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城下町コミュの松前

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 松前の語源は、アイヌ語で「帰人のいる沢」を意味するヲマツナイに由来するとされ、延文元(1356)年の『諏訪明神絵詞』に「万当宇満伊犬」とあるのが史料上の初見で、当初はマトマイと呼ばれていた。
 北海道南部の渡島(オシマ)半島は鎌倉時代以後、陸奥国津軽半島の十三湊(トサミナト)を本拠地とする蝦夷管領安藤氏の支配下に置かれており、同地の住民は渡党(ワタリトウ)と呼ばれて日本語を解し、十三湊まで交易に赴く者も多かった。
 室町時代に入ると、安藤氏は一族を代官として渡島半島へ派遣し、道南十二館と呼ばれる城館を構築、各館はアイヌ人や和人商人との交易や領域支配の重要拠点となった。その中でも、現函館市の志苔館(シノリタテ)に次いで古い歴史を持つのが現松前町の大館(オオダテ)で、応永7(1400)年頃、標高215mの勝軍(ショウグン)山の裾野が舌状に突出した台地に造営された山城だった。この地からは察文式土器や明の洪武通宝も出土している事から、アイヌ人のチャシ(城砦)を改築した物だと推定されている。大館城下には寺町も形成され、和人居留地として小規模な城下町が成立した。大館に近い松前湊は本州との交易や鰊漁の拠点として栄えた。
 嘉吉2(1442)年、奥州十三湊日之本将軍を称していた安藤盛季は三戸(サンノヘ)城主南部義政に攻撃されて十三湊を奪われ、翌年、蝦夷地へ退転して大館に入った。
 盛季の子康季は文安2(1445)年に本拠奪回を目指して津軽半島に上陸するが戦病死し、その子の義季も享徳2(1453)年に南部氏に敗れて自決、盛季直系は断絶して、盛季の甥の子である生駒師季(後に政季と改名)が家督を継いだと伝える。この時から字を改めて安東氏を称するようになったらしい。
 享徳3(1454)年、安東師季は客将の武田信広(若狭守護武田信賢の子)と共に蝦夷地へ渡り、上国花沢館の蠣崎季繁(カキザキスエシゲ)の下に身を寄せた。
 康正2(1456)年、師季は分家で出羽国秋田郡の領主であった秋田城介安東惟季(コレスエ)の招きに応じて秋田小鹿島城(現男鹿市)へ移り、間もなく秋田河北地方(現能代市)の葛西秀清を滅ぼして檜山城を本拠とし、その子孫は檜山屋形と呼ばれる事となった。
 師季は蝦夷地を去るに当たって統治体制確立のため、茂別館(モベツダテ)の安東家政(師季の弟)を下国(シモノクニ)守護、大館の下国定季(安藤康季の庶子?)を松前守護、花沢館の蠣崎季繁を上国(カミノクニ)守護に任じて、他の館主(タテヌシ)を統轄させる事としたが、松前守護は他の二人の上に立つ蝦夷地最高責任者だった。
 ところが、その直後の長禄元(1457)年、コシャマイン麾下のアイヌの大叛乱が勃発し、茂別館・花沢館以外の十館は陥落、松前守護下国定季は生きて虜囚の辱めを受ける事となった。この際、蠣崎季繁の客将となっていた武田信広が定季を救出、さらに信広は翌年自らシャクシャインを射殺して乱を鎮圧した。
 この結果、信広は季繁に気に入られ、その婿養子として蠣崎家を継ぐ事となった。信広は花沢館の近傍に勝山館・洲崎館を築いて防御機能の強化を行なっている。
 下国定季の死後、息子の下国恒季が松前守護職を継いだが、明応5(1496)年に至り、上国守護・花沢館主の蠣崎光広(武田信広の子)以下の館主達が、檜山屋形安東忠季に対し、恒季は粗暴凶悪であると訴えたため、恒季は同年11月、忠季の命を受けた光広に攻められ自害、松前守護職は恒季の補佐役だった相原季胤が継いだ。
 永正9(1512)年、蝦夷地東部の族長であったショヤ・コウジ兄弟の率いるアイヌが再び決起し、数カ所の館を襲撃する大叛乱が勃発した。上国守護の蠣崎光広・義広親子が一旦叛乱軍を撃退したが、永正10(1513)年には強襲を受けた松前大館は陥落、松前守護相原季胤は討ち取られてしまった。この際、城下町も炎上し、多数の僧侶・神官が殺戮された。茂別館も陥落し、下国守護安東家政は蠣崎氏を頼って花沢館へ逐電している。このアイヌの叛乱は松前守護職兼帯を狙った光広の謀略だとの説もある。
 空き城となった大館には、翌永正11(1514)年に光広・義広親子が入城、館を修復して花沢館から本拠を遷し、徳山館と改名した。一方、花沢館は廃されて勝山館に城代が置かれる事となった。
 檜山屋形安東尋季(ヒロスエ)は当初蠣崎氏の松前徳山館支配権を認めなかったが、再三に及ぶ要請を受け、義広による上国・松前両守護職兼帯を追認、蝦夷地を訪れる和人の商船から運上を徴収する事を認め、その過半は檜山に送られる事とした。
 この結果、他の館主は蠣崎氏の被官化、下国守護安東家政の孫である師季も蠣崎氏の家臣となって下国氏を名乗る事となった。
 義広は蝦夷地全域支配を企んで渡島半島から勢力を北上させ、享禄2(1529)年には工藤祐兼・祐致兄弟に命じて西蝦夷の族長タナサカシの本拠を攻撃させたが敗北して祐兼は戦死、逆にタナサカシに勝山館を包囲されたため、義広は偽りの和議を申し出て、賠償品を受け取りに来たタナサカシを暗殺、辛うじて勝利を収めた。
 天文5(1536)年、タナサカシの娘婿タリコナが、妻に使嗾されて蜂起したが、義広は又しても偽りの和議で夫妻を誘き寄せ、酒宴の席で自ら夫妻を斬殺して窮地を文字通り切り抜けた。
 天文20(1551)年、義広の子季広は、檜山屋形安東舜季(キヨスエ)の調停によって蝦夷地全域制覇を断念、東部知内の族長チコモタインと西部瀬田内(セタナイ)の族長ハシタインとの和平に踏み切った。この際、和人商船にかける税の一部を「夷役」として二人の首長に渡す代わりに、夷狄の商舶往来の法度を交わす事により支配領域としての和人地を確定した。
 天正11(1583)年に季広から家督を譲られた息子の慶広(ヨシヒロ)は、出羽国比内地方の浅利氏解体等の檜山屋形安東愛季(チカスエ)の勢力拡大に協力して安東家中での発言力を増大させたが、天正17(1589)年には徳山館が火災に遭い、主要部が焼失する災厄に見舞われた。
 天正18(1590)年に関白豊臣秀吉が小田原征伐を終え奥州仕置を始めると、慶広は檜山屋形安東実季の上洛に蝦夷地代官として帯同したが、参議前田利家に取り入って同年12月に秀吉への謁見を許され、所領安堵と同時に従五位下民部大輔に任官された。これにより蠣崎氏は、名実共に安東氏からの独立を果たしたのである。
 天正19(1591)年、南部地方で九戸政実(クノヘマサザネ)の乱が起きると、慶広は秀吉の命により討伐軍へ参加したが、この際に多数のアイヌを動員して来た事で、慶広がアイヌを束ねていると豊臣政権に印象付ける事に成功した。
 文禄2(1593)年1月、慶広は率兵して朝鮮出兵の拠点たる肥前国名護屋城に参陣、太閤秀吉に謁見した。秀吉は「狄の千島の屋形」が遠路遙々参陣して来た事は朝鮮征伐の成功の兆しであると喜び、従四位下右近衛権少将に任じようとしたが、慶広はこれを辞退、代わりに蝦夷地での徴税を認める朱印状を求め、秀吉はこれを認めると共に志摩守に任じた。こうして樺太・千島列島を含む全蝦夷地の支配を公認された慶広は朱印状を領民に示すと共に、遠方のアイヌも集めてアイヌ語に翻訳し、自分の命に背くと秀吉が100000人の兵で征伐に来ると恫喝、屈服させる事に成功した。
 慶長3(1598)年に秀吉が薨去すると、慶広は五大老筆頭の内大臣徳川家康と誼を通じ、慶長4(1599)年には大坂城で家康へ「蝦夷地図」と家譜を献上、事実上の臣従を誓ったが、一方では五大老次席の権大納言前田利家への配慮もあって、家康の旧苗字と利家の苗字を組み合わせた松前氏を名乗る事となった。松前の地名は戦国時代から本州でも知られていたのだが、表向きは中央政府への恭順の証としたのである。
 慶広は関ヶ原合戦のあった慶長5(1600)年には家督を長男の盛広に譲ったが、その後も政務を司り、同年秋、本州の戦乱波及への警戒から、破損したままだった徳山館に隣接した福山台地に福山館(フクヤマダテ)の造営を開始した。慶広は慶長8(1603)年には江戸に参勤して初代将軍徳川家康から百人扶持を与えられ、翌年には家康より黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を公認された。これらを以って、松前氏を大名格と見做し、慶広は後に松前藩の初代藩主として扱われる事となるが、実際には当時の幕府は蝦夷島主松前氏を化外の地を治める客臣扱いとしていた。
 当時のアイヌ交易は、慶広自ら交易船を送る形で行なわれ、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(アキナイバ)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認める形でなされた。慶広は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策を取ったが、実際にはアイヌが和人地や本州に出かけて交易する事が普通に行なわれていた。
 慶長11(1606)年8月、福山館が漸く完成したので慶広は徳山館から遷った。徳山館は表向きは廃城となったとされたが、実際には隠し砦として存続し、福山館の詰城の役割を果たす事となった。福山館は松前湊に近い海岸段丘上にあって、北側は徳山館のある山が連なり、東は大松前川、西は湯殿沢が堀の役割を果たしていたが、縄張りは簡素で石垣も無く、防御機能は不充分であった。
 慶長14(1609)年、京都の御所内で若手公家や女官が派手に乱交していた猪熊事件が発覚、連座した左近衛少将花山院忠長が上国(カミノクニ)の勝山館への配流が決定されたが、慶広は忠長を福山館で賓客として厚遇した。忠長は五年で津軽へ移されるが、京都の公家に誼を得たことで、松前家には以後累代に渡って公家との婚姻が続き、松前家の格を高めるとともに、松前福山に京都の公家文化を齎した。
 慶長19(1614)年、大坂冬の陣が勃発すると、慶広は親豊臣派であった四男の由広(ヨシヒロ)を誅殺、翌年の大坂夏の陣には徳川方として自ら参陣して、家康への忠誠を示している。
 元和元(1615)年の一国一城令は化外の地である蝦夷地には適用されなかったため、勝山館等は機能を維持した。なお、福山館は幕府の書類上、陣屋扱いとなっていたが、慶広は領内では城と称していた。
 こうして近世大名としての地位を確立した慶広は元和2年に69歳で死去し、嫡孫の公広(キンヒロ)が後を継いだ。
 元和5(1619)年、公広は徳山館周辺に残っていた寺町や町家を福山館周辺に強制移転させて本格的な城下町を構築、館主を含む家臣の松前への集住も進め、寛永4(1627)年には福山館に石垣を設けて防御機能強化を図った。当時の松前の戸数は500戸程度だったが、松前湊には本州から毎年300艘もの大船が来航して米や酒を持ち込み、アイヌ人も鮭・鰊・白鳥・鶴等を持ち込んで物々交換を行なう市場が開かれ、大いに賑っていた。
 寛永7(1630)年、公広は松前・江差・箱館の蝦夷三湊に沖ノ口番所を置いて出入商船の検査・課税と旅人の出入管理を行なう事としている。
 寛永11(1634)年の3代将軍家光上洛の際、公広は「一万石の人積り」で供奉し、寛永15(1638)年には公広の子氏広が「譜第の中大名、一万石以上の長子」として家光に御目見(オメミエ)を賜っており、松前氏の立場は将軍家の客臣扱いから次第に幕臣扱いへと変化して行った。
 また、17世紀に入って鰊が不漁になったため、アイヌ人の捕獲する鮭を米と交換する蝦夷地への出稼ぎが広まった。しかし、米と鮭の交換レートは和人側が極度に有利になっていたため、アイヌ側の不満が増大する事となったのである。
 第5代福山館主松前矩広(ノリヒロ)の治世下の寛文9(1669)年、松前氏配下の和人の横暴に憤激したアイヌ人達がシャクシャインを指導者として大叛乱を起こし、福山館目指して進撃を開始すると、急報を受けた4代将軍家綱は、幼少の矩広の叔父で幕府旗本となっていた松前泰広を邀撃指揮官として急派、弘前・盛岡・久保田の三藩へも支援が命じられた。この結果、防御体制に不安が残る福山館には、侍大将杉山吉成麾下の900人の弘前藩兵が入って警戒に当たった。なお、吉成は石田三成の次男重成の子である。結局、弓矢しか持たないシャクシャインの叛乱軍は泰広麾下の鉄砲隊によって撃滅され、松前氏の勢力は遠く道東地域にまで及ぶ事となった。
 このため、松前氏は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至り、矩広は蜂起に参加しなかった地域集団をも含めたアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文によって服従を誓わせた。これにより松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は強化され、従来黙認されていたアイヌ人による和人地・本州への交易は厳禁されたが、乱の直接的原因となった米と鮭の交換レートをややアイヌ側有利に改定する融和策も行われた。
 なお、矩広は本州からの商船の来航も松前・江差・箱館の蝦夷三湊に厳しく限定し、沖ノ口番所を沖ノ口役所と改名して集約課税する政策を採用した。
 寛文10(1670)年当時の松前は戸数600〜700戸に増加し、14の町人町が浜沿いに東西方向へ延びていたが、その中に武士が混住、武士も商業を営む者が多くて、武士と町人の区別が不明確な当時異例の地であった。
 また、矩広は5代将軍綱吉〔任;1680〜1709〕によって7000石格の交代寄合に列されて正式に幕臣となったが、松前は遠隔地であるため、参勤交代は当初三年一勤、元禄12(1699)年以後は六年一勤となり、10月頃参府して翌年2〜3月に帰国する形が許された。それでも、津軽海峡渡海の困難は大きく、松前家にとって参勤交代は大きな負担となったのである。
 正徳5(1715)年には、矩広は7代将軍家継に対し、樺太・千島列島のみならずカムチャツカ半島をも自領と報告しているが、矩広は既に1707年にカムチャツカがロマノフ朝ロシア帝国の支配下に入っていた事を知らなかったようである。
 続いて、松前矩広は享保4(1719)年に8代将軍吉宗によって10000石格の柳間詰め大名とされ、公式に松前(福山)藩が成立した。勿論、当時の蝦夷地では米が取れなかったため、米は対岸の弘前藩から独占的な供給を受ける取り決めが結ばれていた。
 18世紀前半から、松前藩の家臣は交易権を商人に与えて運上金を得るようになり、場所請負制が広まった。18世紀後半には藩主の直営地も場所請負となった。請け負った商人は、出稼ぎの日本人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させた。しかも三湊の沖ノ口役所に於ける業務も請負商人に委託される事が増えた。これより松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られてしまい、商人の経営によって、鰊・鮭・昆布等の北方の海産物の生産が大きく拡大し、それ以前からある熊皮・鷹等の希少特産物を圧するようになった。
 一方、カムチャツカを支配下に収めたロシア帝国は千島列島を南下してアイヌと接触し、元文4(1739)年には安房・紀州沖まで探検船を南下させたため、幕府はオランダを通じてロシアの極東進出を知る事となった。安永7(1778)年には厚岸(アッケシ)にロシア船が来航して日本との通交を求めたが、第8代松前藩主松前道広はロシアの要求を拒否して、幕府に秘密にしていた。当時、漁場の拡大に伴い、和人は千島列島南部を含む東蝦夷地にも入り込んでいだが、その地のアイヌは自立的で、藩の支配は強くなかった。
 天明2(1782)年、天明の大飢饉が起きると弘前藩からの米輸送が途絶したため、大坂からの回送船による米の輸送が行われ、これを機に松前藩は西日本との結び付きを深めて行った。
 他方、10代将軍家治は、天明5(1785)年から最上徳内等を千島列島に派遣してロシア問題の調査を行い、幕府は千島列島北部が既にロシアの支配下に入っている事を把握、これを松前藩が隠蔽していた事も露見したのである。しかも、この頃、西蝦夷地でも東蝦夷地でも和人商人によるアイヌ使役が次第に過酷になっており、請負商人によるアイヌ首長毒殺に対して、東蝦夷地では寛政元(1789)年にクナシリ・メナシの蜂起が起こった。
 アイヌの叛乱に加え、寛政4(1792)年にはロシア皇帝エカチェリーナ2世の使者ラクスマンが根室に来航して通商を求めるに至ったため、幕府は蝦夷地を松前藩に委ねて来た政策を転換する決意を固めた。
 かくして11代将軍家斉は、寛政11(1799)年1月に東蝦夷地の浦川から知床までを7年間上知する事を決め、8月には箱館から浦川までをも取り上げて、これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に5000石を与え、各年に若干の金を給付する事とした。
 しかも同年、最上徳内が松前藩領江差の姥神社に掲げられていた「降福孔夷」〔福を降ろすは孔(ハナハダ)だ夷なり〕の扁額の「孔夷」を「紅夷」と読み誤り、幕府に報告する事件が起こった。この結果、幕府は松前藩がロシア人(紅夷)と密通していたのではないかとの疑い、松前藩は改易の危機を迎えたのである。
 後の調査で、崩し文字のため「孔」が「紅」に見えてしまっただけだとの事が判明し、藩の廃絶は回避されたが、享和2(1802)年に7年間の上知期間が終了しても、蝦夷地の返還は行われず、同年2月、箱館に蝦夷奉行所が設置され、5月に箱館奉行所に改称されている。
 そして遂に文化4(1807)年には松前を含む西蝦夷地も幕府直轄領化、箱館奉行所は松前奉行所と改称されて松前福山館に遷り、松前家は陸奥国伊達郡梁川に9000石で転封となった。つまり松前家は大名の資格を失ってしまったのである。また、この際に前藩主の松前道広が放蕩を咎められて永蟄居を命じられているが、道広は姥神社に例の扁額を奉納した張本人だったため、その責を負わされたとの説もある。
 その後、1812年のフランス皇帝ナポレオン1世によるモスクワ遠征の影響等でロシアの極東進出が鈍化したため、文政4(1821)年に将軍家斉は再び松前章広に蝦夷地一円支配を許し、松前藩が復活した。但し、松前藩は対露警備の役割を担わされる事にもなったため、財政難が深刻化する事となる。
 松前藩の復活によって松前福山は繁栄を取り戻し、天保4(1833)年には人口10000人を超える都市となった。
 嘉永2(1849)年に第12代藩主となった松前崇広(タカヒロ)は俊才として知られ、藩内外の学識経験者を招聘して蘭学・英語・西洋兵学を学び、さらには電気機器・写真・理化学に関する器械を使用する西洋通だったが、12代将軍徳川家慶(イエヨシ)から城主格を許され、対ロシア防衛用の築城を命じられた。
 新城は松前福山ではなく、要害地形の箱館に築城するべきという意見もあったが、松前城下の商人から城が移転する事で松前湊が寂れてしまうとの反対意見が出され、予算も僅少だった事もあって、松前福山館を拡張する方法で落ち着き、三の丸から本丸までが津軽海峡に向けて雛壇式に築造され、ペリー来航の翌年である安政元(1854)年10月に完成した。なお、同年8月に締結された日米和親条約では箱館開港が決定されている。
 松前城本丸には三重の天守閣が設けられ、海側からの艦砲射撃に備えて砲台を備え、かつ城壁の中に鉄板を仕込んでおり、城の本丸方の虎口から本丸までの通路は複雑かつ側面から鉄砲などで射撃しやすい構造とした。天守・櫓・門の屋根には、寒さで凍み割れやすい粘土瓦の代わりに銅板を葺いた。通常、天守の壁は柱の間の竹で編んだ骨組みに壁土を塗りこむが、ロシア艦の砲撃に耐えられるように、中に硬いケヤキ板を仕込んで備えとした。石垣の石は付近の山で採れる、比較的柔らかく加工しやすい緑色凝灰岩が使用され、緑色の石垣に覆われた全国でも珍しい城であった。冬季に凍結した石垣の奥の土が解凍の際に流れ出してしまわないよう、隙間無く石が敷き詰められる等の工夫もなされている。但し、城の中心である福山台地から海岸までは至近距離だったので、大規模な城郭とする事は出来なかった。
 安政2年2月、老中首座阿部正弘は箱館開港に備えて、松前藩から乙部村以北・木古内村以東の蝦夷地を再び上知し、藩領は渡島半島南西部だけになったが、代わりに陸奥国梁川と出羽国村山郡東根に計30000石が与えられ、出羽国村山郡尾花沢14000石も込高として預かり地になったため、松前崇広は大名としての格を高める事となった。また、手当金として年18000両が支給されたのである。
 しかし、巨利を生んでいた蝦夷地交易権を喪失した松前藩の財政は窮乏し、折しもこの年は鰊漁が不漁だったため、その原因を巡って場所請負人と中小漁民が衝突する網切騒動が発生して、幕府を巻き込んだ騒動となった。
 安政3(1856)年に箱館が開港されると、箱館奉行所が置かれるが、元治元(1864)年、奉行所は五稜郭へ移転した。
 文久3(1863)年、14代将軍徳川家茂(イエモチ)は西洋通の松前崇広を寺社奉行に起用し、元治元(1864)年7月には老中格兼陸海軍総奉行、同年11月には老中に任命した。外様大名としては異例の抜擢である。崇広の老中就任に伴って、天領となっていた松前西在の乙部より熊石までの八ヵ村も松前藩に還付されたが、手当金700両が削減された。蝦夷地の中心地が箱館に移ったために松前湊に来航する商船も激減し、老中就任に伴う出費も嵩んだため、松前藩財政は悪化の一途を辿り、松前城下では藩士も町人も困窮を極めていた。このため、厚沢部(アッサブ)川流域・天の川流域を農地開発する計画が持ち上がり、若手家臣の下国東七郎(シモノクニトウシチロウ)が計画責任者となった。
 松前崇広は、慶応元(1865)年5月には第二次長州征伐に赴く将軍家茂の供をして京都、次いで大坂城に至り、同年9月に陸軍兼海軍総裁も兼ねて老中阿部正外(マサトウ)と共に幕閣を牛耳る事となった。当時、幕府は米英仏蘭四ヶ国と兵庫開港、大坂の市場開放を内容とする条約を締結していたが、朝廷から勅許が得られず、条約内容が履行されないままだったため、遂に四ヶ国の軍艦が兵庫沖に進出して開港を要求する事態が発生していた。
 この結果、崇広と正外は、将軍後見職一橋慶喜の反対を押し切って独断で兵庫開港を決定した。これに激怒した孝明天皇は同年10月に崇広と正外の官位剥奪・改易を命ずる勅命を下した。大名改易という露骨な幕政干渉に対し、将軍家茂は辞意を仄めかして朝廷に抗議したが、止む無く慶応2(1866)年正月に崇広と正外を免職して、国許謹慎を命じた。100000石から60000石へ減封された阿部正外に対し、崇広は減封を免れたものの同年4月、熱病によって松前で死去してしまった。
 そこで、崇広の甥で養子の徳広(ノリヒロ)が第13代藩主となったが、精神病と肺結核を患っていた徳広は政務を執る事が不可能で、松前勘解由(カゲユ)・蠣崎監三等の重臣達が政権を壟断する事となった。
 慶応4(1868)年5月、奥羽越列藩同盟が結成されると松前藩もこれに参加したが、同年7月28日、重臣の専横に反発する鈴木織太郎・下国東七郎・三上超順(ミカミチョウジュン)等40名余の家臣団が正議(ショウギ)隊を結成、徳広を擁立してクーデターを決行した。この結果、松前勘解由・蠣崎監三等の佐幕派重臣は屠られ、松前藩は列藩同盟を脱退して新政府側へ寝返った。正議隊は列藩同盟軍の攻撃を予期して、海上からの攻撃に曝されやすい松前城から内陸部に城を遷す事を決定、同年9月に朝廷の許可を正式に得ないまま現檜山郡厚沢部町の館(タテ)に新城建築を開始した。この地が選ばれたのは執政に就任した下国東七郎が農地開発を進めていた場所だったからである。
 正議隊は新たに合議局・正議局・軍謀局を創設、新人材の抜擢等の藩政改革を進め、10月20日に藩主松前徳広は突貫工事で本丸のみが完成した館城へ向かい、11月3日に入城した。このため、松前藩は以後、館藩と呼ばれる事となる。
 ところが、10月21日に榎本武揚麾下の旧幕府軍が蝦夷地に来襲して箱館北方の鷲ノ木に約3000名が上陸する事態が突発、驚愕した新政府箱館府知事清水谷公考(シミズダニキンナル)は五稜郭を放棄して逐電したため、榎本軍は10月26日に五稜郭・箱館の無血占領に成功した。

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松前城〔史跡〕〔北海道遺産〕本丸です。

左;松前神社〔県社〕〔北海道遺産〕祭神;松前藩祖武田信広
中;御池
右;松前藩正議隊士田崎東(タザキアズマ;1844〜69)顕彰碑
左;本丸寺町門跡
中;黄檗宗経堂寺跡 松尾芭蕉句碑「須叟(シバラク)は 花のうへなる 月夜かな」
右;月琴堀(西方の外堀)
曹洞宗松前(ショウゼン)山法源寺〔北海道遺産〕です。

左;山門〔重要文化財〕
中;蠣崎波響(カキザキハキョウ;1764〜1826)の墓
右;本堂と鐘楼
曹洞宗大洞(ダイトウ)山法幢(ホウドウ)寺〔史跡〕〔北海道遺産〕です。

左;山門
中;本堂
右;松前家御霊屋(オタマヤ)
法幢寺の松前藩主松前家墓所〔史跡〕〔北海道遺産〕です。
曹洞宗華遊山龍雲院〔北海道遺産〕です。

左;惣門〔重要文化財〕
中;鐘楼〔重要文化財〕
右;本堂〔重要文化財〕
龍雲院です。

左;龍神堂〔重要文化財〕
中;蝦夷霞桜(エゾカスミザクラ)《Cerasus x compta (Koidz) H.Ohba》
右;庫裏〔重要文化財〕
浄土宗高徳山光善寺〔北海道遺産〕です。

左;仁王門 工事中でしたwww
中;鐘楼門
右;血脈桜(ケチミャクザクラ) 樹齢300年。松前を代表する桜の品種「南殿」の親木に当たる早咲きの八重桜。
光善寺です。

左;本堂
中;カラフトアイヌ供養顕彰碑〔松前町指定文化財〕 樺太惣乙名(ソウオトナ)のキムラカアエノ(1776〜1848)の供養塔ですが、嘉永6(1853)年に樺太の久春古丹(クシュンコタン;現コルサコフ)がロマノフ朝ロシア帝国軍に占拠された際、日本側に協力したアイヌ人の顕彰碑も兼ねています。
右;義経山欣求(ゴング)院の山号石碑 源義経が自ら矢尻で刻んだ岩との伝説があります。
松前物産館二階「よねた」
「本まぐろ丼」1500円也
日蓮宗妙光山法華寺〔北海道遺産〕です。

左;山門 旧松前藩寺社町奉行所門
中;本堂
右;祖師堂
浄土宗知恩院派護念山正行(ショウギョウ)寺〔北海道遺産〕です。

左;鐘楼門
中;本堂
右;経蔵
左・中;法華寺付近からの松前城遠望
右;松前藩寺社町奉行所跡
左;松前藩校徽典館(キテンカン)跡
中;ロマノフ朝ロシア帝国ヴァシーリイ=ミハーイロヴィチ=ゴロヴニーン(Василий Михайлович Головнин)海軍大佐(1776〜1831)幽閉地
右;松前町郷土資料館
徳山大神宮〔郷社〕〔渡島国一宮〕〔北海道遺産〕祭神;天照大御神・豊受大神etc.

左;石造鳥居〔北海道指定文化財〕
中;拝殿
右;本殿〔北海道指定文化財〕
大館跡〔史跡〕へは諸般の事情で登りませんでした。
新坂石垣 松前城の本丸寺町門に直結する間道です。
高野山真言宗海渡(カイト)山阿吽(アウン)寺〔北海道遺産〕

左;表参道
中;山門 旧松前城堀上門
右;本堂
松前藩屋敷です。

松前沖之口奉行所(沖口役所)
松前藩屋敷です。

松前沖之口奉行所(沖口役所)
松前藩屋敷です。

左・中;商家
右;髪結
松前藩屋敷です。

左;手前が下級町人の棟割長屋、奥が中流の漁家です。
中;番屋です。鯡(ニシン)漁の出稼ぎ漁夫の宿泊場所です。
右;自身番小屋です。一般的には目明しの勤務場所、つまり交番の様な物を指す言葉ですが、松前藩では火の見番所を意味しました。強い海風が吹く松前では、消火活動は極めて困難で、延焼しそうな先の家を叩き壊す破壊消防しか消火方法がありませんでした。
松前藩屋敷です。

110石高の御先手組藩士の屋敷です。
松前藩屋敷です。

左;110石高の御先手組藩士屋敷
右;太鼓橋
左;中;松前カントリーパーク
右;町村記念公園
北鷗碑林です。

左;アスチルベ《Astillbe ×arendsii》
中;金子鷗亭(カネコオウテイ;1906〜2001)銅像
右;リアトリス《Liatris spicata》
浄土真宗大谷派西立山専念寺〔北海道遺産〕

左;山門
中;本堂
右;納骨堂
左;専念寺 石川啄木(1886〜1912)歌碑
  「地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」
中;JR松前線松前駅跡
右;孟宗竹林
道の駅北前船松前 北前食堂 チキンカツ定食850円也&ホヤ酢380円也
お土産に買ったいかサブレーです。本当にスルメイカが入っています。
あわび最中です。こちらは実際にアワビが入っている訳ではありません。www
左;さくら美人
右;蝦夷あわびカレー
本文の続きはコメント欄【5】を御参照下さい。
2007年7月 奥尻島へ行った帰りに城下の旅館に宿泊して登城しました。
歴代藩主のお墓にも行きました。

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