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城下町コミュの臼井

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 院政期に現千葉県佐倉市西部で成立した臼井荘の荘官居館が原型の平山城です。
 臼井荘は領主不明ですが、下総権介千葉常重の弟常康が荘官を務めて臼井氏を称しており、臼井常康は甥の下総権介千葉常胤を援けて頼朝の挙兵に参加し、御家人の地位を得ました。
 ところが、宝治元(1247)年に宝治合戦が勃発すると、臼井氏は三浦泰村に加担する者と北条方に与する者に分裂して衰退してしまいました。
 その結果、臼井荘の西方は千葉一族の武石氏や千田氏の所領となってしまいますが、臼井氏も臼井荘東半は確保し、鎌倉末期にも臼井城を本拠とする臼井祐胤が所領維持に成功しています。祐胤の死後、その弟である志津胤氏が祐胤嫡男の竹若丸から地頭の地位を簒奪したのみならず竹若丸暗殺を謀ります。この事を察知した臼井家重臣の岩戸城主岩戸胤安は、修験者に身を変え、その笈のなかに竹若丸を隠して臼井城を脱出、自らの居城岩戸城に匿いました。しかし、岩戸城は臼井城に近く、竹若丸を匿ったことが発覚する事を恐れ、鎌倉建長寺の仏国禅師に竹若丸の身を預けたのです。この岩戸胤安の行動を知った志津胤氏は、胤安の拠る岩戸城を攻めて岩戸氏を滅ぼしています。建長寺は竹若丸の本領安堵を幕府に訴え出ましたが却下されてしまいました。
 その後、成長した竹若丸は興胤と名乗り、元弘3(1333)年の新田義貞による鎌倉攻めに参加しましたが、建武政権は志津胤氏の本領を安堵しています。しかし、暦応元(1338)年に興胤は足利尊氏幕下に参じ、臼井家当主と認められて臼井城を安堵されたため、胤氏は臼井城を引き渡しました。興胤は暦応3(1340)年に胤氏の居城志津城を攻略して胤氏一族を撃滅しています。
 戦国時代に於ける下総守護千葉氏の内紛に際し、武蔵国江戸城主太田道灌の支援を受けた千葉自胤が千葉孝胤追討戦を開始します。文明10(1478)年12月の境根原合戦で大敗した孝胤は、本拠地の長崎城も維持出来なくなって、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤の拠る臼井城に籠城、道灌の甥太田資忠を討ち取る奮戦をしましたが、文明11(1479)年7月15日に臼井城は落城、下総・上総の大半は自胤に制圧される事となりました。
 ところが、臼井城を脱出した孝胤は印東庄の篠塚城へ逃れて徹底抗戦を継続、文明16(1484)年頃には新たな拠点として篠塚城東北に本佐倉(モトサクラ)城を築いています。
 下総・上総の将士には孝胤を支持する動きが根強かったため、武蔵国を本拠としていた千葉自胤は上総・下総に代官を置いたのみで長期的支配を確立する事が出来ず、文明18(1486)年に太田道灌が暗殺されると、後ろ盾を失った自胤は上総・下総から撤退を余儀無くされて孝胤の下総千葉領支配が確立しました。臼井城も孝胤配下の臼井氏が奪回する事になりました。
 その後、古河公方政氏の次男足利義明が小弓公方を自称して、兄の古河公方足利高基に対抗した際には、千葉勝胤は古河公方を支持しますが、臼井城主の臼井景胤は小弓公方を支持して主家に楯突きます。しかし、天文7(1538)年の第一次国府台(コウノダイ)合戦で足利義明が小田原の北条氏綱に敗れて戦死したため、臼井氏は千葉氏の下に帰参しました。
 臼井景胤は生実(オユミ)城主原胤貞(胤房の曽孫)の娘を妻として嫡男久胤を得ますが、弘治3(1557)年の景胤の死によって家督を継いだ14歳の久胤は外祖父原胤貞によって幽閉され、臼井城は事実上胤貞によって支配される事となりました。
 その様な状況下の永禄4(1561)年、上杉謙信の小田原攻めに呼応した安房の里見義堯(サトミヨシタカ)麾下の上総国大多喜(オオタキ)城主正木信茂が臼井城を攻めると、混乱に乗じた臼井久胤は母と共に結城城の結城晴朝を頼って脱出、臼井城は落城します。しかし、原胤貞がすぐに城を奪回して支配下に置き、臼井氏の支配は終焉しました。原胤貞は小田原の北条氏康と結んで勢力を強めます。
 永禄9(1566)年には上杉謙信と里見義弘が臼井城に猛攻を加えますが、原胤貞は自ら臼井城に入って徹底抗戦を貫き、城を死守しています。
 天正2(1574)年に胤貞の子原胤栄(ハラタネヒデ)は里見義弘に本拠地生実城を奪われたため、臼井城に本拠を移しました。
 天正18(1590)年3月、関白太政大臣豊臣秀吉が小田原征伐を開始すると、本佐倉城主千葉直重は小田原城に入り、臼井城主原胤栄は関白軍来襲直前に病死します。胤栄嫡男の原胤義は人質として小田原城にいたため、一族の原邦房が臼井城の城代となりました。
 しかし、関白軍の一翼を担った浅野長政が下総国へ侵攻して5月10日に臼井城、同月18日に本佐倉城を一挙に攻略、7月5日には小田原城も落城したのでした。
 天正18(1590)年に武蔵国江戸へ入府した権大納言徳川家康は徳川四天王の一人酒井忠次の嫡男家次を30000石で臼井城主としましたが、文禄2(1593)年、臼井城は城内からの出火で灰燼に帰してしまったため、酒井家次は仮陣屋を設けました。
 一方、慶長9(1604)年に臼井藩主酒井家次は上野国高崎藩に加増移封されて臼井城は廃城となり、臼井藩領は天領となりました。
 その後、旧臼井藩領は佐倉藩領に組み込まれ、旧臼井城下町は成田街道の宿場町として栄える事となります。
 元禄11(1698)年、江戸から臼井村に隠棲した臼井秀胤と当時の臨済宗妙心寺派瑞湖円応寺住職の宋的は、中国の瀟湘(ショウショウ)八景や日本の近江八景に倣(ナラ)って、印旛沼の美しい風景の中から臼井八景を選定しています。
 城嶺夕照(ジョウレイノセキショウ)
 洲崎晴嵐(スザキノセイラン)
 師戸帰帆(モロトノキハン)
 舟戸夜雨(フナトノヤウ)
 光勝晩鐘(コウショウノバンショウ)
 瀬戸秋月(セトノシュウゲツ)
 遠部落雁(トウベノラクガン)
 飯野暮雪(イイノノボセツ)

 なお、秀胤は臼井城主臼井久胤の曽孫で、常陸国下館藩32000石の水谷勝隆(ミズノヤカツタカ)に仕えていましたが、寛永19(1642)年に勝隆が備中松山50000石へ移封されたのを機に水谷家を辞して浪人、甲府宰相松平綱豊の家臣西田九右衛門清貞の知遇を得てその家臣となりました。そして、清貞の子の間部詮房(マナベアキフサ)が6代将軍家宣(イエノブ)の側用人として権勢を振るう事となったため、秀胤の子である臼井儀太夫安胤は間部家高崎藩重臣として活躍、その後も臼井家は代々間部家に仕えて廃藩置県に至りました。

・臼井城跡
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=98361405

コメント(25)

 1月4日火曜日に訪れました。

左;京成臼井駅にて 西馬込行快速電車 3000系
中・右;京成臼井駅
左・中;成田街道道標
右;時宗臼井山光勝寺
 光勝寺です。

左;由緒
中;本堂
右;鐘楼
左;光勝寺からの印旛沼遠望
中;臼井八景 光勝晩鐘
右;臼井田宿内砦跡
 臼井宿跡です。

左;明治天皇行在所跡
中・右;旧臼井町道路元標
 臼井城跡〔佐倉市指定史跡〕です。
 臼井城跡〔佐倉市指定史跡〕です。

左;二の丸虎口
中;二の丸土塁
右;二の丸
 臼井城跡〔佐倉市指定史跡〕です。

左;本丸・二の丸間の空堀
中;本丸・二の丸間の土橋
右;本丸土塁
 臼井城跡〔佐倉市指定史跡〕です。

左;本丸からの印旛沼眺望
中;臼井八景 城嶺夕照(ジョウレイノセキショウ)
右;二の丸・三の丸間の堀切
 臼井城跡〔佐倉市指定史跡〕三の丸にある太田図書の墓です。
 臨済宗妙心寺派瑞湖山円応寺です。
 円応寺です。

左;臼井家歴代墓
中;岩戸胤安墓
右;臼井八景発祥地
左;臼井八景
中・右;大関雷電為右衛門(1768〜1825)墓
左;宗徳寺山門
中;宗徳寺本堂
右;京成臼井駅
 1月5日水曜日に印旛沼対岸の千葉県立印旛沼公園を訪れました。
 千葉県立印旛沼公園は臼井城の支城である師戸城跡を整備した公園です。ここは印西(インザイ)市になります。
 師戸城跡です。

左;四の丸(道場台)土塁
中・右;三の丸・四の丸間の空堀
 師戸城跡です。

左;三の丸からの印旛沼眺望
中・右;三の丸・本丸間の中堀
 師戸城跡です。

左;二の丸北側中堀
中;本丸からの印旛沼眺望
右;本丸土塁
 師戸城跡です。

左・中;本丸・二の丸間の小堀
右;本丸・三の丸間の中堀
 師戸城跡です。

左・中;二の丸からの印旛沼眺望
右;師戸夕景
左;師戸夕景
中;千葉県立印旛沼公園MAP
右;京成臼井駅にて 上野行普通電車 3500形

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