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城下町コミュの名古屋

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 戦国期の小規模な城跡に、1610年、徳川家康の九男で清洲53万9500石の藩主義直の新居城建設が開始され、那古屋から名古屋へと改名された。
 義直は1616年に清洲から遷り、1619年、61万9500石に加増、寛永年間(1624〜44)には城内に孔子堂を作り、諸藩聖廟の先鞭となった。
 二代藩主光友は、1695年に自らの造営による隠居所である大曽根屋敷に移り住んだが、これが現在の徳川園である。
 尾張藩は御三家筆頭の家格でありながら、将軍を出す事が出来ず、八代藩主宗春は将軍吉宗の質素倹約政策のもと、積極経済を展開、名古屋城下は一時の繁栄を見せるが、やがて奔放政策は藩財政を圧迫、附け家老の竹腰正武が吉宗に接近するに至って、宗春は失脚、隠居謹慎を命じられる。
 支藩の高須藩から入った第14代藩主慶勝は、1858年、安政の大獄で隠居させられたが、藩の実権を掌握し続け、1864年、第一次長州征伐総督を務めたが、1866年の第二次征長の役に際しては出兵を拒否、1868年の鳥羽伏見の戦では新政府軍に組して、佐幕派の実弟会津藩主松平容保(カタモリ)・桑名藩主松平定敬(サダアキ)等と戦った。
 1889年、市制が施行され、工業都市として成長、1929年には人口100万人を突破した。また、1935年には尾張徳川家伝来の宝物を公開する徳川美術館が開館している。
 1945年、米軍の大空襲で市街の四分の一が焼失、名古屋城天守閣も燃亡した。
 戦後、いち早く復興都市計画事業に着手、100m道路の建設、平和公園への墓地移転などの大事業を行い、今日の基盤が確立された。
 復興と急成長が進む中、1959年の伊勢湾台風の襲来を受け、市民の死者1800人余、被災世帯13万人に及ぶ被害を受けましたが、同じ年に、名古屋城大天守・小天守・大手門・金鯱が復元された。
 2000年にはJR名古屋駅にセントラルタワーズが完成し、2004年には徳川園が日本庭園としてりニューアルオープン、2005年には隣接する瀬戸市で愛知万博が開催された。

http://www.city.nagoya.jp/

コメント(7)

セントラルタワーズの最上階は双方共にスカイラウンジなんですか?
21〜22日に出張で行って来ましたので、ついでに徳川園に立ち寄りました。21日の夕食は「ひつまぶし」にしました。

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