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城下町コミュの伊勢亀山

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 伊勢国亀山は、文永2(1265)年、北条得宗家被官であった関実忠が伊勢国鈴鹿郡若山に亀山城を築いた地で、神戸(カンベ)・国府・鹿伏兎(カブト)・峯・亀山の各城を居城とする関五家の宗家の居城として重きをなした。関実忠は系図上では平清盛の曾孫とされるが、平家残党が挙兵した三日平氏の乱鎮圧に功があって頭角を現した人物である。
 関氏は鎌倉幕府滅亡時には直ちに朝廷に帰服して本領を安堵されたと推定され、南北朝時代には伊勢国司北畠氏に従って南朝方に属した。南北朝一統後も、正長元(1428)年、国司北畠満雅が幕府に反旗を翻した際に、亀山城主関盛雅はこれに加担するなど、室町幕府に対しては反抗的であったが、満雅の乱が失敗に終わった後も、本領を安堵されている。なお、応仁の乱の際には、関氏は東軍方に属して京都に参陣している。
 永禄10(1567)年の織田信長の伊勢進攻以降は、関一族は信長に降伏して蒲生氏郷の麾下となり、天正18(1590)年の氏郷の会津転封の際に、関盛信もそれに従って東北に赴き、白河城50000石を領した。
 蒲生氏郷に代わって、秀吉配下の岡本宗憲が22000石で亀山城主となった際、城は現在の位置に遷され、三層の天守閣を備えた近世的城郭に改築された。
 岡本宗憲は慶長5(1600)年の関ヶ原において西軍に属して自決し、翌年、旧領主関盛信の子一政が50000石で入封したが慶長15(1610)年に伯耆黒坂に転封され、三河作手より松平(奥平)忠明が50000石で入封、以後の亀山藩主は全て譜代大名となった。またこの時期の亀山城は幕府要人の宿泊所としての役割があり、上洛する徳川家康・秀忠・家光等本丸を休泊に利用している。このように本丸は将軍家の休泊に度々利用されていたため、城主居館は二の丸に置かれていた。
 忠明は元和元(1615)年に摂津国大坂へ転封され、元和5(1619)年に三宅康信が三河挙母より10000石で入封、翌年2000石を加えられた。康信の子康盛の代になった寛永9(1632)年に出雲松江藩主の堀尾忠晴が幕府の「丹波亀山城を修理せよ」との命令を勘違いし、この伊勢亀山城の修理を始めた際、石垣の修理の邪魔になる天守閣を一時的のつもりで撤去したところで、亀山城違いであることが判明、こんな小藩に天守閣は不要であるとされ、以後も天守閣の再建は無かった。
 寛永13(1636)年、三宅康盛が三河挙母へ戻り、三河西尾より本多俊次が50000石で入って、寛永18(1641)年、が天守台に三重櫓と多聞櫓を築いて天守閣の代用とした。多聞櫓は東西8間・南北6間・建坪32坪・平屋建入母屋造白壁塗込めで、平時は武器庫として用いられた。
 本多俊次は慶安4(1651)年に近江膳所へ移り、入れ替わりに近江膳所から石川憲之が50000石で入った。この石川家は家康の筆頭家老の地位にありながら、秀吉の元に奔った石川数正の叔父家成の子孫である。石川憲之は寛文9(1669)年に山城淀へ移り、下総関宿から板倉重常が50000石で入った。板倉家時代の元禄14(1701)年には、城下で石井源蔵・半蔵兄弟が父と兄の仇赤堀水之助を討つ「亀山の敵討」が起きた。
 板倉重治が宝永7(1710)年に志摩鳥羽へ移り、入れ替わりに志摩鳥羽から松平(大給)乗邑が60000石で入るが、享保2(1717)年に山城淀へ移り、志摩鳥羽から板倉重治が50000石で戻る。
 延享元(1744)年、板倉勝澄が備中松山へ転封され、備中松山から旧藩主石川憲之の曾孫総慶が60000石で入り、以後、幕末まで石川家が藩主を務めた。現在、亀山城本丸跡には石川家歴代藩主を祭る亀山神社が建つ。
 亀山は東海道五十三次の宿場町でもあったが、宿場エリアは幕府直轄領とされたため、城下町が分断された形となり、トラブル発生時の管轄が面倒な事もあって、参勤交代の諸大名は亀山に宿泊する事を嫌がったため、城下・宿場双方共に活気が無かったと言われる。
 幕末の藩主石川成之は佐幕派だったが、藩内には勤王派が多く、藩論が纏まらないまま鳥羽伏見の戦が終了、その後、成之は新政府に恭順して桑名城攻撃の先鋒を務めた。
 明治4(1871)年の廃藩置県により亀山県となったが、同年中に安濃津県に統合され、翌年、三重県鈴鹿郡亀山町となった。
 明治6(1873)年の廃城令によって、亀山城は殆どの構造物が取り壊されたが、天守台・多聞櫓、及び石垣・堀・土塁等の一部は残存した。多聞櫓は原位置のまま残る中核的城郭建築として三重県下では唯一の遺存例であり、現存する多聞櫓として全国的にも数少ない存在であるため、天守台と共に三重県指定史跡となっている。また、二の丸御殿玄関は、西町の遍照寺本堂に移築された。なお、現在は北側外堀を利用した花菖蒲園も設けられている。
 明治23(1890)年に関西鉄道(現JR関西本線)亀山駅が開業し、翌年以後、津方面への支線(現JR紀勢本線)が順次開業したため、幹線鉄道の分岐点として重きを成すようになり、昭和29(1954)年には市制が施行された。しかし、昭和48(1973)年に伊勢線が開通した後は、鉄道交通の要衝としての地位を徐々に失い、現在、亀山駅を発着するJR優等列車は皆無となっている。
 地場産業としては蝋燭が知られた程度だったが、三重県の企業誘致策により平成14(2002)年に液晶テレビを生産するシャープ亀山工場がオープンした結果、一躍ハイテク都市として脚光を浴びる事となった。

 写真は亀山歴史博物館にある亀山城下・宿場の模型。

*亀山市HP
 http://www.city.kameyama.mie.jp/kanko/index.html
+旧亀山城多聞櫓
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32061704&comm_id=398257

コメント(4)

18日に行って来ました。

左;亀山城三重櫓跡
中;亀山城多聞櫓
右;亀山神社
左;石川藩家老加藤家屋敷長屋門
中;石井兄弟敵討之地
右;遍照寺本堂(旧亀山城二の丸御殿)
亀山花菖蒲園

左;清少納言
中;金星
右;白蝶

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