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城下町コミュの一関

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 一関は11世紀に安倍氏の一族磐井五郎家任(イエトウ)が磐井川東岸に柵を築いたのが始まりだとされ、前九年の役(1051〜62)の際には源頼義と清原武則の軍がここで合流して赤荻柵(アカオギノサク)・萩荘小松柵(ハギショウコマツノサク)にいた安倍貞任(サダトウ)を破ったとされる。一帯は砂金・砂鉄の産地で、奥州藤原氏の栄華を支えた地であった。
 1189年の藤原泰衡滅亡後、奥州惣奉行となった葛西氏の領土となり、一関城が築かれたが、1590年に葛西氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、伊達政宗の領土となった。
 1601年、政宗は叔父の留守政景に一関城を与え、城下町造りが開始された。政景の死後は茂庭綱元(モニワツナモト)が城主となり、1660年に至って政宗の十男宗勝が3万石で入府、仙台藩62万5000石の支藩として幕府から公式の大名と認められた。
 宗勝は、仙台藩第二代藩主忠宗の子田村宗良と共に第四代仙台藩主亀千代(綱村)の後見人となり、権勢を振るったが、1671年の所謂伊達騒動で改易、土佐に配流された。この結果、一関は仙台藩直轄領となり、一関城も廃城となったが、1682年に至って田村宗良の子建顕(タケアキ)が3万石で入府、一関藩が復活した。
 田村氏は坂上田村麻呂の子孫と称する豪族で、戦国時代には三春を本拠とする大名として勢威を振るったが、1590年に豊臣秀吉に滅ぼされた。伊達政宗の正室が田村氏の出だったため、宗良が名跡を継いだものである。建顕は一関城のあった釣山の麓に一関陣屋を構えて本拠とした。建顕は幕府奏者番を務め、1701年、松の廊下事件を起こした播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩(タクミノカミナガノリ)の身柄を預かって切腹させた事でも知られる。
 一関藩領は磐井川東岸のみで、西岸の西磐井は仙台藩領だったが、人の往来は盛んで、事実上、一つの町として機能していた。また、藩医を務めた建部清庵(タケベセイアン)は江戸の蘭法医杉田玄白と親交を重ね、狂犬病やハンセン氏病の効果的な治療を行うなど、優れた臨床医として天下に名が知られた。そして、その弟子大槻玄沢(1757〜1827)は一関藩医・仙台藩医を務める一方、杉田玄白・前野良沢から蘭学を学び、やがて蘭学の最高権威と認められて、1811年に幕府天文方蛮書和解御用(バンショワゲゴヨウ)に任じられた。
 大槻氏は元来葛西氏一族寺崎氏の後裔で、戦国期には大きな所領を有していたが、葛西氏滅亡後帰農し、1683年以後、仙台藩領西磐井大肝煎(オオキモイリ)を務めた家である。玄沢の子磐渓(1801〜1878)は仙台藩校義賢堂学頭をとなった儒学者で開国論を説き、その子文彦(1847〜1927)は1889〜91年に日本初の近代的国語辞典『言海』を刊行するなど、学者一家として知られた。一関駅前には玄沢・磐渓・文彦の「大槻三賢人」の胸像が立つ。
 1868年、一関藩主田村崇顕は奥羽越列藩同盟に加盟、新政府側の秋田藩攻撃に参加したため2万7000石に減封された。1871年、廃藩置県によって一関県が設けられたが、紆余曲折を経て1876年に岩手県に併合された。1889年には町村制施行で一関町が誕生、1948年には一関町が周辺3村と合併して一関市が生まれ、その後、さらに1955年と2005年に市域の拡大が行われている。
 現在、一関城跡は釣山公園として市民の憩いの場となり、臨済宗大慈山祥雲寺には藩主田村家の墓所がある。

コメント(2)

詳しく調べてらっしゃってすごいです。個人的には、東北地方の城下町、けっこう歩きまわってみました。でもここまで詳細なリポートはとてもムリです。東北地方の情報あったらまた載せて下さい。
ニャジ様
東北地方には滅多に行かないんですが、また機会があったらリポートしますね。

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