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城下町コミュの丹波栢原(カイバラ)

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 丹波国氷上郡栢原は、加古川支流の栢原川流域の小盆地で、少し北方の石生(イソウ)が日本海側との分水嶺になっている。
 平安時代には安田園と呼ばれ、石清水八幡宮の荘園となっていたため、万寿元(1024)年に石清水八幡宮の分霊を祀った栢原別宮として栢原八幡神社が標高140mの入船山(八幡山)に創建されている。
 鎌倉時代に入ると栢原荘と呼ばれるようになったが、石清水八幡が本所であり続けた。
 南北朝時代に八幡山には南朝方の荻野安芸守が八幡山砦を築いて足利方に対抗したが、貞和元(1345)年に足利軍の攻撃で落城、その際に栢原八幡神社の社殿も焼失してしまった。その後、社殿は再建され、神社の参道沿いに門前町が形成されて栢原の町並みの原型が成立した。
 天正6(1578)年になると、織田信長から丹波平定を命じられた明智光秀が氷上郡攻略の拠点として金山城を築き、さらに翌年、黒井城の赤井氏撃滅の前進基地として栢原八幡宮の社殿を破却して八幡山城を築城、八幡山の北に延びる尾根にも砦を築いた。
 光秀は天正7(1579)年6月に波多野氏の拠る八上城を攻略した後、同年8月に八幡山城を拠点として黒井城を攻略、丹波平定を実現した。この結果、八幡山城は短い役割を終え、機能は全て金山城へ移ったと推定されている。
 天正10(1582)年、羽柴秀吉が覇権を握ると黒井城主堀尾吉晴に八幡山城を破却して栢原八幡神社を再建する事を命じ、3年後に社殿が完成した。
 そして栢原の地は太閤蔵入地とされたが、慶長3(1598)年に秀吉の御伽衆だった織田信包(ノブカネ;信長の弟)が36000石で封じられた。信包は伏見・大坂に居住していたが、栢原には小規模な城が築かれ、奥村川を堀として利用するため拡幅工事が行なわれた。こうして新たに設けられた武家町が栢原八幡神社の門前町と連結して城下町が成立した。
 信包は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では西軍に与したにもかかわらず改易されずに済み、大坂城で豊臣秀頼を補佐したが、慶長19(1614)年の大坂冬の陣直前に急死したため、毒殺の噂も流れた。
 信包の死によって栢原藩主の座を受け継いだ息子の織田信則は大坂冬の陣に際し、徳川方に付いたため本領を安堵され、第3代藩主織田信勝の時代に治水工事や新田開発などが行なわれて藩政の基礎が固められたが、信勝は慶安3(1650)年に嗣子無くして死去してしまったため、栢原藩は廃藩となり、その所領は天領化されて栢原城(陣屋)も廃城となった。その際、信勝の叔父信当(ノブマサ)が氷上郡谷川に3000石を与えられ、旗本の身分とされた。信包〜信勝の墓所は臨済宗妙心寺派恵照山成徳寺にあり、信勝は街の中心部にある織田神社の祭神にもなっている。信包に始まる栢原藩を前期柏原藩と呼ぶ。
 その後、元禄8(1695)年に至り、大和国宇陀松山藩29000石の織田信休(ノブヤス)が、宇陀崩れと言われる御家騒動の結果、20000万石で栢原に減転封され、栢原藩が復活した。これが後期栢原藩で、信休は、信長の次男信雄(ノブカツ)の子孫である。
 信休の柏原移封は懲罰によるものだったため、当初は幕府による陣屋建設の許可が下りず、信休は栢原八幡神社門前町の田忠助(デンチュウスケ)邸を仮御殿、井尻屋文七の屋敷を仮公儀所としていた。信休は藩財政窮乏の中で藩政の基盤固めに努めたが、大洪水や旱魃などが相次ぎ、元禄9(1696)年には年貢軽減を求める愁訴が起こった。
 正徳3(1713)年に至って漸く幕府から陣屋建設の許可が下り、翌年、信休は大内山西麓に陣屋を完成させた。竣工を祝って行なわれた踊りが栢原踊りと呼ばれて現在まで続いている。
 その後も栢原藩では藩財政の窮乏化が進み、藩士数や俸禄の削減、藩札の発行などの諸改革を断行したが効果は無く、第4代藩主信憑(ノブヨリ)時代の文政7(1824)年には物価高騰に反対する百姓一揆が起こった。
 第5代藩主信守はこのような中で奢侈に走って藩政に関心を示さなかった上、その快楽のために百姓に重税を強いたため、領民は信守を恨んだ。しかも信守が愛妾の保野を寵愛して政務にまで関与させた結果、藩主の地位を巡っての争い(秘命騒動)や保野騒動が起こり、藩政は大いに乱れる事となった。
 第6代藩主信古(ノブモト)の時代には先代の信守のツケに加えて藩札の発行により藩経済が大混乱し、天保4(1833)年には遂に百姓の怒りが爆発して、打ち壊し騒動が発生した。
 このような中、第7代藩主織田信貞の末期養子として第8代藩主となったのが肥後国宇土藩主細川行芬(ユキカ)の子である信敬(ノブノリ)で、小島省斎と協力して倹約を主とする藩政改革を断行、藩内で文武を奨励し、藩校として又新館を設立したが、18歳で早世してしまった。
 このため、筑前秋月藩主黒田長元の四男信民が末期養子として第9代藩主となり、信敬の遺志を受け継いで新たに藩校崇広館を設立し、小島省斎と共に藩政改革に臨んだが、やはり26歳で早世、旗本山崎治正の三男信親が末期養子として第10代藩主となった。
 信親は尊王攘夷派であり、慶応3(1867)年に王政復古の大号令が出されると直ちに新政府支持を表明、慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦には新政府側で参戦している。
 明治3(1870)年に「栢原」は「柏原」に改められた。
 明治4(1871)年、廃藩置県により柏原藩は柏原県となり、直後に豊岡県に編入、さらに兵庫県氷上郡柏原町となった。
 陣屋建造物は小学校校舎に転用され、大書院の一部と長屋門が現存するほか、太鼓櫓も移築されて現存している。織田信休から信民までの歴代藩主の菩提寺は臨済宗長泉山徳源寺だったが、維新後に廃寺となり、廟所のみが残されている。
 平成2(1990)年、陣屋長屋門正面に柏原歴史民俗資料館が建設され、柏原藩主織田家に伝来する武具・古文書・城下古絵図などの歴史資料、及びおよび柏原町の歴史・民俗・考古に関する資料の保管・収集・調査研究・公開が行なわれている。平成9(1997)年には栢原出身の江戸時代の「女六歌仙」あるいは「元禄の四俳女」の一人とされる俳人田捨女の300回忌を記念して「田ステ女記念館」が併設された。田家伝来の資料を中心に展示し、彼女の生涯を紹介している。
 平成16(2004)年、周辺自治体と合併して丹波市が成立した。

*柏原藩陣屋跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=51592455&comm_id=398257
+大ケヤキ(木の根橋)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=51614805&comm_id=320240
・織田家廟所
 http://mixi.jp/list_bbs.pl?id=398257&type=bbs
・織田信勝墓(宝篋印塔)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=51722764&comm_id=398257

コメント(13)

27日土曜日に行って来ました。

左;JR福知山線柏原駅 旧「国際花と緑の博覧会」ドリームエキスプレス「山の駅」駅舎
中;俳人田ステ女(デンステジョ;1633〜1698)銅像
右;レストラン山の駅 丹波猪(シシ)ラーメン 950円
左;石田大蔵神社 旧柏原陣屋太鼓櫓〔丹波市指定文化財〕
中;同上
右;木の根橋〔兵庫県指定天然記念物〕
左;織田神社 祭神;織田信勝
中;信なが君
右;建勲神社 祭神;織田信長
柏原八幡神社〔県社〕 祭神;誉田別命・息長足姫命・姫三柱之命

左;一の鳥居
中;三重塔〔兵庫県指定文化財〕
右;拝殿〔重要文化財〕
柏原八幡神社

左;狛犬〔丹波市指定文化財〕
中;本殿〔重要文化財〕
右;狛犬〔丹波市指定文化財〕
八幡山城跡

左;石垣
中;大堀切
右;土塁
左;後期栢原藩主織田家廟所〔丹波市指定史跡〕 左から2代信朝・初代信休・3代信旧
中;旧氷上高等小学校校舎〔兵庫県指定文化財〕
右;柏原町歴史民俗資料館
柏原町歴史民俗資料館

左;織田信長所用硯箱
中;柏原陣屋復元模型
右;田ステ女木像
左;田ステ女石像
中;田ステ女句碑「葉月 十五夜『いつかいつか いつかと待ちし きょうの月』」
右;柏原町道路元標
柏原陣屋〔史跡〕

左;長屋門〔兵庫県指定文化財〕
中;表御殿
右;表御殿書院上の間
左;模擬太鼓櫓
中;模擬太鼓櫓 ロボットによる太鼓演奏
右;新町高灯篭〔丹波市指定文化財〕
臨済宗妙心寺派恵照山成徳寺

左;山門・本堂
中;織田信勝墓〔丹波市指定史跡〕
右;枯山水庭園
左;五社稲荷神社〔丹波市指定文化財〕 祭神;宇迦之御魂神
中;レストラン山の駅 鹿ゲッティー 900円 鹿肉ミンチ入り
右;柏原駅にて 新大阪行き特急〔文殊2号〕

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