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城下町コミュの三河形原

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 三河国宝飯(ホイ)郡形原(カタノハラ)郷は、袋川右岸で縄文時代の大規模遺跡が発見されている事からも判るように太古から開けた地で、欽明天皇11(500)年に形原千方が東夷鎮定の大将となり当地に下向して、自らの祖先である天児屋根神(アメノコヤネノカミ)等を祭った形原神社〔延喜式内社〕を大沢山(93.3m)東南の平地に創建したとされる。
 平安時代末期には新羅(シンラ)三郎源義光の子武田義清の次男形原師光(カタノハラモロミツ)が下司を務め、久安5(1149)年に居館を三河湾に突き出た小高い海岸段丘上に築き統治にあたったとされる。
 長享年間(1487〜89)に松平氏第3代松平信光の四男である松平与副(トモスケ)が師光の館跡に平山城の形原城を築き、以後、与副の子孫である形原松平氏が代々城主を務め750貫の所領を治めた。形原松平氏の菩提寺は浄土宗鎮西派法林山樹祥院光忠寺であった。
 形原松平氏の第3代親忠は、宗家の松平清康に仕えたが、天文4(1535)年に守山城で清康が殺害されると、嫡子松平家広の妻として水野忠政の娘を迎えるなど、西三河へ勢力を拡大する織田信秀との接近を図った。
 第4代家広の代には三河を支配下に置いた今川義元に服したが、永禄3(1560)年に義元が桶狭間の戦いで敗死し、岡崎で松平宗家の松平元康(徳川家康)が自立すると、家広は元康の配下に入った。このため激怒した今川氏真は駿府で人質とされていた家広の次男を見せしめのため形原城から見下ろせる稲生の浜で串刺しにして処刑したと言われる。
 永禄12(1569)年に今川氏真が遠江国掛川城で家康に降伏した際には、家広の長男で形原松平家第5代当主となっていた家忠は、弟の仇である氏真を北条氏康領の伊豆に送り届ける任務を果たした。
 天正5(1577)年、家忠の嫡男で13歳の家信が北条氏政の刺客明鳥佐馬之助に襲われる事件が起きたが、家信の乳母お妙の方が身を以って庇い、事無きを得た。家信は英才を持ちながら短気で我儘だったため家臣に嫌われていたが、この事件を機に悔悛して言動を改めたとされる。お妙の方の亡骸は城を守る守護神として城内に手厚く葬られ、墓標代わりに桜の若木が植えられた。この桜は「お妙桜」と呼ばれ、春に花が咲くごとにお妙を回想して限りない敬意を払いその霊魂を慰めたと伝えられている。
 家信は、天正10(1582)年3月の武田勝頼攻めで活躍した後、同年11月に第6代家督を相続、天正12(1584)年の小牧長久手の合戦や天正18(1590)年の小田原攻めでも手柄を立て、徳川家康の関東移封に従って上総国五井(ゴイ)5000石を領する事となった。
 なお、天正年間(1573〜92)に曹洞宗円通山補陀(ホダ)寺の祖丘禅師が夢のお告げによって湯を掘り当て、形原温泉が誕生している。
 一方、形原城は吉田152000石池田輝政の支配下に入ったが、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦後、輝政が播磨国姫路520000石に転ずると、翌年、家信が形原城に戻り、5000石の旗本となった。この際、家信は城下町拡大のため、形原神社を大沢山東側中腹の現在地に遷したという。元和4(1618)年、家信は安房国で5000石を与えられて計10000石を領する大名に列したため、形原藩が成立した。
 しかし、翌元和5(1619)年に家信は摂津国高槻20000石に移封となって形原を再び離れる事となり、これに伴って形原城も廃城となった。
 代わって、長沢松平清直が5000石で形原に入部して城跡北方の西御屋敷に陣屋(前期形原陣屋)を構え、参勤交代を行なう交替寄合として大名並みの家格を有した。陣屋東隣には京都伏見稲荷大神を勧請(カンジョウ)した御屋敷稲荷神社が創建された、
 慶安4(1651)年、清須が清直の後を継いだ際、弟の親明に700石が分与され、延宝元(1673)年に無嗣断絶したため、形原村は天領となった。
 延宝8(1680)年、大給(オギュウ)松平乗親が5000石で形原陣屋に入部したが、この家は正徳2(1712)年に至り、一族間の不和を理由として改易され、形原は再び天領となった。
 享保3(1718)年、形原は旗本壷井氏の所領となったが、壷井氏は江戸常勤で形原には入部しなかった。
 享保9(1724)年、8代将軍吉宗の母於由利の方の甥に当たる旗本巨勢至信が2000石で形原に入部し、旧陣屋の北方にある御嶽の地に新たな陣屋(後期形原陣屋)を設けた。至信は享保17(1732)年に5000石に加増され、その子孫が廃藩置県まで領主を務めたが、江戸に滞在する場合が多く、形原の施政は小林武右衛門・小林鶴之進・吉見郡助等の代官が行う場合が多かった。
 明治4(1871)年、額田(ヌカタ)県宝飯郡形原(カタハラ)村となり、翌年、愛知県に編入された。村役場は御嶽の陣屋跡に置かれた。明治22(1889)年には一色村・金平村を合併している。
 なお、形原神社は明治4年に郷社に列し、大正12(1923)年に県社へ昇格している。毎年4月の第1土日曜に行なわれる祭礼は、船形の山車を引く珍しい祭で、海上安全や豊漁を祈り、賑やかに祭りが行なわれている。
 明治32(1899)年、麻綱横踏式紡機が村内で発明されたのを機にロープが特産品となり、大正13(1924)年には町制が施行されている。
 昭和15(1940)年に城跡にお妙の方の記念碑を建てる際、五輪塔が発掘され、お妙塚と命名されて、以後毎年2月第一日曜日には供養が営まれている。
 大東亜戦争(1941〜45)中は軍用ロープ生産で活況を呈したが、昭和20(1945)年1月13日の三河地震で大損害を受けた。
 また、江戸時代後半に枯渇してしまっていた形原温泉は昭和26(1951)年に補陀寺境内で再び湧出が見られ、昭和29(1954)年には南方の西浦半島でも西浦温泉が湧出、観光地として脚光を浴びる事となったが、昭和37(1962)年、蒲郡市に合併された。 
 形原城跡〔蒲郡市指定史跡〕には一の曲輪・二の曲輪の痕跡が残り、その西側に大規模な曲輪があったと考えられ、「北古城」「南古城」などの地名もそれに由来すると考えられている。本丸跡には稲荷神社が建つ。また、海は埋め立てによって城跡から200m程遠ざかっている。
 また、前期陣屋は痕跡を残していないが、後期陣屋は石垣の一部が残存している。
 補陀寺一帯には50000株もの紫陽花が植えられ、東海地方随一の紫陽花の名所としても知られる。

・形原城跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=62914342&comm_id=398257
・三河地震の地割れ
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=62898297&comm_id=320240
・無量寺の大クス
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63141616&comm_id=320240
*城下町三河蒲形(西郡)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63486144&comm_id=194642

コメント(26)

10日金曜日に行って来ました。

曹洞宗円通山補陀(ホダ)寺です。

左;山門
中;観音堂と庭園
右;本堂
あじさいの里形原です。紫陽花は四分咲きくらいでした。
あじさいの里形原です。補陀(ホダ)池の周囲が一番見事でした。
あじさいの里形原です。各種の品種展示も行われていました。

左;伊豆の華
中;小町
右;グレイス

あじさいの里形原です。

左;ジューンブライド
中;ハワイアンアレンジ
右;モナリザ
左;あじさいの里形原
中;あじさいの里形原 ブルーピコティ
右;あじさいの里形原 夜間ライトアップされた紫陽花
三河地震の地割れ〔蒲郡市指定天然記念物〕
形原神社〔延喜式内社〕
祭神;埴安大神(ハニヤスオオカミ)・朝廷別王命(ミカドワケノキミノミコト)・誉田別命(ホンダワケノミコト)・豊受姫大神・天児屋根神(アメノコヤネノカミ)

左;二の鳥居
中;拝殿
右;本殿
 蔵王権現を祭る御嶽(ミタケ)神社です。ここは後期形原陣屋跡で、神社や周辺の石垣は陣屋時代の物の可能性があります。
稲荷神社 祭神;宇迦之御魂大神

前期形原陣屋の跡で、陣屋の物の可能性がある土塁や石垣があります。
形原城跡〔蒲郡市指定史跡〕です。

外郭土塁です。
 形原城跡です。城跡には古城稲荷社(祭神;宇迦之御魂大神)が建ちます。城跡からは形原漁港大橋等を見下ろす事が出来ます。

 形原城跡の石垣は、往時の物の可能性もあります。一の曲輪の土塁の保存状態は良好でした。
形原城一の曲輪には城跡碑、二の曲輪のはお妙塚があります。
左;名鉄蒲郡線形原駅
中;浄土宗鎮西派法林山樹祥院光忠寺
右;名鉄蒲郡線西浦駅
真言宗醍醐派西浦山無量寺です。癌封じの寺として信仰を集めています。

左;山門
中;大雁塔
右;本堂
無量寺の大クス〔蒲郡市指定天然記念物〕です。
11日に再訪したあじさいの里形原の夜景です。
 あじさいの里形原の「蛍の宿」です。バルブ撮影してみましたが、ホタルの数が少なかったので、何の事やら判りませんね…。
吉宗ゆかりの地とは知りませんでした〜
立派な「城址」碑ですなあ。
なお、補陀寺は熊野の補陀洛山寺となんらかの関係があるんですかね?
ブルースカイ様
 巨勢至信は元々紀州藩士だったのが、吉宗の将軍就任に伴い、旗本に取り立てられました。
 補陀寺は熊野の補陀洛山寺と直接の関係はありませんが、南海補陀洛山に住む観音菩薩を祭っている点は共通していますね。三河湾で補陀洛渡海が行なわれた記録はありませんが…。
大審問官さん
ありがとうございます。
それでは紀州ゆかりの巨勢氏の入城とともにお寺も建立されたわけなんですかね?
 いえ。補陀寺の創建は非常に古く、寺伝によれば奈良時代の神亀3(726)年に行基菩薩が開いたとされているんですわ。
そうなんですか。
ありがとうございます。

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