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戦国時代ゆかりのお城や古戦場コミュの石田堤史跡公園(忍城水攻め)

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「前田利家にゆかりのあるお寺が鴻巣にある。」との情報を聞き、小田原征伐に関連するお寺かもしれないと思い、とりあえず行ってみることにした。
お寺の説明板を読んでみると、前田家が参勤交代の際に利用したお寺であり、前田利家にゆかりがあるというわけではないようである。
ここまで来て、無駄足にしたくなく、石田堤史跡公園へ転進することにした。

コメント(8)

石田堤といえば「忍城の水攻め」で石田三成が築いた堤防であることは誰もが御存知であると思う。
関連史跡としては、忍城、丸墓山古墳などがあるが、どちらの史跡も公園から視認することはできない。
石田三成と言えば、頭は良いが戦が下手で、恩情的より機械的で、忍城の水攻めは戦功をあせったため失敗したというイメージが一般的と思われるが、近年、石田三成に関する評価はかわりつつあるような気がする。
私の個人的な石田三成像は、確かに喧嘩は弱いかもしれないが、有能な戦国武将の一人といった印象であり、上杉謙信、真田昌幸、真田幸村等の好きな武将には入らないが、有能な武将という認識はあり、石田三成が、なぜ忍城攻めの際に水攻めを選択したのかと不思議に思ってしまう。
石田三成が忍城の水攻めをなぜ行ったのか考えてみたい。

写真は新幹線高架橋下にある説明板等
この頃の時代背景は、秀吉の当面の攻撃目標であった島津氏が降伏したことにより、次の目標が関東に絞られ、再三上洛し臣下の礼をとるよう申し送っても北条氏の態度が変わることは無かった。
 北条氏家臣が、真田氏の名胡桃城を奪うという紛争が発生し、秀吉は小田原征伐を決断する。
 四月二日、秀吉は箱根湯本に到着、その後、小田原城の包囲を開始するが、北条氏は惣構えによる城の防御を強力にしており、
22万といわれる秀吉軍でも容易に落とすことはできず、惣構え内に侵入できなかった。
 惣構えとは、土塁や堀で城下をすべて囲い込む防御と私は思っている。
小田原城を包囲してから小田原城開城までの流れを確認してみると、
4月 2日 秀吉、箱根湯元到着
      その後、小田原城包囲開始、惣構えを越えることできず、
      長期戦を覚悟、石垣山一夜城の築城を決意

4月15日 伊達政宗が黒川城を出発し、小田原参陣の動きを見せるが、
      南会津大内まで行き引き返す。
      (日光街道を通過し、参陣しようとしていたと思われる。)

4月20日 松井田城落城(前田・上杉等連合軍、以下北陸連合軍と呼ぶ)

4月20日 浅野長政らが、4月20日付の書状で伊達政宗に対し、
      小田原参陣を催促

5月 9日 伊達政宗が黒川城出発
      (日光街道ルートを選択せず、越後、信州を通過するかなりの
       遠回りをして、小田原へ参陣。出発後も秀吉への従属を迷って
       いたものと思われる。)

5月22日 岩付城落城(浅野長政)

5月27日 館林城攻城開始(石田三成)

5月30日 館林城開城(石田三成)

6月 4日 忍城攻城開始(石田三成)

6月 5日 伊達政宗小田原到着

6月11日 忍城水攻め開始(石田三成)

6月14日 鉢形城落城(北陸連合軍)

6月23日 八王子城落城(北陸連合軍)

7月11日 小田原城開城
      (北条氏政、氏照切腹、氏直は高野山へ)
 4月2日、豊臣秀吉が小田原を包囲して、石垣山一夜城の築城をはじめているが、一夜城はパフォーマンス用のお城だったのであろうか?
 一夜城を実際に見てみると、立派な石垣がとても印象に残り、築城時に秀吉が恐れていたことは、北条氏加勢のため、伊達氏が蜂起することだったのではないだろうか?と思ってしまう。
 伊達氏の蜂起により、徳川氏も裏切り、その他反豊臣になる大名も出てくるかもしれない。
 伊達と徳川を警戒しているのは、小田原征伐中に、秀吉と家康が立ち小便をしている時に、秀吉が家康に対し、大阪からの遠国である関東への国替えを示唆しており、政宗に対しては、戦後、蒲生氏郷を会津に配置したことでわかる。
 石垣山一夜城は、小田原城が直ぐに落ちない堅城であることだけではなく、伊達・北条・徳川連合軍を想定し、長期戦を見越した最前線の拠点として築城を開始したのではないだろうか。
 そうだとしたら、あの立派な石垣は納得いくのである。
 伊達氏が小田原に参陣するのか?しないのか?
6月5日に伊達政宗が小田原に到着する前後の出来事を検証してみると、小田原征伐の違った見方ができる。
石田三成は5月27日、館林城攻城開始、5月30日、館林城開城、石田三成の兵力は約2万3千、なぜこの時期に大軍で北関東を攻めるのか?
館林から更に進軍すれば日光街道に出ることができ、豊臣秀吉は館林方向へ三成軍をすすめることで「いつでも会津を攻めるぞ」と伊達政宗にサインを送ることで、越後、信濃を通過しつつ参陣を迷う伊達政宗に、脅迫的な参陣催促をしていたのではないだろうか?
5月27日館林攻城の数日前の段階で、伊達政宗から秀吉に対して、明確に従属し臣下になる意思表示があったため、三成軍は会津攻め偽装軍から支城攻略軍へ変化し、館林城攻城軍になったのではないだろうか?
6月4日、石田三成軍が忍城攻城を開始するが、忍城方の結束は固く、石田三成は思わぬ苦戦をする。
同じ頃、6月5日、伊達政宗が小田原に到着し、伊達政宗の援軍を北条氏は得ることができなかった。
「木村宇右門覚書書」によれば、伊達政宗が6月9日に続いて10日に、秀吉のもとへ伺候した時、前日には無かった石垣山一夜城の白壁が完成しており、政宗は白紙を張った白壁と見破り、秀吉や諸大名を感心させたと書かれており、他の文献等にも同じような記述があるらしい。
1日でできないことを、白紙を使って行うということは、伊達政宗の到着により、石垣山一夜城はパフォーマンス用のお城としての準備が急がれていたのではないであろうか?
石垣山一夜城の築城を、立派な石垣を作るといった方針から、張りぼてでもいいから城としての姿を完成させることを急ぐようになったのは、伊達政宗の従属がはっきりし、北条軍の攻略のみに目標を絞ることができるようになったため、防御重視の城から、力攻めすることができない堅城小田原城に篭城する北条軍の士気を低下させるための城へ方針転換したのではないだろうか?
そして、石田三成は石垣山一夜城のパフォーマンスを近々実行することを知っていたのではないだろうか?
そんな秀吉の戦略の変化を知ったうえで、忍城水攻めを進言した、或いは、会津攻め偽装の目的を失った三成軍に秀吉は、新たな目法である水攻め可能なお城を報告するよう指示していたのではないだろうか?
いずれにしても、石田三成は、「個人のいくさ上手」の評価をあげるため、水攻めを行ったのではなく、秀吉の戦術戦略に従ったのみであると私は思う。

写真は決壊したと言われる「堀切」
そう考えると、公園内に表示されている秀吉と三成等とやり取りした書状を納得して確認できる。

六月十二日
秀吉から三成への書状
秀吉が三成へ水攻めに関する詳細な指示を出していることがわかる。解説によると「秀吉は三成が忍城を水攻めにするとの意を受け・・・」「三成が忍城攻めの総責任者から外されるという不安を抱いている」とある。
「戦で大きな手柄を立てたい三成が、秀吉の真似をして水攻めを選択した。」という説を裏付ける資料と思われますが、「秀吉の戦略を知ったうえで、外されるかもしれないことを申し訳なく思っている」と解釈するなら納得できる。

六月二十日
「真田、浅野とよく相談するように」「普請ができたら使者を派遣する」といった内容であり、三成の単独水攻め説ではないと裏付ける資料の一つである。

七月 三日
 戦功をあげた浅野氏に対し、「水攻めなのだから、水攻めに徹するように」指示している書状であり、秀吉が水攻めを指示した裏付け資料の一つである。

 六月二十日、七月三日は、既に堤防が決壊しており、それでも水攻めの継続を指示する秀吉の意図は、秀吉の「力の誇示」を見せ付けることと思われる。
 失敗したのは三成であり、これだけの大事業を行える経済力等を秀吉が持っていることを示せれば秀吉は成功なのである。

 以上のことから、伊達政宗の脅威が無くなったことにより、三成軍は会津攻め偽装軍からパフォーマンス実行軍へ変化し、その時点で、残り少ない落城していないお城である忍城を選択し、秀吉と三成の共同作業によって「忍城水攻め」という形で、小田原城の士気低下のため、秀吉の軍事力、経済力を見せ付けるためパフォーマンスをやったのではないか思う。

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