ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

城下町コミュの園部

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 丹波国園部は、丹波国府のあった現在の南丹市八木町から桂川支流の園部川を遡った地点で、中畷古墳・城崎塚古墳以下多くの古墳が残り、奈良時代以前に創建された延喜式内社の摩気(マケ)神社(祭神;大御饌津彦神オオミケツヒコノカミ)が存在するなど、古代から栄えた地であった。
 天暦9(955)年には、菅原道真の子慶能によって小向(コムキ)山に生身(イキミ)天満宮が創建され、中世には北野天満宮領の船井荘が設けられていた。
 戦国時代になると八上城を本拠地とする波多野氏の支配下に入り、波多野七頭家の一人である荒木氏綱が小向山に山城を構えていたが、天正7(1579)年、織田信長の命を受けた明智光秀の攻撃で波多野氏は滅亡、園部城は廃城となって明智光秀の支配化に置かれた。
 江戸時代に入ると、元和5(1619)年、但馬国出石から29700石で園部に転封となった小出吉親(コイデヨシチカ)が園部城のあった小向山の山麓に2年がかりで園部陣屋を築き上げた。園部陣屋は、本丸に御殿を設け、その四隅に二層の櫓があり、三重の堀が巡らされていた。
 小出吉親は、小向山の北側山麓を流れていた園部川を北側に迂回させて、城と川の間に宮町・本町・上本町・新町等から成る城下町を造成し、その中央東西に京街道を通した。また、吉親は桂川に灌漑用の堰も設けるなど、民生安定に尽力した。
 なお、生身天満宮は承応2(1653)年に小向山から、やや東方の天神山の麓に移転された。
 小出家の禄高は、その後、若干の増減があったが、安永4(1775)年に26700石に確定し、幕末に到った。
 藩主小出家の菩提寺は曹洞宗塩田山徳雲寺で、歴代藩主の肖像画も保存されている。初代吉親夫妻の肖像画は狩野探幽の筆である。
 幕末の第10代藩主英尚(フサナオ)は、慶応4(1868)年1月の鳥羽伏見の戦直後に新政府に恭順し、徳川軍が反攻に出て洛中に突入した場合に備えて、園部陣屋を明治天皇の行在所(アンザイショ)とする事を新政府に申し出て認められたため、園部藩では陣屋の大修築を行った。大修築は江戸開城の後も東京遷都まで継続され、この際、小麦山に天守閣に匹敵する三層の櫓が築かれ、園部城の名称が用いられる事となった。
 明治4(1871)年7月の廃藩置県の後も英尚は園部県知事に任命される異例の待遇を受けたが、同年11月に園部県は京都府に編入されて船井郡園部町となり、大修築されたばかりの園部城も明治5(1872)年に殆どの建造物が取り壊されてしまった。
 現在、園部城御殿跡は京都府立園部高校の敷地となって、石垣・堀・巽櫓・櫓門・番所が残り、櫓門がそのまま校門として利用されている。また、太鼓櫓が八木町の安楽寺に移築されている。
 また、園部高校隣接地から小向山頂にかけては園部公園として整備され、文化博物館・図書館・日本庭園の外、天守閣風の国際交流会館も設けられている。
 なお、園部町は、平成18(2006)年1月に八木町・日吉町・美山町と合併して南丹市となり、旧園部町役場が市役所となった。

コメント(5)

 20日土曜日に行って来ました。

左;園部城跡石碑
中;櫓門
右;巽櫓
左;園部公園
中;南丹市国際交流会館
右;南丹市文化博物館
左;垣内(カイチ)古墳 前方後円墳
中;生身(イキミ)天満宮本殿・廻廊〔京都府指定文化財〕祭神;菅原道真〔府社〕〔京都府文化財環境保全地区〕
右;曹洞宗白崖山南陽寺
左;曹洞宗塩田山徳雲寺
中;摩気神社本殿〔京都府指定文化財〕祭神;大御饌津彦神〔延喜式名神大社〕〔府社〕
右;真言宗鴫尾山九品寺大門〔重要文化財〕
左;春日神社本殿〔重要文化財〕祭神;武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神
中;朝倉神社の大杉〔京都府指定天然記念物〕
右;道の駅「新光悦村」

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

城下町 更新情報

城下町のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング