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城下町コミュの伏見

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 宇治川北岸の伏見の地は、古来内陸水運の要地ではあったが、平安京の外港の役割は主に西方の鳥羽が果たしていた。
 しかし、文禄元(1592)年、関白位と聚楽第を甥の豊臣秀次に譲った太閤豊臣秀吉が宇治川沿いの低地丘陵である指月山に隠居城として伏見城を築城したため、城下町として発展し、京都の外港の役割を完全に西方の鳥羽から奪う事になった。
 文禄4(1595)年、関白秀次が処断されて聚楽第が破却されると、その建物の一部が移築されて壮大な城郭が形成された。
 ところが、慶長元(1596)年の大地震で天守閣以下が倒壊したため、約500m離れた木幡山(現;桃山)に新たな伏見城が築城し直された。この際、平安遷都を行った人皇第50代桓武天皇の柏原陵が相当程度破壊されたと推定されている。
 慶長3(1598)年、秀吉がこの城で死去すると五大老筆頭の徳川家康が伏見城に入って政務を統轄したため、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦に際し、西軍の猛攻を受けて落城・焼失してしまった。
 このため、慶長6(1601)年、徳川家康によって再建され、慶長8(1603)年の家康、慶長10(1605)年の秀忠の将軍宣下の儀もここで行われた。
 慶長20(1615)年の大坂夏の陣の後、伏見城の役割は大坂城へ移り、江戸幕府にとってこの城の重要性は薄れたため、元和9(1623)年の家光の将軍宣下の儀に用いられた後、大御所徳川秀忠の決定によって寛永2(1625)年に廃城となって破却された。城跡は農地とされ、桃が植えられたため、桃山と呼ばれるようになった。
 伏見城の遺構は全国各地に移築されたが、城下の御香宮神社の表門〔重要文化財〕は大手門を移築したものである。
 その後、伏見には奉行所が置かれ、武家諸法度で大名が無断で洛中に入る事が禁じられたために西国大名が参勤交代の際に必ず伏見を通過する事となって、宿場町・港町として殷賑を極めた。
 天明5(1785)年には、幕府伏見奉行小堀政方(マサミチ)の失脚を企んだ町人達が江戸に上り、寺社奉行の松平伯耆守に直訴を強行して獄死した「伏見義民」事件が起き、老中松平定信の決定で、小堀遠州政一以来続いた1万石余の近江国小室藩主小堀家は減封されて旗本に格下げされた。
 幕末の文久2(1862)年4月23日には有馬新七等の薩摩藩過激尊攘派藩士が島津久光の命で粛清された寺田屋事件が起きた事は有名である。寺田屋では慶応2(1866)年1月23日にも、土佐藩浪士坂本龍馬を伏見奉行所の幕吏が捕縛しようとして取り逃がす事件が起きている。なお、寺田屋は現在も旅館として営業中で、幕末の建物をそのまま使用していると称し、事件当時の弾痕や刀傷なるものも残されているが、実際には事件当時の建物は鳥羽伏見の戦で焼失しており、現在の物は明治時代の再建である。
 慶応4(1868)年1月の鳥羽伏見の戦に際しては、伏見奉行所を本陣とした会津藩兵・桑名藩兵・新選組を主力とする幕府軍と、御香宮神社を本陣とする長州藩兵の間で激戦が展開され、市街の多くが炎上してしまったが、明治時代になると内陸水運の拠点として復興した。
 大正時代初期には伏見城本丸跡に明治天皇の伏見桃山陵が造営され、昭和初期には、その東隣に明治天皇皇后一条美子(昭憲皇后)の伏見桃山東陵も造営された。
 大正7(1918)に始まった洪水防止のための淀川改修増補工事の一環として、大正11(1922)年から着手した宇治川右岸の観月橋〜三栖の間の築堤工事により、伏見港のある濠川と宇治川との間に水位差が生じ、船の通航が出来なくなったため、淀川へと繋がる宇治川と濠川との間を船が通航出来るよう、昭和4(1929)に宇治川と濠川との合流点に三栖閘門(ミスコウモン)が建設された。二つの閘門に挟まれた水路に船が入り、水位の高低差を調整して往き来するシステムで、有名なパナマ運河と同じ方式である。
 1960年代に入って淀川の貨物船の運行が終焉すると、伏見港も埋め立てられて、閘門も無用となったが、伝統ある伏見の舟運を象徴する公園として整備される事となり、平成15(2003)年に伏見港公園がオープンした。無料の資料館も併設されており、動態模型で船の閘門通過の様子を見る事が出来る。
 淀川水運廃止後の伏見は京都・大阪のベッドタウンとしての性格が強まったが、豊かで清らかな水を利用した酒造業等の伝統産業も盛んである。
 昭和32(1957)年、伏見奉行所跡に市営住宅が建設された際に初代伏見奉行小堀遠州が造っていた石庭遺構が発見されたため、造園家中根金作の手によって、御香宮神社境内に再現された。
 昭和39(1964)年に遊園地伏見桃山城キャッスルランドが建設され、園内には五重六階の大天守と三重四階の小天守・櫓門等を伴った模擬天守がRC造で造られた。平成15(2003)年、伏見桃山城キャッスルランドは、経営母体である近鉄のリストラの一環として閉園とされたが、伏見桃山城は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり取り壊しを免れ、京都市が無償で譲り受けたが老朽化で内部は非公開となっている。 平成19(2007)年10月には時代劇映画『茶々 天涯の貴妃』撮影のため、望楼の下に虎の装飾や鯱を金色に塗り替えるなど大坂城に見立てて改装され、約1億円の改修費は東映が負担した。
 水路を巡る観光用の十石舟や三十石舟も運行されている。

コメント(24)

5月2日に訪れました。

左;三栖神社 祭神;天武天皇
中;三栖閘門(ミスコウモン)
右;伏見港公園
左;黄檗宗天王山仏国寺 仏殿
中;仏国寺 高泉銅碑〔重要文化財〕
右;浄土宗至心山清涼庵本堂 初代尾張藩主徳川義直誕生地
伏見城北側外堀を利用した伏見北堀公園です。
5月5日に再訪しました。

左;月桂冠大倉記念館
中;同上
右;両替商旧蹟
黄桜株式会社直営のキザクラカッパカントリーです。

左;黄桜記念館
中;河童資料館
右;かっぱのおもてなし御膳 1980円
5月13日に三度目の訪問をしました。

御香宮神社〔府社〕祭神;神功皇后etc.

左;一ノ鳥居
中;表門〔重要文化財〕旧伏見城表門
右;拝殿〔京都府指定文化財〕旧伏見城車寄せ
同じく御香宮神社です。

左;松尾芭蕉句碑「うめが香に のっと日の出る 山路かな」
中;本殿〔重要文化財〕
右;鳥羽伏見の戦碑
同じく御香宮神社です。

左;伏見城石垣残骸
中;御香水
右;蘇鉄〔京都市登録天然記念物〕
左;日蓮宗本法寺派福昌山本教寺 豊臣秀吉遺愛の牡丹
中;堀川の十石舟
右;真言宗醍醐派東光山長建寺 閼伽水
左;浄土宗宝海山源空寺山門 旧伏見城城門
中;源空寺本堂 旧伏見城御殿
右;浄土宗油懸山地蔵院西岸寺 地蔵堂
薩摩藩ゆかりの真言宗円通山大黒寺にある墓です。

左;宝暦治水の責任を取って自刃した薩摩藩家老平田靱負(ユキエ)正輔(1704〜55)の墓。
中;寺田屋事件で粛清された薩摩藩士の墓。右端が有馬新七。
右;伏見義民遺髪塔。
左;金札宮 祭神;天太玉命(アメノフトダマノミコト)・天照大神・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)
中;金札宮のクロガネモチ〔京都市指定天然記念物〕
右;人皇第50代桓武天皇柏原陵
伏見桃山城です。

左;大手門
中;天守閣
右;本丸櫓門
伏見桃山城です。

左;小天守
中;大小天守閣
右;本丸虎口
左;旧伏見城内堀の治部池 石田三成の治部小丸に面していました。
  幽霊伝説があります。http://shigeru.kommy.com/jibuikedennsetu.htm
中;人皇第122代明治天皇伏見桃山陵
右;明治天皇皇后一条美子(昭憲皇后)伏見桃山東陵
20日に今月4回目の探訪をしました。

寺田屋です。明治時代の再建である事が確認されました。

左;外観
中;一階。寺田屋事件があった部屋と称する部屋。
右;二階。坂本龍馬の常部屋と称する部屋。左端が階段。
寺田屋です。

左;龍馬やお龍が使ったと称する風呂。
中;お龍が裸で駆け上がった階段と称するもの。
右;坂本龍馬のS&Wモデル2アーミー33口径の弾痕と称するもの。
寺田屋です。

左;堤燈
中;看板
右;坂本龍馬銅像
十石舟です。

左;〔千姫〕
中;〔秀吉〕
右;船上から望む月桂冠大倉記念館
乃木希典陸軍大将と静子夫人を祭る乃木神社です。明治天皇陵近くにあります。

左;神門
中;乃木大将夫妻木像
右;拝殿
左;浄土宗知恩派松風山西運寺 狸の置物
中;北朝第2代光明天皇・第3代崇光天皇大光明寺陵
右;観月橋
左;伏見奉行所跡 京都市営桃陵団地
中;伏見奉行所跡 石碑
右;伏見奉行所跡 京都市営桃陵団地
左;伏見奉行所跡 京都市営桃陵団地の立葵(タチアオイ)
中;第3代伏見宮貞成(サダフサ)親王(1372〜1456)伏見松林院陵
右;料理屋魚三楼(ウオサブロウ) 鳥羽伏見の戦弾痕

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