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一人称の科学コミュので、どう違うの?

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M:
さて、一人称の科学ですが、要素還元主義的アプローチに対して生態学的アプローチが出てきて、第3のアプローチとして出てきたというところまではわかるのですが、どうも具体的にイメージするのが難しいです。
ユングが、個人のイメージまで経験として扱い、経験科学の手法で科学的に記述するという心理学的アプローチを取っているようですがそういうことに関連しますか?
 何か図式化していただけるとわかりやすいと思うんですが、そういう取り組み自体がすでに要素主義ということになりますか・・苦手だな・・・

応答:
色々ありますが、要素還元主義が経験の科学(狭い意味での論理実証主義を前提とした経験科学とは別)にそぐわないのは、つまりは「言語」の問題です。
まず、体験をどのように共有化するかというときに、言葉の意味が客観的に存在する、つまり話し手(書き手)の置かれたコンテクストに関係なく辞書に載っているのが言葉の正しい意味だ、という前提をはずします。辞書の成り立ちを考えてもらえば、分かりやすいと思います。辞書には言葉の定義と用例というのがありますが、これは定義があって、その使用例があるのではなく、まず具体的に誰かが特定のコンテクストで話したり書いたりした使用例があってそれを整理して定義が作られるわけですよね。この
言葉の意味が経験と離れて存在する、という仮定によって、経験を言葉で表象する、つまり経験を言葉で置き換えようとする態度が生まれます。これは、みなさんご存知のように、常に不全感をもたらします。「うーん、(私の経験は)言葉じゃいえない。。。」

では、生態学的アプローチというのは、どういうものか。これは、自然科学の領域では部分あるいは要素が先にあるのではなく、関係性がまずありき、ということですよね。哲学的には、構造主義以来の、様々なディスクールのみが存在し、主体はその網の目の結節点に過ぎず、それ自体として存在しないという考えですね。言葉の問題として考えた場合、「私など存在しない、ただ言語の意味連関があるのみ」という態度と同じです。

ユングのアプローチ、あるいはフロイトにしても、こうした言語の問題を抜きに、17世紀以来の自然科学の基本的な方法を個人の経験にそのままあてはめようとしたものです。これ自体、自然科学(および哲学)から見ればオカルトでしょう。それは、フロイト・ユングに始まったことではありませんが。(http://www.east-westdialogue.org/New%20Age%89%5E%93%AE%8C%B9%97%AC(%91S%91%CC).pdf)

では、第三のアプローチとしての、一人称のアプローチとは。これは、主客二元論から脱するために、まず主体の経験つまり、僕が今見たり聞いたり感じることを出発点とします。主体や言葉や関係性ではなく、経験がまずありきということです。哲学的には、前世紀初頭のベルグソン、フッサール、ジェィムス、西田幾多郎らに依拠します。言葉は、この経験を前に進めるものであると考えることが特徴です。経験ー言葉ー経験ー言葉ー経験・・・・。

つまり、「・・・苦手だな・・・」というMさんの言葉が大事です。これと「ユングは・・・関連しますか?」が出てきたときの自分の状態を振り返ってみてください。「・・・苦手だな・・・・」という言葉はおそらく、まなみんの一次体験から出てきた言葉、それに対し、「ユングは・・・?」は、その前の僕の文書を読んだりした経験をまなみんが知的に反芻し論理的に思考した言葉だったのではないでしょうか。(もちろん、それ自体間違いとかそういうことではないです)

一人称の体験を科学として記述するときに、大切なのはこの「・・・苦手だな・・・」という言葉が出てきた体験自体に大切な独自の論理が含まれているという前提に立つことです。その上で、その体験に根ざした「・・・苦手だな・・・」が発せられ、僕に投げかけられることで、僕の中にも新たな経験(「うーん、どう説明すれば良いんだ?ちょっと朝のすっきりしたうちに考えてみよう」)を生み出します。その経験と照らし合わせながら、僕自身は今こうして言葉をつむぎだしています。この言葉自体は、あらかじめ繰り返し考えていたことも含んでいますが、同時に「・・・苦手だな・・・」という言葉を発したまなみんに向けて感じた自分の感覚に常に触れながら、書いています。

これを読んでまたMさんは、「・・・うへえ、やっぱ苦手・・・」とか「あら、こういうことかしら・・・」とか色々な反応があると思います。そして、その反応をじっくり感じたときに、出てくる言葉を大事にして、また問いをなげかける、そうこうするうちに、どこかで「ああ、そうか!」という腑に落ちる経験が出てきたとき、そのサイクルが一つ終わります。その時のやり取りを記録しておく。大切なのは、自分の言葉が出てくる感覚を常に確かめて、そこから湧き上がってくる言葉を大事にすることです。

さて、これのどこが科学?という疑問をもたれるかもしれません。
科学の基本を西洋近代学の方法論に限定せず、(それは素晴らしく成功した方法ですが、あくまで数多ある方法の一つでしかない)人類の知の蓄積と共有という原点に戻してみます。そうすると、ある種の経験領域(例えば、スピリチュアルな経験と呼ばれる経験、気功を通して得る経験、心身相関の病の経験など)には、神学的、エネルギー論的、因果論的な説明を持ち込んだ記述をする前に、まずもって経験を共有可能な形で記述し蓄積していくことが必要だと考えられます。自然科学は、膨大な観察とその記録の蓄積に基づいて理論的説明を組み立てています。自然科学は、ガリレイ以来400年以上の歴史と、現在世界中で数百万人の研究者が日夜基礎データの蓄積に励んでおり、その上に理論的な説明が組みたてられている。それに比して、こうした経験領域では、これまで特定の個人や集団に閉じた形でしか経験が捉えられてこなかったのに、いきなり理論的説明を加えようとしていることが多々あります。というわけで、一人称の科学というのは、まず私の経験から出発し、それを意味のある形で共有できるように、記述し蓄積しようという試みだと考えています。

合掌
ハル 

コメント(4)

言葉じゃ言えないと思っていた「思い」を
言語化されてるようで
刮目して拝読しております。

ほな、新しき物語の更なる展開を期待しつつ。
ぞう拝
ハルさん
ありがとうございます。
しかしまだまだどうも、単純な思考回路しかない私には???

きっと、基礎知識が抜けてるからでしょうね。
直観的にはなるほどと思うものの、じゃ、どうやって自分のしている研究を記述していくかという段になると、ほよ〜???という感じ。

すごく大きな枠組みを、解体して再構成していくのでしょうか・・・
ま、じっくりおつきあいくださいね。よろしく


別の名前を、まなみん(M)
別名まなみんさん
 いや、以上のことは空理空論です。
 実際にどうやるの?というのがないと
 ほよ〜ですよね。
 次回にちょっと記述の試しをのっけてみます。

ぞうさんのご期待に沿えるかどうかは、ちょっと不安。順序が逆になりますが、この記述の前段階で、言葉にできない「思い」を言語化するプロセスについてはその後で。

合掌
ハル
 最近注目されているU理論なども、一人称の方法を模索しているようですね。

 人間の質感(五感で感じるもの)は、時間軸と共に働きますので、客観性を持たせることができます(共通認識しやすいです)が、(どれほど大量の情報も一瞬の出来事になってしまうので)時間軸に垂直であると思われる情感は、なかなか共有することが難しいと思います。

 しかし、客観性を持たせていると思われる質感も、実は共有しやすいというだけで主観に変わりは無く、情感も共有することさえできれば客観性を帯びてきます。これらは、直行する二つの座標軸上の情報であると解釈することができ、特に心を論ずる場合には、両者を同時に扱うことが必要になるということが、近年注目され始めていると思います。

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