 強いまなざしを向けて私に向かってしゃべる彼女の姿はとても小さいのに、大きく見える。
「でも、一人では限界があることに気付かないではいられませんでした。

 どんなに自分の力を注いで理想郷を作り上げても、私は一人では生きていかれない。絵は、私を世界の片すみにかりそめの居場所をくれたけれど…人の…尚の存在に代わるものではないです。」


≪現実というあまり寛容ではない長く厳しい道のりを行くための、互いの杖となり光となれ。

 恩師が、かつてそう言って僕らを祝福してくれた。小さな壇上で、にこやかに。
 僕らは並んでそれを聞いていた。ささやかな結婚式の代わりだった。小夜は白いワンピースを着ていた。ベールは手芸店ではぎれをさがして自分で作った。つつましく美しい花嫁。僕はアイロンをかけた黒いズボンとエリつきのシャツを着た。ネクタイをしめようとすると、小夜がそれを制して水色のうすいたっぷりしたスカーフをネクタイにみたててまいてくれた。それはとても品のいいスカーフで、彼女の亡き祖母の形見だと言う。≫


「私は絵をずっと描いていきます。矛盾しているようですが、同時にいつ手放してもいいという覚悟ができました。彼と生きるために、もし絵が邪魔になるのであれば、その時はいつでも。」


≪お互いの命をお互いの魂に預ける存在はあなたの隣人であると誓いますか?

『はい。』

二つの幸福な返事が鐘の音の代わりになった。愛と幸福の鐘の、音。≫


 それが、君にとっての尚君なんだね。僕にとって小夜がそうだったように。
「絵と彼の存在のことは先生に問われるまで、わからなかった。漠然と彼も絵も好きだって。でも…」
 彼女はおそらく彼女の人生の中でも一番難しい問いに答えを出した。自分でもそうと知らないうちに、はたと気付いてしまったのだろう。
 人が鏡を見て、ある日突然老いを知るそれのように。

 のどかな道を歩いていた時に、ふいに残酷な事実を知らされる。残酷で安らかな選択を迫られるそれのように。

 自分の中にある才能や意志ではなく、もろくあやうい人の心の中に自分の未来を託したのだ。
 愛、という感情一つで彼女はいつでも自分を投げ出すことができると言う。
「君は…自分よりも彼が…尚君が好きなんだね。」
 彩は一瞬静止した。まばたきすら、しない。僕は思わず心のうちを彼女に語ってしまったのだ。言葉の奥の本当に小さな響きから、彼女は僕の心の声を聞き取った。なんということだろうか。

「まだ、僕の恋の話しをしていませんでしたね。」
 もう、かなわない。僕と、僕にとって世界で一番大切な人の話し。そう、君が言うように一人では限界がある。僕は僕の抱えた沈黙を君に託していいのだろうか。心の中に重く沈んでいるそれを話す時、小夜に降り続く雨がやむのだろうか。
みっともなく小さな男のつまらない話しだ。

これから幸せを築いていこうとする君に果たして見せていいのだろうか。こんな悲しい愚かな恋のなれのはてを?

しかし、彼女は請う。真剣に。

「先生。」

「教えてください。」


 僕は彼女の本質をその時知った。彼女は心優しい善良なる女性でありながら、ただの善意で僕の話しを聞きたいわけではない。


 ああ、そうか。僕の沈黙さえ
 君は糧にしようとしているんだ。

 なんて貪欲な魂だろう。

 どんな場所からでも学びたいんだね。
 どこまでも、すべての魂の色という色、感情という感情を、知りたいんだね。

 もったいないよ。こんなに描くことの本質を備えているのに。

 いつのまにか微苦笑を浮かべていたようだ。僕はゆっくりと口を開いた。



 僕の沈黙を手放すことは君にとっての糧になり、

 君にこの沈黙を託すことが僕の救いになるのなら。



第六章ー小夜ー後編に続く

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

みんなにやさしい自作小説 更新情報

みんなにやさしい自作小説のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング