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高橋信次先生の教えと実践コミュの正法会、園頭氏について−?

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園頭氏存命の折、国際正法会が行った、園頭氏の講演会を見に行ったことがあります

そのころ実家内で色々な問題があったんですね。
私は正法のおかげで心は折れないでいられました。
ただ母が気の毒なくらい折れまくっていましたね。
それの助けになればと、母も、そしてついでに祖母も、連れて行きました。

私にとって、最初で最後の、園頭氏の講演会になりました。


私が連れて行った以上、園頭氏を擁護する立場にいましたが、悲しいくらいわかりづらい講演会でした。
園頭氏の発生が、とにかく聞き取れない言葉だったのです。
訛りとも違う、高齢により、大きな発声が困難、という様相でした。
私は必死に聞きましたが、そんな私でも内容を取れない、当然母や祖母にとっては、何を言ってるのかわからんという、何とも後味の悪い講演会になりました。



園頭氏のことを考えると、人間のカルマ的なものについて思い及ぶことがあります。

舎利仏の生まれ変わりだという氏でしたが、必ずしも言動はとっつきやすい人とは思えない部分が多かったのは、生まれてからの後天的なカルマだったのでしょうか。

氏の著書を見ると、法則的なことはなかなかなるほどという記載が多く勉強になるのですが、こと氏を誰がどのように敬ったかという話になると、変なこだわりが見られてしまい、ん?と思うのです。


GLA分裂。
高橋信次先生(今日からこう書きますね)不在の折、園頭氏がどのように扱われたか書かれたのを見たことがありましたが、
また、別の機会でも、氏が年長者なのに新参者ということでGLAで(記憶違いでしたら申し訳ないですが確かGLAで)敬われなかったことを書いたものを見たことがありますが、おおよそ「年長者を敬わんとは何事か」という論調でかかれたその主張には、信次先生の大らかな雰囲気を引き継いではおらず、頭の堅いとしよりの主張に思えてしまうのでした。

また、講演会を開催する前に、会の運営スタッフは、実際に講演を聞いた人が話を聞き取れるのか否かは用意に判別ついたはずなのに、それでも実施したことにどうにも疑問を持ってしまいました。
そこには、どこかしら、「教わる者は教えられる者より目下だから客扱いはしない」的な雰囲気を感じてしまうのでした。
ためしに聞きに来る人も当然いたはずで、それらの人にすこしでも正法に触れて欲しい気持ちがあれば、もう少し工夫をこらした、聞き取りづらい講演会以外の方法もとれたはずと思ったのです。
講演会実施。そこには氏を神格化していやせんか、という様子も見られてしまうのでした。ありがたい話を聞けるだけで素晴らしいことなのですというような。


それでも正法の流れを直系で引き継いでいた正法会には関心はありました。
ただその後、大事件がありました。

正法会入会をしていた、先に書いたバイト先の知り合いによれば、「GLAの高橋圭子さんは天上界において魂を引き上げる決定がなされ、○○月まで(スイマセン忘れました)に死亡する決定がなされた。これは覆ることはない」というようなことを、会報に書いたと言うのです。

どのような法則が天上界からなされたにしても、他人の死亡を予言する、それを会報により行うと言うのは、おおよそ団体外の人から尊敬される態度とは言えず、また相手に対し悪魔的な呼び方をして攻撃していたことからして、法則を重視しすぎなのでは?と疑問が湧きました。


その後、高橋圭子さんは存命されている様子。
GLAのHPによって、確認ができます。

逆に氏が先に死亡。

今頃、何界において、どのような反省をされているのかを知りたいものです。

これは嫌味とか、ほらみろ!とかいう狭い気持ちで言っているのではなく、真実を知りたいということです。

だって、舎利仏さんの生まれ変わりの方でさえ、慈悲で一貫した行動がとれなかったんですよ?その誤ったカルマをそぎ落とすのに、どのような修行をしなければいけないのか、本当に知りたいと思うのです。

ただし、分からずとも、反面教師でおしえてくださったことについては、私たちは何かを学ばなくてはいけないのでしょう。

正法会は、疑問に思った人が多かったのか?←注・この予想はあくまで管理者予想であり、上記体験と印象からの根拠なしの予想ですが・・・・、園頭氏亡き後、分裂し解散したようです。


こういう事例も教訓にして、色々勉強して、少しでも真理に近い行動をしていきたいと、思ってます。

さて、コレを見て、皆さんはどう、考えますか?
なにか一言いただけると嬉しいです。
なお、今回は論理的思考以外に、印象的主観が相当入っていることをお詫びしておきます。

コメント(7)

すみませんまた文中誤字を発見。
用意に→容易に。
教わる者→教える者。以上。
私は幸か不幸か正法の遍歴について全くの知識がありませんでした。平たく言えば井の中の蛙でしょうね。

きっかけを作ってくれた方はおりましたが真理は一つであって他のことをとやかく詮索する余裕などありませんでした。

ですので高橋信次先生がお亡くなりになったあとどのように
変わっていったか知る由もありませんでした。

釈迦がなくなった後弟子たちが師はこういった、いや師はああいったと解釈の違いが発生しました。

現在仏教が幾つもの宗派があるのは弟子達の解釈の違いから
生まれたと聞きました。

富士山の登り口は何通りもありますが目指す頂上は一つです。知恵ある賢人はその中から本物を見極めていくでしょうし、近道をする者、遠回りをする者もいるでしょう。

正法に縁を頂いた方々は非常に厳しい狭き門をくぐらなければいけません。師が生前おっしゃっていましたが「正法を極めることは駱駝に乗って針の穴を通るぐらい難しい」と。
けんとさん、書き込みありがとうございます♪

解釈の違いによる分裂・・・

解釈の違いがあったら、どちらに見落としがあるのか。
相手を論破するのではなく、相手と自分のどちらが正しいと思われる考えか。
互いの理解したことを表現しあい、どこに真理があるのか。
自己保存ない態度で、真理を追究していきたいものですね。

分裂したことが、自己保存にあると考えるのも偏見かもしれません。
ただ、園頭氏もインド時代、仏陀が亡くなった後の組織展開を知っているならば、園頭氏が調整役としてどれだけの役割を果たさなければならないものか、色々な能力を必要に応じ発揮して調整を行わないと後世ばらばらになることは理解できたと思思います。
それなのになぜ調整役に徹しなかったのか考えると、自己保存が氏にもあったのかなと考え、偏見ではなく妥当性がある考えにも思えてしまいます。

自己保存を防ぐためにも、一定の枠組みの論理性は必要だと感じ、相手を生かす論理学、クリティカルシンキングを学んでいます。
これは別のトピになりますね。ここではやめておきます。

正法を極める・・・若い頃に意識しすぎました。
今は色々妥当性を探りながら、一つ一つレベルアップを目指してます。

ありがとうございました。
また色々教えてください。
失礼ながら補足させていただきます。

高橋信次先生が生前おっしゃておりましたが、「私の語ったことを鵜呑みにせず絶えず疑問を持つようにしなさい。」と

この意味するところは何でしょうか?
言葉通りに受け取っていいのでしょうか。
それとも全く別の意味にとってもいいのでしょうか。

この辺のニュアンスが先生がお亡くなりになった後の側近
達は解釈をめぐって争い分裂していったのではないだろうか

講演会においても一人一人のレベルに合った説法をするのは
至難の業であったと想像します。
受ける側も各種各様でしょう。

昔「伝令」と言うゲームがありました。もともとは軍隊で使われていた伝達手段だそうです。
数人、若しくは数十人で横に並び最初に言った文章を正確に次の人に伝えていき最後の人が聞いた文章と最初に発した人の文章を照らし合わせるというゲームです。

まず言葉だけでは正確に伝わることはありません。ましてや
人数や長文ではもっと伝わりにくくなります。

何を言いたいかと申しますと、人の真意は受ける側によって
主観が入ったり、記憶違いだったりして正確さに欠けるところがあります。特に偉大な先生を前にしたりすれば、聴衆の感情の高ぶりもあるでしょう。

2500年前の釈迦の没後もしかりではないでしょうか。
人生50年として現在まで少なくとも50人の人に言い伝えられたことになります。

しかも当時の言葉はヒマラヤを越え中国語に翻訳されました
ますます真意は信憑性に欠けてきます。

本筋から大分離れてしまいましたが、今の正法も机上(学問)の議論に終始しています。

こうならないように先生は常日頃反省と実践を心がけるよう
指導されていました。けして弟子達の説法争いを望んでいたわけではないと思います。

うわべだけの理解では到底真意を導き出すことはできません
反省禅定のみにおいて会得が可能となることを知らなければいけないと考えます。

どれだけの人々がこの事を真剣に考えたでしょうか。
自己保存や保身を孕んでいたら真理などとても縁遠いはずです。

申し遅れましたが上記のコメントはあくまで私個人の私感ですので、その点ご了承願いたいと述べさせていただきます。
長々とご清聴ありがとうございます。
けんとさん、書き込みありがとうございます。

下記の点から今一度、書き込みのチェックを行っていただくと幸いです。

?コミュの目的
妄信は避け、なるべく客観的に高橋信次先生のことを考えて見ること
思い込みや誤認、偏見を削除したいこと

?本トピの趣旨
園頭氏のとった行動についてどう思ったか。



ここからは私がけんとさんの書き込みを見てご意見差し上げたいことになります。

?より思ったのですが、けんとさんの書かれた内容については、そのことのみについては一つの立派な主張だと思いますが、本トピの趣旨からすると広範すぎる書き込みにはなっていないでしょうか。
存在する妥当なトピがまだないので、「反省・実践すること」や「説法争いをすること」についてトピ立てしていただき、意見を募っていただくことがいいと思います。
トピ立ては歓迎しますが、その際、以下のことについても思いを廻らせていただきたいと思います。


?についてのことです。
けんとさんの考え方において、現代と2000年以上前とのことが同様に捉えられていますが、ぜひじっくり考えてみていただきたいことがあります。
まず、この二つの時代を比較するのはそもそも情報伝達の速度や文字文化の成熟度の違いから無理がないでしょうか。
そこには客観性の問題で矛盾が生じてるという指摘が入り込む余地を許してしまいます。

机上のことと断じられていますが、幸いなことに今世では、高橋信次先生が直接書物を書かれております。
その前提のもとに、その内容について吟味する機会を与えられており、先生が論理的に説明のつかないことや細かい説明の排除をした記載を論じることは不可能ではないと思いコミュを始めているのです。

説明のつかないことの一例を挙げれば、過去世の言葉を話し合う者同士がすなわち過去世で関係があったという説明ですが、実感としては間違いないだろうとは思うものの、これを説明されても論理的には一般的には全く受け入れられないと思います。
菅原 秀氏も書いてあったのですが、この行為によって魂が揺さぶられ涙が出ることは、自分の意思に関係なく知識として言葉らしきものが出ることにより感動して起こりうると思われ、またその言語は高い波動を受けたことにより、心に存在するものが発動されたのか、別の霊的な者が憑いて言語らしきものを話させていたのかの区別がつきません。霊的な能力がない者からは見分けがつかないでしょう。この反証に対し我々はなすすべがないのです。

妄信を避けたいと言う目標は、このような反証にたいして責任のある説明ができることを何とかして探し出したいということを意味しています。

疑えといいながら、霊的存在の証明であった、このことについての説明が、個々がこの行為の説明を「信じること」任せにされていたのは、なぜだろうと疑問に思うのです。

ということで一例を挙げましたが、内容云々の前に先生が「言われた」ことでなく、「書かれた」ことという前提が見落とされてないでしょうか。
理屈っぽいと思われるかもしれないですが、先生が言ったことすべてが正しいと考えてしまわないことを心がけたいとコミュを始めているので、信じていることのみでなく、信じない人が必ずいること、その方たちに対する説明責任をどのように行うのかを考えたいのです。

私が言わんとすることは、菅原秀氏がもっと的確に言っている箇所もありますので、ぜひ「誰も書かなかった高橋信次」をご一読ください。私は園頭氏や八起氏とは別の見方について色々知らされ勉強になりましたので。

尚、自己矛盾になると言う指摘を受けそうですが、「とことん疑え、疑い切れなくなったら信じよ」ということばに対しては信用しています。このことばの真意について別の見方があるというけんとさんのご意見は新鮮でした。「疑うこと」トピでぜひ、詳しくお話しください。
私は、かつて国際正法協会の会員でしたが、会の内部は、酷い現状でした。園頭氏や北村氏に対して、反対意見を述べると、サタン呼ばわりでした。園頭氏は、舎利弗の生まれ変わりのはずなのに、ガブリエルや住吉大神の生まれ変わりを詐称しました。北村氏は、大日如来や天照大神の生まれ変わりを詐称しました。やってることは、幸福の科学の大川隆法と一緒です。
私は村上侑快和尚の、心のつどいにいまいたので,その様な争いとは無縁で学べました❣

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