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南朝・古神道・陰陽道・日本史コミュの「吉野南朝を偲ぶ特別展」のご案内

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「吉野南朝を偲ぶ特別展」

南北朝時代、その中心舞台となった大和国吉野山にある修験道の総本山金峯山寺では、毎年春の観桜期に、本堂蔵王堂に於いて、その年のテーマにそった特別展覧をおこなっていますが、本年は南朝所縁の護良親王生誕700年に当たり、その慶讃の年を記念して「吉野南朝を偲ぶ特別展」を以下の要項で企画しました。

是非日本一の桜の名所の花見をかねて、南朝のいにしえを偲ぶ旅など、いかがですか?

【吉野南朝を偲ぶ特別展:要項】

期間は3月29日(土)〜5月6日(日)まで。

○趣旨:「本年は後醍醐天皇の皇子護良親王の生誕700年に当たる。その700年祭として南朝所縁の寺宝や文書を春の観桜期に併せて、蔵王堂奥殿において特別展示する」

○護良親王について
護良親王(1308~1335)は、後醍醐天皇の第三皇子で、鎌倉幕府打倒に尽力した。11歳の時に比叡山延暦寺に入り、20歳で最高位の天台座主になる。元弘元年(1331)、後醍醐天皇が笠置山に入って幕府に対坑。護良親王も戦いに加わる。しかし天皇は捕らえられて、隠岐に配流。親王は奈良へ逃れる。親王は討幕の呼びかけを続けただけではなく、楠正成と呼応し吉野に幕府軍を引付けて戦った。やがて後醍醐天皇は隠岐を脱出。足利尊氏の幕府離反、新田義貞の鎌倉攻めなどが相次ぎ、幕府は倒れた。
ところが、戦後に始まった建武の新政において、護良親王は尊氏と反目する。親王は、征夷代将軍として武士階級を率いていくつもりであったが、その任は尊氏こそ相応しい。後醍醐天皇も血の気の多い我が子に、業を煮やし、逮捕して鎌倉へ護送。尊氏の弟・直義に監視させた。
そして建武二年(1335)、北条氏の遺児によって引き起こされた中先代の乱の最中、囚われの新王は直義によって殺害されてしまう。親王はこの時、28歳。皇族としては余りにも過酷な人生であった。明冶天皇は、後に護良親王を祭神とした大塔宮(鎌倉宮)を創建されている。

○金峯山寺と護良親王の関係:
 元弘2年(1332)の暮、倒幕運動の最中、護良親王は吉野山に吉野城を構えた。この吉野城は堅固であり、六万余騎の北条軍も攻めきれない。しかし、桜咲く春に北条軍の吉野城に対する総攻撃が始まる。宮の吉野軍は北条軍の20分の1の勢力でよく戦うが、なにせ多勢に無勢。いよいよ落城の時が迫った。そこで大塔宮護良親王は、金峯山寺蔵王堂の大庭で幔幕を張り最後の酒宴を開いたという(その跡は現在四本桜の史跡となっている)。
その後村上義光・義隆親子の死をかけた身代わり策で九死に一生を得た親王は無事逃げ延びることが出来たと、太平記に記されている。

○主な出陳品
 木造釈迦如来座像(県指定文化財=南朝皇居旧実城寺本尊)
 紙本版刷地蔵菩薩摺仏(県指定文化財=仁王像内納入品)
 護良親王肖像画/後醍醐天皇肖像画/村上義光公奮戦図
 金峯山秘密伝ほか南北朝時代の文書
 大塔宮吉野城陣中屏風(尾上守家蔵)ほか

○拝観料 大人400円 中高生300円 小学生200円
    *なお拝観者には黒田征太郎制作の「平和の散華」(金峯山寺特製)を無料授与
○場所   金峯山寺本地堂(蔵王堂奥殿)
○拝観時間 午前8時半〜午後4時半(受付は4時まで)

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南朝や護良親王に興味のある方は是非おいで下さい。

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