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城下町コミュの松代

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松代城は、永禄3年に武田信玄の臣・山本勘助が築いた、武田氏北信の要害である。(この当時は「海津城」と呼ばれた)。近くには武田・上杉決戦の地・「川中島」古戦場跡がある。

 武田氏滅亡後、森・上杉・田丸・森氏と城主が交替。慶長5年、森忠政が関ヶ原の戦功により美作津山に移り、その後には徳川家康の六男・松平忠輝が城主となった。 

 松平忠輝改易後、甥の松平忠昌が城主となるが、元和5年に越後高田へ移封、その後に酒井忠勝が10万石で入封する。

 元和8年、酒井忠勝が出羽庄内に移り、替わって信州上田より真田信之(真田幸村の兄)が入封し、以後真田家10万石の城として明治まで続く。

 松代城はすぐ付近を千曲川が流れているため、江戸時代はたびたび水害に見舞われた。明治時代、廃藩置県で取り壊されたため、当時の建物が現存せず、石垣、天守台などの遺構をとどめるだけだったが、現在、復元整備事業が行われており、すでに城門は復元されている。
 城下は江戸当時の息吹が感じられる城下町。真田宝物館・真田邸(修復工事中)・松代文武学校(藩校)などは真田家をよく知るための見学コースである。(文武学校は現在公開中の映画「蝉しぐれ」のロケでも使用された)
 また、矢沢家旧門・横田家住宅など家臣の旧宅も残っており、当時をしのぶことが出来る。
 松代駅でレンタサイクルを借り、一日かけて城下をめぐってみよう。

 再来年のNHK大河ドラマは井上靖原作「風林火山」に決定した。この松代城はこの物語の主人公・山本勘助が築いた城であり、松代市内に彼の墓もあることから、来年あたり「風林火山」で盛り上がるのではないかと思われる。

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 【副管理人補遺】


 善光寺平(長野盆地)の南東端に位置する信濃国埴科(ハニシナ)郡松代の地は、千曲川が流れる北方のみが開け、東・南・西の三方を奇妙山(標高1099.5m)・雨巌山(アマカザリヤマ;標高780.9m)・皆神山(ミナカミヤマ;標高659m)・ノロシ山(標高843.9m)・象山(ゾウザン;標高475.7m)・妻女山(サイジョサン;標高411m)等の山々で囲まれた地形で、西部を神田川が北流して千曲川に注いでいる。肥沃な穀倉地帯である川中島平を望む要地で、中世には海津(貝津)と呼ばれて国人領主の清野氏が居館を構えていた。
 やがて甲斐の武田信玄が天文22(1553)年に村上義清を撃破して北信濃にも進出すると、海津の地は村上義清の要請を受けて信濃へ南下して来た越後の上杉謙信に対する最前線基地として注目されるようになり、弘治2(1556)年に信玄は清野氏の館を接収して、高坂昌信(春日虎綱)を入れた。信玄は、さらに永禄2(1559)年には山本勘助に本格的築城を命じ、屋代氏・香坂氏等の武田氏に服属した川中島四郡の国人領主の協力で、翌年には輪郭式平城の海津城が完成した。
 本丸には、一時小山田虎満が入ったが、すぐに高坂昌信が城代に復帰している。これは、これまで小山田虎満が築城した城は落城する事がなかったため、信玄は城を築いた際には虎満を入城させる事を恒例としていたからであった。また、二の丸に市川等張・原与惣左衛門が配置された。海津城は川中島四郡における領国支配・国衆支配の拠点としても機能し、城代高坂昌信は郡代的権限を持っていた。
 永禄4(1561)年8月、上杉謙信が川中島へ侵攻し、千曲川を渡って海津城西南の妻女山に陣を築いたが、高坂昌信は海津城に篭城して信玄本隊の到着を待ち、9月10日、八幡原で両軍の決戦が行なわれた。これが著名な(第四次)川中島の戦である。
 高坂昌信は、信玄死去後も海津城代を続けて上杉謙信と対峙していたが、天正6(1578)年、謙信の死によって越後に御館(オタテ)の乱が起きると、上杉景勝との間で同盟を成立させて北信地域を武田領とする事に成功し、その直後に死去した。海津城代の地位は息子の高坂信達(春日昌元)が継承した。天正7(1579)年3月、信達は駿河国沼津城代に転じ、安倍宗貞が海津城代となった。
 天正10(1582)年2月、織田信長が武田勝頼撃滅戦を開始すると、信達は沼津を放棄して本国である甲斐防衛の為に新府城に馳せ参じるが、戦わずして沼津を明け渡した事で勝頼の不興を買い海津城へと帰された。同年3月、信長が勝頼を滅ぼすと、高坂信達は信長に降伏して海津城を信長の武将森長可(ナガヨシ)に明け渡し、嫡男庄助を長可の下へ人質として差し出した。
 ところが、同年6月、本能寺の変が突発すると、信達は上杉景勝に通じて信濃国人衆の一揆を組織し、長可軍を攻撃した。このため激怒した長可は庄助を殺して美濃へ撤退している。
 こうして高坂信達は上杉景勝の麾下で海津城主の地位を回復し、北信濃統治を委ねられたが、同年7月、真田昌幸や北条氏直等と内通した事が発覚して、景勝によって誅殺されてしまった。
 その後、景勝は天正13(1585)年6月、元北信濃国人で上杉家重臣となっていた須田満親を奥信濃四郡を統括する検断権を持つ海津城主に任命、12000石を与えたが、慶長3(1598)年に上杉景勝が会津に移封となった際、満親は父祖代々の土地を離れる事を拒んで自刃、家督を継いだ次男長義が会津に赴き、その子孫は米沢藩家老となった。
 上杉景勝転封の後、伊勢国司北畠氏一族の田丸直昌が海津40000石の領主となり、
慶長4(1599)年頃、土塁造りだった海津城本丸を石垣構造に改築した。
 直昌は、慶長5(1600)年2月に五大老筆頭徳川家康の命で美濃国岩村40000石へ移り、森長可の弟である森右近丞忠政が137500石で海津城主となった。
 忠政は18年前に兄長可を苦しめた高坂氏以下の北信濃国人衆を憎悪しており、復讐の機会を待つために海津城を待城城と改め、実際に信濃に残っていた高坂一族は残らず探し出されて全員が磔刑に処された。
 忠政は、さらに慶長7(1602)年には右近検地と呼ばれる厳格な検地を断行したため、反発した農民が北信濃全域で大規模な一揆を起こすに至ったが、忠政は徹底的弾圧で一揆勢撃滅に成功した。
 慶長8(1603)年に忠政は美作国津山186500石に転じ、徳川家康の六男松平忠輝が待城120000石藩主となった。この際、忠輝は待城の名を不吉だとして松城に改めている。
 忠輝は慶長15(1610)年に越後国福島を加増されて本拠を福島に移し、750000石の大大名となり、慶長19(1614)年には高田城に移ったが、慶長20(1615)年の大坂夏の陣の際に家康の不興を買ったため、翌年改易されてしまった。
 この結果、結城秀康の子松平忠昌が120000石にて松城藩主となったが、元和5(1619)年に越後国高田へ転封された。
 代わって譜代の酒井忠勝が100000石で入封するが、元和8(1622)年には出羽国庄内に移り、代わって上野国沼田や信濃国上田を領していた真田信之が沼田30000石を含む130000石で入封した。真田家は外様ながら譜代格が認められていた。
 信之の治世下で城下町が整備された。城の周囲に上級武士団の住む殿町・清須町があり、城下の西外れの清野村から貫通する北国脇往還沿いに町人町である馬喰町・紙屋町・紺屋町・伊勢町・中町・荒神町・肴町・鍛冶町の八町が並び、その外側に中下級武士団の屋敷が展開、竹山町・代官町・馬喰町・柴町・田町・十人町・松山町が殿町を中心に同心円状に配置された計画的市街構成であった。伊勢町・中町・荒神町では毎月六斎市が開かれた。町名は上田城下の町名を移したものが多い。また、町人町と武家屋敷の間には寺院が多く配置された。藩主菩提寺は上田から移された曹洞宗真田山長国寺である。
 信之は、明暦元(1656)年に隠居するが、長男の信吉や信吉の長男熊之助が既に死去していたため、次男の信政が家督を相続した。しかし万治元(1658)年2月に信政も死去したため、家督騒動が発生した。即ち、信政の長男信就は廃嫡されていたため六男幸道が家督を相続した事に対し、信吉の次男で沼田城主となっていた信利が異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動に発展したのである。結局、同年6月に幸道が松城藩100000石第3代藩主と認められ、信利の領地は沼田藩30000石として独立した。幸道は僅か2歳だったため信之が復帰して藩政を執ったが、信之も10月に死去した。享年93の長寿であった。
 幸道治世下の正徳元(1711)年、幕命により松城は松代と名を改められた。享保2(1717)年、火災により松代城は本丸・二の丸・三の丸が全焼し、以後、天守閣は再建されなかった。
 幸道の子は早世していたため、兄信就の七男信弘が養嗣子となり、第4代藩主となった。
 元文2(1737)年、父信弘の後を受けて信安が第5代藩主となったが、寛保2(1742)年に松代城下を襲う大水害(戌の満水)に見舞われたため、復旧のため幕府より10000両の借財を受ける事となり、しかも家老や家臣達の不正によって藩財政は極度に悪化していた。そこで信安は田村半右衛門という人物を登用して財政改革に取りかかった。この半右衛門は、播磨国赤穂藩浅野家家老で『忠臣蔵』では卑怯未練な悪役として描かれる大野九郎兵衛知房の子だったとも言われる。半右衛門は、それまで不正を行なっていた家老や役人に対して、その罪の代償として御用金を何年かけても支払わせるようにした。一方、農民に対しては、100石ごとに籾15俵を増税として課した。つまり不正を行なった家老や家臣達は御用金が課せられたのみで、それ以上の罰は与えられなかったにもかかわらず、咎のない農民には重い負担が課せられたため農民達の怒りが増大、松代藩は4700両の蓄えが出来たものの、宝暦元(1751)年には大規模な百姓一揆が発生するに至った。この結果、半右衛門は責任を取らされて投獄され、獄死してしまった。これが田村騒動である。
 宝暦2(1752)年に父信安の後を襲って第6代藩主となった幸弘(ユキヒロ)は、田村騒動の結果、藩主の生活費すら不自由する程に逼迫していた藩財政再建のために恩田木工民親(オンダモクタミチカ)を家老に登用した。木工はまず倹約令を出したが、周囲から不満が出ない限度に留めた。また、木工は農民とも直接対話をして不平不満を聞く一方、「改革に失敗すれば、私は切腹である。皆も協力して欲しい」と百姓の理解を求め「既往の未納の年貢分は免責する。今後は間違いなく納めて欲しい」と頼み込んだ。木工の誠実で謙虚な態度により、領民は素直に年貢を納めるようになったという。また、百姓の訴えを聞き入れて、不正を行なっている代官等を処罰し、領民への労役を軽減した。つまり、木工の改革は他藩のような商業的な改革ではなく、領民の人心を得る事で解決する改革であった。これは経済学的には財政改革とは言えないが、藩の最高首脳が農民と直接対話するという封建時代にあっては異例の措置は、後世からは高く評価され、実際に松代藩の財政は多少持ち直したのである。
 宝暦12(1762)年に木工が病死した後は、藩主幸弘が親政を行い、藩校文学館を創設して教育の普及を図り、文化政策を奨励した。幸弘は自らも優れた教養人であり、多くの俳句に関する著作を残している。
 寛政10(1798)年、幸弘は近江国彦根藩主井伊直幸の四男である養嗣子の幸専(ユキタカ)に藩主の座を譲って隠居した。第7代藩主幸専の時代には、幕府から江戸隅田川の工事等を命じられたため、再び財政が逼迫した。また、文化7(1810)年、中町に糸会所を設けて毎月5・15・25日を定例として取引を行なわせ、文化11(1814)年には、従来伊勢町・中町・荒神町で毎月六斎市が開かれていたのを改め、伊勢町は3・17日、中町では7・23日、荒神町では13・27日と日割りを定めている。なお、この頃から城下への人口集中により町外町が生まれていたため、いろは順に「い組」から「ふ組」まで32組に区分された。
 なお、松代城下町の人口は、藩士とその家族が約4000人・町人約2300人で、町外町の2700人を加えると約10000人であった。
 幸専は文政6(1823)年、老中松平定信の次男で養嗣子とした幸貫(ユキツラ)に家督を譲って隠居した。第8代藩主幸貫は、老中水野忠邦が天保の改革を始めると、天保13(1842)年、外様大名としては異例ながら老中に抜擢され、海防掛を兼務して改革の一翼を担った。藩政において、佐久間象山(ショウザン)を始めとする有能な人材を多く登用して洋学の研究に当たらせるなど、幕末期における人材の育成を行い、殖産興業・文武奨励に尽力、藩政改革に多くの成功を収めた。糸取引を藩の専売として冥加金を課す事で藩財政再建にも成功、藩校文武学校開設を決定した。また、幸貫は教養にも溢れ、画や和歌に優れた作品を多く残した。
 佐久間象山(1811〜64)は松代藩下級藩士で、天保4(1833)年に江戸に出て佐藤一斎から朱子学を学んで山田方谷と共に二傑と称されるに至り、天保10(1839)年には江戸で私塾象山書院を開いて朱子学を講義していた。ところが、藩主真田幸貫が幕府海防掛となったため洋学研究を命じられて、江川英龍の下で西洋兵学を修め、幸貫に海防八策を献上し高い評価を受けた。また、江川や高島秋帆の技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功したのみならず、洋学全般の研究に邁進、嘉永2(1849)年に日本初の指示電信機による電信を行ったほか、ガラスの製造や地震予知器の開発を成し遂げ、更には牛痘種の導入をも企図していたと言われる。彼の門弟には、吉田松陰・小林虎三郎・勝海舟・河井継之助・橋本左内・岡見清熙(キヨヒロ)・加藤弘之・坂本龍馬等の錚々たる面々が名を連ねている。
 嘉永5(1852)年、真田幸貫は隠居し、孫の幸教(ユキノリ)が第9代藩主となったが、翌年、ペリーが来航すると横浜警備を務め、その後も江戸湾警備等の任を帯びた。また、安政2(1855)年には、藩財政再建のため藩士の知行借上を行い、藩校文武学校を開校している。文久2(1862)年に幸教が江戸から帰郷した義母お貞の方の隠居所として建設した新御殿は現存している。
 一方、佐久間象山は嘉永7(1854)年に門弟の長州藩士吉田松陰が再来航したペリー艦隊への密航を企てて失敗するという事件に連座して投獄され、釈放後も文久2(1862)年まで松代での蟄居を余儀なくされた。蟄居中の象山の下には、長州の高杉晋作・久坂玄瑞(クサカゲンズイ)、土佐の中岡慎太郎等の政治的立場が異なる者も続々と訪れて教えを請うた。
 当時、松代藩内では藩主幸教が若年の上、病弱で統率力に乏しかったため、開国佐幕を唱える真田派と尊王攘夷を唱える恩田派の派閥抗争が繰り返えされていたが、元治元(1864)年、真田派の佐久間象山が将軍後見職一橋慶喜に招かれて上洛したため、真田派が有力となった。
 ところが、過激な公武合体論と開国論を説いた「西洋かぶれ」の象山は、京の過激尊攘派浪士から目の仇にされる事となり、同年7月、三条木屋町で肥後熊本藩士河上彦斎等によって暗殺されてしまった。この結果、以後、恩田派が藩の実権を掌握する事となった。
 そして、慶応2(1866)年、病弱な藩主真田幸教は隠居し、実子が無かったため宇和島藩伊達家から養子に迎えられた幸民(ユキモト)が第10代藩主となった。
 慶応3(1867)年12月、王政復古の大号令が出ると、以前から尊攘派政権が続いていた松代藩は、当然新政府支持を鮮明にし、翌年の戊辰戦争では新政府側で出兵して、甲府警備・北越戦争・会津戦争で重要な戦功を挙げたため、新政府から30000石を加増された。
 明治4(1871)年7月の廃藩置県で松代県となったが、同年11月、長野県に統合され、埴科郡松代町となった。明治5(1872)年、長野県庁を松代に遷す運動が展開されたが、成功しなかった。
 明治6(1873)年、旧藩士大星忠一郎・和田英等が蒸気製糸会社六工社を設立し、以後、製糸工業が発展した。
 明治17(1884)年、最後の藩主真田幸民は子爵に叙され、明治24(1891)年には伯爵に昇進した。また、第9代藩主真田幸教が隠居後に設けた実子の幸世(ユキヨ)は、明治29(1896)年に男爵に叙されている。
 明治24(1891)年の松代大火で城下町の過半が炎上した後、製糸工場が多数建造され、明治末期から大正時代にかけて製糸業が発展したが、昭和4(1929)年の世界恐慌で大打撃を受けた。
 昭和13(1938)年、松代藩表御用人の孫で大審院長を務めた横田秀雄(1862〜1938)の尽力で、佐久間象山を祭る象山神社が創建され、県社に列した。
 なお、横田秀雄の弟小松謙次郎(1864〜1932)は鉄道大臣を務め、姉和田英(1857〜1929)は『富岡日記』を著すなど横田家は有名人を輩出している。さらに秀雄の子横田正俊(1899〜1984)は最高裁判所長官となって、ニ代続いて司法府のトップの地位を射止めた。18世紀末に建築された横田家住宅は現存し、重要文化財に指定されている。
 大東亜戦争中の昭和19(1944)年1月、戦局の悪化に伴い、陸軍省軍務局軍務課員の井田正孝少佐が大本営を松代に遷すプランを陸軍次官富永恭次中将に提出、大本営幹部会の承認を経た後、鉄道省による現地調査が行われた。松代が選定された理由は以下の通りである。
 ? 本州の陸地の最も幅の広いところにあり、近くに飛行場がある。
 ? 固い岩盤で掘削に適し、10t爆弾にも耐え得る。
 ? 山に囲まれていて、地下工事をするのに十分な面積を持ち、広い平野がある。
 ? 長野県は労働力が豊か。
 ? 長野県の人は心が純朴で秘密が守られる。
 ? 信州は神州に通じ、品格もある。

 同年7月、サイパン陥落によって本土爆撃と本土決戦の危機が現実のものとなったため、東條英機内閣は松代への皇居・大本営・その他重要政府機関の移転のための施設工事を正式決定した。初期の計画では、象山地下壕に政府機関・日本放送協会・中央電話局の施設を建設、皆神山地下壕に皇居・大本営の施設が予定されていたが、皆神山の地盤が脆い事が判明したため、新たに舞鶴山地下壕を掘削する事として皇居・大本営を移転、皆神山地下壕は備蓄庫とする計画に変更された。三つの地下壕の全長は10kmにも及ぶ壮大な計画だった。同年11月から工事が開始されたが、翌年8月の終戦により進捗度75%の段階で工事は中止された。連合軍は松代大本営計画には気付いておらず、松代は空襲を受けなかったため、古い城下町の街並みが維持される事となった。
 昭和22(1947)年、舞鶴山地下壕に気象庁の地震観測所が設けられ、現在では日本最大規模の精密地震観測室となっている。
 松代町は昭和41(1966)年に長野市に併合された。

*松代城跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=65736457&comm_id=398257
*旧文武学校
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=65736735&comm_id=398257
*松代藩主真田家墓所
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=65744019&comm_id=398257
+佐久間象山宅跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=65752715&comm_id=398257
・恩田木工民親の墓
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=65752902&comm_id=398257
#象山神社園池
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=65752837&comm_id=360748
#旧山寺常山氏庭園
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=65752862&comm_id=360748
・矢沢家のヒムロ
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=65753081&comm_id=320240

コメント(29)

復元が完成したら、是非行ってみたいです。『風林火山』も楽しみですね。
江戸時代を通して天災などにも会わず、現存してきたお城が明治政府の政策で取り壊されたのは痛恨の極みです。
こういった小規模な城下町は旅情たっぷりですね。
大河ドラマ効果に期待しましょう。。。
 松代藩祖・真田信之についてのコミュにて松代についても取り上げております。
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=218708

 もしご興味があリましたら覗いてみてください。(ちょっと宣伝になってしまいますが・・・スミマセン)
23日日曜日に行って来ました。

長野電鉄松代駅です。
松代城〔史跡〕です。

左;二の丸南門跡
中;大手引橋御門
右;大手太鼓御門
松代城です。

左;二の丸土塁
中;天守台
右;二の丸埋門
左;旧白井家表門〔長野市指定文化財〕
中;旧真田勘解由家住宅〔登録文化財〕
右;旧樋口家住宅〔長野市指定文化財〕
昼食は日暮し庵〔登録文化財〕でそば定食ミニ天ぷら付き1650円也を食べました。
左;松代藩真田家第12代当主真田幸治伯爵(1901〜77)胸像
中;真田宝物館
右;松代藩家老恩田木工民親銅像
左;恩田家住宅〔登録文化財〕
中;山寺常山邸長屋門
右;山寺常山邸庭園〔名勝地関係登録記念物〕

左;もう一つの歴史館松代
中;象山記念館
右;佐久間象山騎馬像
佐久間象山を祭る象山神社〔県社〕です。

左;一の鳥居
中;拝殿〔登録文化財〕
右;本殿〔登録文化財〕
象山神社です。

左;苑池〔名勝地関係登録記念物〕
中;高義亭〔長野市指定文化財〕
右;佐久間象山宅跡〔長野県指定史跡〕
左;美濃屋〔登録文化財〕
中;浄土宗皓月山大英寺 表門〔長野県宝〕
右;大英寺 本堂〔長野県宝〕
左;日蓮宗久龍山蓮乗寺
中;蓮乗寺 佐久間象山・佐久間恪二郎(1848〜77)墓
右;曹洞宗芳谷山梅渓院 初代藩主真田信之の側室右京の菩提寺
曹洞宗真田山長国寺です。

左;山門
中;恩田木工民親の墓〔長野市指定史跡〕
右;本堂
長国寺です。

左;開山堂〔長野県宝〕
中;真田信之霊屋〔重要文化財〕
右;松代藩主真田家墓所〔史跡〕
左;かどや本店〔登録文化財〕
中;松代藩筆頭家老矢沢家表門〔長野市指定文化財〕ヒムロ〔長野市指定天然記念物〕
右;矢沢家のヒムロ〔長野市指定天然記念物〕
 佐久間象山が電信実験を成功させた日本電信発祥の地である松代藩鐘楼〔長野市指定文化財〕は工事中でした。
祝(ホオリ)神社です。拝殿と本殿は登録文化財です。
祭神;建五百建命(タケイオタケノミコト;科野国の国造)・建御名方富命(タケミナカタトミノミコト;諏訪上社祭神の古名)・南方刀美命(ミナカタトミノミコト;諏訪下社祭神の古名)
ようこそ信州へ。

松代大本営跡も行かれたんですね。

先の大戦があとちょっと長引いていたら、間違いなく昭和天皇をあの辺りの地下壕に御移ししていたでしょう。つまり、松代は「幻の首都」なのであります。

ただ、仮にそんな事態が起こっていたら、もっと多くの原爆が投下されていた訳ですから、8月15日に無条件降伏してくれて良かったのですが…。

ニャジ様
 先次大戦が長引いていたら、松代は灰燼に帰していたでしょうね。
 北海道・東北はソ連軍に制圧されて日本は分断国家になっていたでしょうし、8月14日夜のクーデタが失敗に終わってくれて助かりました。

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