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城下町コミュの須坂

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 信濃国高井郡須田郷須坂の地は、千曲川下流右岸から土鍋山・浦倉山等の西麓に位置する典型的な谷口扇状地で、古墳時代〜平安時代の土師器・須恵器が出土するため、古くから開けた土地だった事が判る。
 地名は、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)・高皇産霊神(タカミムスビノカミ)・神皇産霊神(カミムスビノカミ)・伊邪那岐神(イザナギノカミ)・伊邪那美神(イザナミノカミ)・大物主神(オモノヌシノカミ)の六柱の神を指す墨坂大神(スミサカノオオカミ)を主祭神とする延喜式内社の墨坂神社に由来し、墨坂が須坂(スザカ)に転訛したと言われる。
 墨坂神社は、白鳳2(662?)年に大和から信濃に移住した住吉氏が大和国宇陀郡の墨坂神社を勧請(カンジョウ)したものと言われ、貞観2(860)年、山城国男山八幡より八幡神を勧請し、氣長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)と品陀和氣尊(ホンダワケノミコト)を合祀する事となったため、墨坂神社八幡宮と称されるようになり、一般には単に墨坂八幡社と呼ばれるようになった。
 平安時代末期には、源頼義の弟頼季の孫為実を祖とする須田氏が須田郷の開発領主として墨坂神社八幡宮東南方の小山に居館を構えて台頭し、須田小太夫が源頼朝の随兵を勤めて鎌倉御家人となった。須田氏は鎌倉後期には東隣の大岩郷も支配下に収め、さらには上州国境の四阿山(アズマヤサン;標高2354m)山麓の米子にまで勢力を伸ばした。
 須田氏統治下の須坂には、里方と山方が接する地として市が立ち、商業集落が成立した。
 将軍足利尊氏と弟の直義が争った観応の擾乱の際には、観応2(1351)年に須田入又四郎は尊氏に属して直義党の井上氏と野辺ヶ原合戦を行なって勝利し、翌年、直義党軍の再攻勢を受けると米子城に立て籠って戦っている。
 応永7(1400)年、村上氏を盟主とする国人連合が信濃守護小笠原長秀と激突した大塔合戦に際して、須田伊豆守が国人勢力に属して出陣している。この頃から、小山の居館の詰城として、東側の背後に聳える標高471.5mの臥龍山に平山城の須田城が設けられたと考えられ、応仁2(1468)年に須田氏と井上氏が須田城周辺で合戦を行なっている。
 戦国時代になると須田満信が出て、千曲川西岸の布野・古野・矢島奥にまで勢力を拡大したが、その孫の代になると、須田城に拠る信頼と、その弟で大岩城に拠る満国が対立して須田氏勢力は分裂してしまった。そして、須田信頼は信濃に進出して来た武田信玄と結び、一方、須田満国は坂城城主の村上義清と結んで抗争したが、天文22(1553)年、村上義清は武田信玄に敗れて越後の上杉謙信の下に亡命したため、須田満国も嫡男満親と共に越後に逃走した。
 また、武田信玄麾下の須田信頼も在地支配権を事実上喪失し、須坂一帯は海津城代高坂昌信の管轄下に入った。
 天正10(1582)年3月、織田信長が武田勝頼を滅ぼすと、須田信頼の後を襲っていた息子の須田信正も滅亡し、須坂城は信長麾下の海津城主森長可(ナガヨシ)の管轄下に置かれたが、同年6月の本能寺の変突発で長可が美濃へ撤退すると、越後の上杉景勝が混乱に乗じて北信濃を支配下に置き、景勝は天正13(1585)年6月、上杉家重臣となっていた須田満親を奥信濃四郡を統括する検断権を持つ海津城主に任命、12000石を与えた。こうして須坂は再び須田氏の支配下に置かれたが、慶長3(1598)年に上杉景勝が会津に移封となった際、満親は父祖代々の土地を離れる事を拒んで自刃、家督を継いだ次男長義が会津に赴き、その子孫は米沢藩家老となった。
 上杉景勝転封の後、伊勢国司北畠氏一族の田丸直昌が待城(海津)40000石の領主となって須坂を統治下に置いたが、慶長5(1600)年2月に美濃国岩村40000石へ移り、この際、須田城は廃城となった。その後、森長可の弟である忠政が137500石で待城城主となって須坂も統治下に置き、慶長7(1602)年に右近検地と呼ばれる厳格な検地を断行、反発した農民が北信濃全域で大規模な一揆を起こすに至ったが、忠政は徹底的弾圧で一揆勢撃滅に成功した。
 慶長8(1603)年に忠政は美作国津山186500石に転じ、下総国香取郡矢作2000石を領する外様の堀直重が須坂6000石を加増されたが、直重は矢作に留まった。また、直重の所領は須坂の北半分に留まり、須田城跡を含む南部は松城(待城)120000石藩主となった松平忠輝(徳川家康の六男)の所領となった。
 忠輝は慶長15(1610)年に越後国福島を加増されて本拠を福島に移し、750000石の大大名となったが、慶長20(1615)年の大坂夏の陣の際に家康の不興を買ったため、直後に減封されて、須坂南部4053石も堀直重に与えられた。忠輝は翌年、完全に改易されている。
 下総領と合わせて12053石の大名となった堀直重は、越後国三条50000石堀直政(旧姓奥田)の四男で、豊臣政権時代から徳川家康の人質となって江戸に送られ、徳川秀忠に近侍していたため、外様大名でありながら譜代大名に準じる待遇を求めたが、許可されないまま元和3(1617)年に死去した。 父直重の後を襲った堀直升は、下総国矢作領2000石を次弟直昭に1000石・三弟直久と末弟直秀に500石ずつ分与し、矢作から須坂10053石に本拠を移して須田城跡の東北、墨坂八幡神社の東方に当たる鎌田山(標高490m)西麓に陣屋を築いた。上町通りに面した大手門左右に親族の屋敷、付近に重臣の屋敷が配され、また、常盤町の武家長屋北側には下屋敷が設けられた。これらの館を取り囲む形で、上町・中町・新町が鍵型に展開、一般藩士邸は町家と混在したが、常盤町と牢屋敷が置かれた太子町は武家屋敷の割合が多かった。横町・立町・新町境には、御蔵屋敷・藩校立成館・町会所が置かれ、その外側に寺社が配されて、小規模ながら城下町的街並みが形成される事となった。
 藩主堀家の菩提寺は須田城跡東麓の曹洞宗臥龍山興国寺である。
 中町の辻は周辺街道の結節点となり、横町への通りが松代道、春木町への通りが小布施道、上町への通りが大笹街道、新町への通りが草津道となっていたため、中町辻には番屋、各町尻には木戸柵が設けられた。
 中世以来、一帯の商業の中心地であった須坂は、善光寺平の米・菜種・綿花・煙草・生糸等の集散地となり、それらの物品は大笹街道を通じて上州から江戸へ輸送された。
 用水は、灰野川と米子川支流北ノ沢に水源を求め、屋敷内を流れる裏川用水だったため、水車稼ぎの穀商・油絞商の付加価値を高めた。
 須坂藩領は千曲川右岸の沖積地と扇状地に纏まり、須坂・綿内・灰野・野辺・七重森・高梨・坂田・塩川・沼目・小島・小山・日滝・五閑の13ヶ村が統治下に置かれた。
 第3代藩主直輝は願い譜代と認められたため、万治3(1660)年と寛文3(1663)年に大坂加番を務めた。
 第4代藩主直佑(ナオスケ)は寛文9(1669)年から50年間も藩主の座にあったが、享保4(1719)年に隠居した。長男直富は夭逝し、次男直俊も廃嫡されていたため、家督は越後国村松藩主堀直利の三男で娘婿の直英に譲った。
 第5代藩主直英は享保10(1725)年から二年間大番頭を務め、第6代藩主直寛(ナオヒロ)は大坂加番・二条城在番を経て、延享3(1746)年に大番頭、宝暦元(1751)年に伏見奉行となるなど、幕府要職を歴任した。
 第7代藩主直堅(ナオカタ)は、呉服橋御門番・日比谷御門番・駿府城加番等などを歴任したが、実子が無かったため弟の直郷(ナオサト)が第8代藩主となった。
 直郷は大いに意を民政に用い、新田を開発して戸数・人口を倍増させる事に成功した。また、扇状地上にある須坂は桑の栽培適地であり、さらに年間降水量1000mm以下という寡雨気候は蚕の飼育に適していたため養蚕・製糸業も振興した。なお、天明2(1782)年には陣屋前に鐘楼を設け、時鐘を吊るして昼夜時を告げるようにしている。直郷にも子が無かったため、筑後国三池藩主立花長煕(ナガヒロ)の七男で従弟にあたる直皓(ナオテル)を養子に迎えた。
 第9代藩主直皓は、駿府城加番・呉服橋御門番・大坂加番・大番頭・二条城在番等を歴任した。
 この間、田中新八なる商人が享保18(1733)年に穀町で穀物問屋を開き、菜種油・煙草・綿・酒造業等にも進出、須坂藩の御用達を勤め、名字帯刀を許される身となった。2代目当主信十郎信房は多くの土地も得て、大地主田中家の基盤を確立した。田中家は3代目以後、士分を得て藩の財政に関わる重責も果たし、近隣の松代藩や上田藩への大名貸しも行なって、その財力は須坂藩主を遥かに上回る北信濃屈指の豪商となった。
 第10代藩主直興(ナオオキ)の男子は全て早世していたため、文政4(1821)年、弟の直格(ナオタダ)が第11代藩主となり、財政難解決のための藩政改革を推進、呉服橋門番・駿府加番も勤めた。直格統治下の文政10(1827)年当時の須坂陣屋町は家臣53戸・民家372戸となっている。直格は文人大名として知られて『扶桑名画伝』を著し、天保15(1844)年には江戸から全国的に有名だった陶工吉向父子を招いて、鎌田山南麓に窯を築き、陶・磁・楽・鉐焼によって茶碗・茶入れ・水差し・香炉・菓子・皿・菓子鉢・花瓶等を製作させた。吉向が江戸に帰ってから、この窯を使って須坂焼が焼かれたが、まもなく廃窯となっている。
 直格は、弘化2(1845)年に家督を長男直武へ譲って隠居した後も長寿を保ち、明治13(1880)年まで存命した。享年75。
 第12代藩主直武は父直格の政策を継承して藩政改革に尽力、呉服橋御門番・大坂加番・駿府城加番・日比谷御門番も歴任したが、文久元(1861)年に病気のため隠居し、子が無かったため家督を弟直虎に譲って、翌年死去した。
 なお、須坂では幕末から製糸業が一層発達し、元治元(1864)年には36人の糸仲間が存在した。
 第13代藩主となった直虎は、南郷茂光と赤松小三郎から西洋式兵学砲術を学び、南郷の著した英国歩兵練兵書に序文を書いたのみならず、自身でも英国騎兵練兵書の翻訳に取り組んでいた人物で、洋服を着用したり、写真を写したり、自分の事を英語でStraight Tigerと称したりする極端な西洋趣味を持っていたため、周囲から「唐人堀」と呼ばれていた。
 直虎は、公然と汚職を行なっていた家老等41人を粛清して藩政を刷新し、金会所の廃止・貸付金の棒引き・御用金や献上金の慣習改革等を実施、洋式軍制も導入した。さらには、幕政にも積極的に参与し、大番頭・府中見廻役・呉服橋門番などを歴任、大政奉還直後の慶応3(1867)年12月5日に須坂藩主としては初めて若年寄に就任して、外国総奉行も兼ねる事となった。直虎の洋学の見識がこの抜擢に繋がったと言われる。
 しかし、慶応4(1868)年1月12日に鳥羽伏見の合戦に敗れた徳川慶喜が江戸城に逃げ帰り、江戸城内で喧々諤々の議論が続いていた1月17日、直虎は評定の席で慶喜に何事かを言上した後、白装束に身を包み、江戸城西ノ丸老中詰所大廊下にて自刃して果ててしまった。
 直虎自刃の理由は、薩長への徹底抗戦を主張して却下されたからだとも、逆に朝廷への恭順を主張して却下されたからだとも言われるが、1月13日に自刃した土佐国新田(シンデン)藩主山内豊福(ヤマウチトヨトシ)と並んで、維新時に自決した数少ない大名として注目される。
 直虎の死後、廃絶を恐れた須坂藩は新政府に恭順し、同年3月、小林季定を隊長として新政府軍に兵を送って下野と下総において徳川軍と合戦、4月には清須勝祥麾下部隊が信濃国飯山に出兵後、越後を経て会津に至りそれぞれに戦功を挙げた。須坂藩が新政府軍に送った藩士数は信濃諸藩では突出していたため、同年5月、太政官より直虎の弟直明(ナオアキラ)の第14代藩主相続が許されたのみならず、5000石が加増されるに至った。明治2(1869)年6月、版籍奉還によって堀直明は藩知事となった。
 明治3(1870)年12月、近隣で相次いでいた暴動の影響を受けて1500人以上の農民が税法改正を求めて決起する須坂騒動が勃発、堀直明藩知事自らの説得にも耳を貸さず陣屋町中心部の約120戸が焼かれたり、壊されたりする騒ぎとなり、豪商田中本家の豪邸も焼亡してしまった。
 明治4(1871)年7月の廃藩置県で須坂は須坂県となり、須坂陣屋が県庁となったが、同年11月に長野県に合併され高井郡須坂村となった。
 東京に移住した堀直明は、明治10(1877)年に遠祖の旧姓である奥田を名乗る事となったが、これは兄直虎の自刃が新政府への徹底抗戦を主張した結果だとの噂が絶えなかったため、家名存続を図るための措置であった。初代須坂藩主堀直重の兄の系統である越後国村松藩主堀家と越後国椎谷(シイヤ)藩主堀家も同時に奥田姓に復している。
 明治14(1881)年、須坂藩旧家臣を中心に藩祖と直虎を祀る奥田神社が陣屋跡の一角に造営され、隣接して招魂社も建てられた。陣屋跡の中心部分は須坂小学校となったが、石垣の一部が現存し、大手門脇にあった長屋門形式の奥付門も遠藤酒造店に移築されて残っている。鐘楼は大正時代に少し場所を移転し、大東亜戦争中に鐘は供出されて時報は絶えたが、鐘楼は現存して須坂市指定文化財となっている。また、廃藩置県後に帰郷した江戸常勤下級藩士のために建築された足軽長屋も現存している。なお、最後の藩主奥田直明は明治17(1884)年に子爵に叙された。
 明治7(1874)年、青木甚九郎が上町で水車による機械製糸を開始、翌年には日本初の製糸結社東行社を設立した結果、製糸業が一挙に興隆する事になった。須坂産の美しい絹糸は欧米で珍重されて大量に輸出されたため、多くの製糸業者が須坂に壮大な蔵を建て、独特の街並みが形成され、東行社設立の地は青木小路と呼ばれるようになった。豪商田中本家も製糸業に参入して殷賑を極め、池泉回遊式庭園を備えた豪邸を再建、これは現存している。明治4(1871)年に県社に叙された墨坂神社(墨坂神社八幡宮)にも大宜津比賣命(オオゲツヒメノミコト)を祭る摂社養蚕社が建立された。
 明治9(1876)年、須坂村から須坂町に昇格し、明治12(1879)年からは上高井郡に属する事となった。
 明治10(1877)年に47だった製糸工場は、越寿三郎(コシジュサブロウ)が春木町に山丸製糸所を設立した明治20(1887)年には103にも増加し、後に山丸製糸所は電力製糸も行なうなどして大企業に成長した。
 大正時代にも須坂町は製糸業で繁栄し、大正10(1921)年には河東鉄道も開通したが、昭和4(1929)年に始まる世界恐慌で製糸業は壊滅的打撃を受けてしまった。
 昭和6(1931)年、大恐慌による失業者救済の公共事業として臥龍山西麓の須田氏館跡に人工池の竜ヶ池が開削され、須田城跡一帯が臥龍公園として整備された。
 大東亜戦争中は空襲を受けずに済んだため、戦後は疎開企業が中心となって電気部品工場が建設され、機械工業都市として再生、昭和29(1954)年に市制が施行された。その後は、昭和35(1960)年には須坂温泉が掘削されるなど観光業にも力が入れられ、平成時代に入ってからは古い街並みを「蔵の町」としてPRしている。
 なお、昭和28(1953)年、田中角栄衆議院議員が須坂藩江戸屋敷跡を故郷の越後国椎谷藩堀家の下屋敷跡と思い込んで購入、以後周辺の土地を買い占め始めたが、椎谷藩主の子孫から勘違いを指摘され、ガッカリしたというエピソードがある。その後、角栄はここに所謂「目白御殿」を建築する際、須坂の奥田神社に参拝、祭神の須坂藩主に「建築許可」を願い出ている。

・須田古城跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=65631294&comm_id=398257
・東行社跡
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・俊明社跡
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・臥龍山
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・臥竜山根あがりねじれ松
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・臥龍梅
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・墨坂神社社叢
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コメント(31)

22日土曜日に行って来ました。

墨坂神社です。社叢は須坂市指定天然記念物です。
左;俊明社跡〔須坂市指定史跡〕〔近代化産業遺産〕
中;芝宮〔郷社〕 祭神;墨坂大神
右;旧越家住宅〔登録文化財〕〔近代産業化遺産〕
左;太子堂〔須坂市指定文化財〕
中;塩屋醸造〔登録文化財〕
右;しらふじ〔登録文化財〕
須坂陣屋奥付門を移築した遠藤酒造場です。屋根瓦には藩主堀家の卍紋が刻まれています。
左;奥田稲荷 祭神;宇迦之御魂大神
中;足軽長屋 工事中でした。解体中だったのかも…。
右;奥田神社 祭神;堀直虎等
須坂陣屋跡です。鐘楼〔須坂市指定文化財〕と石垣が残ります。
左;旧高井郡役所
中;蝶の民俗館
右;同上
左;東行社跡〔須坂市指定史跡〕〔近代化産業遺産〕
中;田中本家〔登録文化財〕
右;田中本家 殿様お忍びの門〔登録文化財〕
田中本家〔登録文化財〕です。

左;主屋
中;離れ
右;お湯殿
田中本家〔登録文化財〕庭園です。

左;春の庭
中;夏の庭
右;秋の庭
田中本家〔登録文化財〕です。

左;夏の庭
中;秋の庭の花菖蒲
右;食事処「龍潜」やまどりのお雑煮点心 虹鱒付 2000円也
左;浄土真宗本願寺派大岩山普願寺 鐘楼〔須坂市指定文化財〕
中;普願寺 本堂
右;浄土真宗本願寺派大岩山円光寺 太鼓楼〔須坂市指定文化財〕

百々(ドド)川に架かる臥龍橋からの眺望です。

左;妙得山(標高1293.5m)
中;百々(ドド)川上流を望む 後方は四阿山(アズマヤヤマ;標高2354m)
右;雲に隠れる飯綱山(標高1917.4m)
須坂市歴史的建物園です。

左;越家長屋門
中;藩医板倉家住宅
右;同上 寺子屋として使用された二階の間
須坂市歴史的建物園です。

左;復元武家長屋
中;牧家住宅
右;カンナ
左;世界の民俗人形博物館ー小池千枝コレクションー 
中;林檎
右;須坂版画美術館・平塚運一版画美術館
アートパーク周辺の花々です。

左;コスモス
中;ノゲイトウ
右;シオン
左;臥龍山〔須坂市指定名勝〕
中;曹洞宗臥龍山興国寺 臥龍梅〔須坂市指定天然記念物〕
右;興国寺 山門
興国寺です。

左;観音堂
中;須坂藩第12代藩主堀直武夫妻墓
右;須坂藩第13代藩主・幕府若年寄堀直虎霊廟
須田城跡〔須坂市指定史跡〕です。土塁が残ります。
臥龍山〔須坂市指定名勝〕です。

左;根上りねじれ松〔須坂市指定天然記念物〕
中;百番観音〔須坂市指定文化財〕
右;須坂市立博物館
臥龍公園〔須坂市指定名勝〕龍ヶ池です。菊花展も行われていました。
左;ふれあい館まゆぐら(旧田尻製糸)〔登録文化財〕
中;須坂クラシック美術館(元牧新七家)〔須坂市指定文化財〕
右;牧新七家模型
須坂クラシック美術館〔須坂市指定文化財〕です。

左;土蔵
中;主屋
右;主屋内部
須坂温泉古城荘に宿泊しました。一泊二食で11650円でした。菊花展も行われていました。
【泉質】弱アルカリ性単純泉
【泉温】25.8℃
【効能】慢性関節リウマチ・慢性筋肉リウマチ・神経痛・外傷性障害・火傷・汗疹・疲労回復etc.
須坂温泉古城荘です。

左;庭園
中;大浴場
右;廊下に展示されている象牙
宿泊したのは506号室巨峰の間でした。眼下を渓流が流れていました。
 大浴場と中浴場がありますが、中浴場露天風呂からの眺望は見事でした。朝食も満足の行くものでした。

左;左;陣場平山(標高1257.5m) 右;飯綱山(標高1917.4m)
中;朝食
右;飯綱山
長野電鉄須坂駅です。コインロッカーはありませんが、一時預かり所があります。
須坂のお土産各種です。

左;越果樹園のかりんジャム
中;須坂温泉饅頭
右;贅沢ゆばのお吸い物

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