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城下町コミュの播州山崎

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 揖保(イボ)川中流域に位置する小盆地の播磨国宍粟(シサワ)郡山崎は、古来、因幡街道を介した山陽と山陰の結節点を成す交通の要地であった。
 元弘年間(1331〜34)に土豪の釜内氏が盆地北側に聳える標高320mの篠の丸山頂に篠の丸城を築き、貞和年間(1345年〜1350年)頃に播磨守護赤松円心の次男貞範によって本格的な中世山城として整備された。
 円心の後、長男の範資、次いで三男の則祐が播磨守護となったが、則祐は、範資の次男広瀬師頼に命じて篠の丸城北方の長水(チョウズイ)山(標高585m)に長水城を築かせて篠の丸城主を兼ねさせ、以後、広瀬氏が両城主の座を世襲した。
 嘉吉元(1441)年、播磨守護赤松満祐が将軍足利義教を殺害する嘉吉の乱を起こすと、播磨国は幕府軍の猛攻を受け、広瀬満親・親茂父子の拠っていた長水城・篠の丸城も落城した。
 この結果、播磨守護には山名持豊が就任するが、文明元(1469)年に至って赤松満祐の甥である政則が播磨守護に就任し、播磨国西八郡守護代に宇野祐秀氏を任命、祐秀は長水城を居城とし、篠の丸城はその支城となった。明応2(1493)年には、宇野氏配下の下村則真によって篠の丸城東方に出城として聖山(ヒジリヤマ)城が築かれている。
 以後、宇野氏は長水城主を世襲したが、天文7(1538)年、守護赤松政村が山陰の覇者尼子詮久(晴久)に敗れて逃亡すると、宇野村頼は詮久に臣従を誓って本領を安堵された。また、この頃、山崎盆地中央部の丘である鹿沢の地に小規模な砦が建設された。
 永禄9(1566)年、尼子義久が毛利元就に滅ぼされると宇野政頼は元就に臣従、嫡男の満景を篠の丸城主とするなどして西北播磨の支配権を固め、120000石を領する有力領主に成長した。
 しかし、永禄11(1568)年、織田信長が上洛して畿内の覇権を握ると、宇野氏内部では毛利輝元への臣従を続けようとする政頼と、信長に付こうとする満景との間に対立が起こり、天正2(1574)年、政頼は満景を殺害してしまった。
 天正4(1576)年、信長の命を受けた羽柴秀吉による播磨攻略戦が開始されても、政頼は毛利陣営に属して徹底抗戦を継続したが、天正8(1580)年、秀吉軍の猛攻撃を受け、4月に鹿沢砦・聖山城・篠の丸城、5月に長水城が陥落、政頼は美作へ逃れようとしたが、秀吉軍に追いつかれ、一族郎党悉く討ち死にして宇野氏は滅亡してしまった。
 秀吉は長水城・聖山城・鹿沢砦を廃城とし、子飼い部将の神子田正治(ミコダマサハル)を5000石で篠の丸城主としたが、その直後に信長の命で、黒田官兵衛孝高(ヨシタカ)が30000石で篠の丸城主となった。
 秀吉が天下を取った後、孝高は天正15(1587)年に豊前中津125000石の領主に転じ、北政所の甥に当たる播磨国竜野城主木下勝俊が篠の丸城も支配下に置いたが、勝俊は鹿沢砦のあった地に山崎城を築き、篠ノ丸城は廃城となった。この時から山崎には城下町が形成されるようになった。
 文禄2(1593)年、小出吉政が木下勝俊に代わって20000石で竜野城主となると、山崎城もその支配下に置かれたが、文禄4(1595)年に吉政は但馬国有子山60000石に転じ、山崎城は木下勝俊の父で姫路25000石の城主である木下家定の配下に置かれた。
 なお、垂加神道の創始者である山崎闇斎(1619〜82)の曽祖父浄栄は山崎の人間で、長水城主宇野氏に仕え、祖父浄泉は木下家定に仕えた。父浄因は家定の次男で若狭高浜20000石の領主となった利房に仕えたが、利房が慶長5(1600)年の関ヶ原の戦で西軍に属して改易されたため、京都で浪人生活を送り、闇斎はその時に生まれた。闇斎は自ら「播州山崎出身」と称していたため、彼を祭る闇斎神社が建立されている。
 木下家定は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦の後、備中足守25000万石に転じ、山崎城は520000石で姫路藩主となった池田輝政の支配下に置かれた。輝政は、毎月2・7・12・17・22・27の各日を山崎城下町の市日と定めると共に、町民の諸役免除を規定したため、山崎城下町は大いに発展する事となった。
 輝政は元和元(1615)年に四男輝澄へ38000石を分与して山崎藩が成立し、山崎城は本格的近世城郭に大改造される事となった。鹿沢は揖保川と菅野川に挟まれた河岸段丘であるが、城はその南半分に位置し、川に面した崖の部分には石垣を築き、その南端に本丸を設置、続いて北側に東西に広がる形で二の丸・三の丸を設置し、その境目には揖保川から引いて構築した堀が巡らされた。更にその北側には武家屋敷、外堀を挟んだ北側には城下町が広がっていた。
 城下町は、本町・山田町・北魚町・紺屋町・富士野町・大雲寺町・籠町の七つから成っていた。
 元和7(1621)年には城下町在住の龍野屋孫兵衛により揖保川水運が開かれ高瀬舟の就航が可能となって郡内の物資の集積地としてより一層の発展が進んだ。
 輝澄は寛永8(1631)年に赤穂藩に転封となった弟輝興の所領佐用郡平福30000石を加増され、68000石を治める事となった。この結果、城下町も拡大され、西方に佐用町・門前町、東方に高野町が新設されて、城下町は10町となった。また、城下町北方にも武家屋敷群が設けられた。
 しかし、山崎藩では、加増により新規に召し抱えた家臣団と譜代の家臣団との対立が表面化し、寛永17(1640)年に池田騒動と呼ばれる御家騒動に発展、輝澄は改易されて甥である鳥取藩主池田光仲預かりとなり、鳥取藩内の鹿野に堪忍料10000石を与えられた。このため山崎城の工事は未完のまま打ち切られる事となった。
 山崎城には代わって和泉国岸和田藩より松平康映が50000石で入封した。康映は城下町の東・西・北に木戸を設け、侍屋敷との間には門番を置いて、城下町のエリアを厳格化している。康映は慶安2(1649)年に石見国浜田藩に転封となり、備前国児島藩より池田恒元(輝政の孫)が30000石で入封した。当時の城下町の戸数は305で、知行取藩士屋敷は146戸、無足武士が87戸であった。
 池田家3代目の恒行は延宝6(1678)年に幼少で没し末期養子もなかったため改易となった。
 この結果、翌延宝7(1679)年、大和国郡山藩より本多忠英が10000万石で入封、山崎城を縮小して陣屋に改めた。この際、城下町北方にあった武家屋敷群は撤去されて農地化されている。忠英は質素倹約に努めたが、宝永元(1704)年に城下町の大半が焼失する大火事が発生して藩政は窮乏する事となった。大火の後、城下町には出水町が新設され、合計11町となった。
 忠英の長男忠良は越後国村上藩50000石の藩主となったため、山崎藩主の座は次男の忠方(タダミチ)が継いだ。
 5代藩主忠可(タダヨシ)は、中級藩士であった佐藤善五右衛門を家老に登用して大規模な藩政改革を実施、心学を中心とした文武を奨励し、教育を武士だけにではなく領民にも広めた。さらに藩士から借り米の半減を実施し、倹約を行なって株仲間を公認するなどして財政再建に大きな成功を挙げた。このため、天明2(1782)年に天明の大飢饉が起こった時には、山崎藩は被害を最小限に食い止めたと言われている。忠可は老中松平定信とも親交があったため、この改革の成功の手腕を買われて、寛政の改革では側用人・大番頭として幕政に参与した。
 6代忠居(タダオキ)は暗愚な人物で、讒言を信じて功臣佐藤善五右衛門を誅したため藩財政は破綻、さらに大番頭となったものの文化5(1808)年に11代将軍徳川家斉に対して不敬な態度を取ったため、家斉の怒りを買って奉公する必要なしとまで言われるなど失態を重ねた。
 7代忠敬(タダタカ)の時には火事で江戸藩邸が焼失するなどして藩財政が一層悪化したため、半知を行なうなどの処置をとった。
 8代忠鄰(タダチカ)は藩校思斎館を開き、藩財政再建にも尽力した。元治元(1864)年の第一次長州征伐に出兵、武功を挙げたが、出兵費用が藩財政を破綻させ、慶応2(1866)年の第二次長州征伐には戦費不足から出兵出来ない事態に陥った。
 慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いにおいては、新政府支持を表明したが、結局、戦費不足で出兵出来なかった。
 明治4(1871)年、廃藩置県により山崎県となり、その後、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入、宍粟(シソウ)郡山崎町となった。
 山崎町には鉄道が設置されなかったため、明治以後は停滞した状態が続いていたが、昭和50(1975)年に開通した中国自動車道と国道29号線のクロス地点に山崎ICが設けられたため、交通の要地としての地位を取り戻した。
 平成17(2005)年に周辺3町と合併して宍粟市となり、山崎町役場が市役所となった。
 山崎陣屋跡には山崎歴史郷土館や山崎歴史民俗資料館が建ち、紙屋門が現存するほか、石垣と堀跡が一部残る。
 大歳神(オオトシノカミ)を祭る大歳(ダサイ)神社の千年藤〔兵庫県指定天然記念物〕、播州山崎花菖蒲園等の花の名所があり、篠の丸城跡は最上山公園として紅葉の名所となっている。

*大歳神社の千年藤
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=52479123&comm_id=320240

コメント(20)

8日土曜日に行って来ました。

大歳神社です。

左;一の鳥居
中;拝殿
右;本殿
大歳神社の千年藤〔兵庫県指定天然記念物〕です。
山崎陣屋跡です。

左;大手前
中;模擬石垣
右;内堀跡
山崎歴史郷土館です。

左;藩主本多家家宝
中;市立図書館の二階にあります。
右;山崎闇斎木像
陣屋だったところですが、たいへん立派な「大手前」の石碑。
すごいですね〜
ブルースカイ様
 本来は立派のお城だったのが陣屋に格下げされたものですから、スケールは大きいですね。
山崎陣屋跡です。

左;石垣
中;土塀〔宍粟市指定文化財〕
右;絵図
山崎陣屋跡です。

左;城跡碑
中;紙屋門〔宍粟市指定文化財〕
右;本丸跡石碑
山崎陣屋跡です。

左;石垣
中;御殿跡
右;御殿跡庭園
山崎闇斎を祭る闇斎神社です。

左;神門
中;山崎闇斎銅像
右;本殿
左;因幡街道・美作街道追分
中;宍粟橋より揖保川上流を望む
右;聖山城登山口
左;聖山城跡(標高166m)
中;篳篥(ヒチリキ)神社 祭神;伊和大神(大国主命)
右;聖山城石垣
左;聖山城跡から長水(チョウズイ)城跡を望む
中;聖山城跡から篠ノ丸城跡を望む
右;聖山城本丸跡
播州山崎花菖蒲園です。

左;白藤
中;サクラソウ
右;カキツバタ
播州山崎花菖蒲園の西洋シャクナゲです。

左;ウィルゲンスルビー
中;フィリスコーン
右;アンジェリカ
揖保(イボ)川に架かる河東大橋からの眺望です。

左;篠ノ丸城跡を望む
中;長水城跡を望む
右;揖保川下流
 篠ノ丸城の曲輪だった最上山(サイジョウサン)公園です。時間切れで本丸まで登るのは断念しました。

左;生谷(イギダニ)橋より伊沢川上流を望む
中;生谷(イギダニ)温泉伊沢の里
右;同上
生谷温泉伊沢の里は素泊まりも可能な日帰り温泉です。
ナトリウム・塩化物泉 泉温17.3℃

附属のレストラン伊沢で鴨カツ定食850円也を食べました。ミンチカツです。

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