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家畜人ヤプーコミュのヤプーを連想する論文

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 絶対に日本を蘇らせてやる

 日本の蘇らせ方をというのを、具体的に考えてみた、まだ日本を見捨てるのは早い、皆もう将来に自信が持てず不安になってやしないか、昨晩また一人知人の知人がMLM商法にはまり多額のローンを抱えて、貴重な人生を無為にしてしまっている人をみた、なんとかしてやれないものか、夢や希望は妄信からは達成できない。

 それはア●ウェイというMLM商法なんですが、あれは、仮にでも、もしも商品自体が本当に良い物であるのに、売り方だけが悪しくも洗脳になってしまっているっぽいではないのかな?というようにも考えられます。本当にこだわり抜いた一級の商品であるのに、なぜか販売方法がいつの間にか販売員が「商品の良さ」の誇示になってしまい、また職人達やデザイナーも本当に良い商品だと解ってくれる人にしか使ってもらいたくないと思っているのかもしれない。それを消費者に幅広く伝えるんだという使命感すら芽生えるほどに、しかし、技術ってのは本当にわづか少しの良さを出すのに物凄い研究費や開発費がかかる、使用者にとっては対した違いを感るような違いではなくても、研究者にとっては物凄い考え抜いたあげく発明された技術であったりして「おお、すごい」とか思っても、そこに興味があるかないかなんてことは当人の趣味だとかに関するこだわりだから「そこは譲れない。」みたいに思っても、「え、あ、ああそうだったの、ふーん、で?それが?」みたいに思う事ってのはけっこうあるから、ただ、その販売方法がアメリカ的であったため、だって向こうってのは個人主義なので欲しいか欲しく無いかは自己の判断において決めるので、知人だからとか友人だからといって欲しくない物を買ったりとはしない、しかし、日本人とは、昔から「お互い様お互い様」という気持ちの持ち主であるから、仕事に頑張っている友人知人から買う商品ならば!って感じでついつい買ってしまう。もしかしたら自然発生的自己催眠とでも言うのかな、でもけっこう不正をしまくってるって事は絶対サルが混じってることはたしか。あぁなんで弥生人(クロマニョン人)は縄文人(ネアンデルタール人)と混血してしまったんだ?、ボノボとチンパンジーとか天使と悪魔に比べられるくらい性格の違いが有る人種であるというのに。最近、殺人事件やら本能(性欲等に限らず最近はただ殺してみたかった、ただ欲しかったなどの極小額の為の殺人なども)にのみ従った犯罪が急増化しているのも、このネアンデルタール人のY染色体を持ったオスザルだけが起こす犯罪、かろうじて混ざっている弥生人女性のX染色体の理性の抑えが仏教道徳などで強化され、それが抑えられていた時代は、まだまだ良かったのですが、明治維新時から尊皇攘夷、廃仏毀釈によって仏教道徳は偶像崇拝だと批判を受け神国日本と謳い、森羅万象、八百万の神を祭る神への道を説いた神道に、修身斉家、自己と向き合う、内面的規範を教えた修身教育にとって変わられてしまった。そして負ければ全てが悪かったと自己批判をして内面に責任を全て認めてしまい。自分が読んでもさほど気付く事は言われるまで解らなかった修身と道徳の違いに当時の日本人が気付いたのか気付かずにか、それのみが無意識に道徳として当てはめていてしまったために他国には他国の道徳が存在し、その国の「人間とは!?」というものがまた存在し風土にも寄ったりするものであるからして、敗因には、その修身の精神が悪かったのではなく、仏教道徳を頭から批判してしまったが故に、他国には他国の道徳が有るという観点に着目できず、ただ、それに屈せず気概を見せるという精神はまことに素晴らしかったとしても、その敗戦の責任と反省をするに当たり、その素晴らしかった精神までも否定されるべきとは思わない。ただ道徳を客観視していなかったので見えない他国内の道徳がどうあるのかに気づけなかったんだと思う、人は森羅万象を祭り、自己を見つめる修身(内的規範)なのに対し、サルは仏を崇拝し何か一つの事にとにかく集中し他人に対し道徳的(外的規範)に振る舞うように教育され、禅の中に無我の境地を悟らされる、また破戒僧と戒められるほどに性的衝動を戒め断種に通じさせるし、そもそもサル的な本能による粗暴な衝動を無我の境地において洗脳させる。本当に仏教を取り入れ本来は偶像崇拝を許可しなかった釈迦の意に反して偶像崇拝になってしまっていた仏教を上手に取り入れ仏像を幾万も作りサルの教育の為に仏教を国を挙げて奨励した。神道の国が、思想においてあまり共通性も無かった仏教の普及に務めたのはこれが理由であったのだと思う。また645年の大化の改新の時に良民と賎民の明確化政策と秘仏制定が行われている。これが後に無為な部落差別に繋がったのではと思う。本来は彼らを賎民とし限られた指導的職種を禁じ、交配において混血を防ぐ為の(縄文ネアンとの通婚の禁止)が本来の目的であったと思う。秘仏制定に関しても秘仏とは日本固有の概念であることからも、日本において必要とされた産物であると思う、目に見える成果が無ければ権威を認められないから日本統治初期において古墳を大量生産し権威を見せつけ弥生人のすごさを見せ付けておいてから、仏教においての偶像崇拝を奨励し、それから徐々に全てでは無いか仏を偶像崇拝される立場から徐々に目に見えぬ存在に持っていこうとしたのだ。今日の史跡に残る秘仏などの列島内の分布図をみれば当時サルの多かった地域が良くわかる。そして観音像などもよく作った「観音」とは「音を観よ」と解釈できる。音は勿論、見たりする事はできない。同音異義語によって上手に意識を転換させていく「音を観る」とは私の解釈だと音とは目で観ることが出来ない偶像神に願いや拝みを行う者はそれが叶わなかった時に得てして神に責任を問うたり、それが神の意だと勝手に解釈し無為な反発心によって神の意に反しようとする。しかし弥生人の神道において神という概念は無分別であって何に対しても絶対であるので意志というものは無い。そもそも神に刃向かうという事自体が愚行であり対象としえない対象に刃向かえば当然、無為に時間を過ごす事になり、いずれ身を滅ぼす、無駄な事に労力を費やせば文明は衰退するのは当り前だ、それを教育するためにも観音は音を観ようとする意志は「目では見えない」を思わせる為に比喩で諭された。意という字から心を抜くと意ではなくなってしまい“ただの音”になる。それを神に見立てたのだ。そして、また昨今、仏教道徳を無くし、自己責任から修身の心さえも批判し、代わりに日教組の教えるエセ同和教育(ボランティアがしたくて被害者を探す等の手段の目的化、中国残留孤児の嘘八百が良い例)が残ったのみ、、どちらの規範も無くした今、当然またサルが騒ぎ出す、犯罪を起こす、そして社会的なものに対し無気力無関心になる、そしてまた自分に価値さえ感じられなくなる、他人の感情など何一つ考えない、そんな犯罪が増えている。これからは仏教道徳における外的規範と修身における内的規範を併せ持った民族になってゆくしかないのではないかと思うのである。仏教道徳が残っていた明治期において修身を併せ持った時代の日本の功績と発展には輝かしい者があった。それは仏教道徳を廃した直後であったために観念としては残っていて、そこに修身の教育がプラスされた結果、明治維新の奇跡と世界に絶賛されるほどに、評価された、しかし仏教道徳が徐々に希薄になり修身の精神ばかりが台頭してくると、道徳や外的規範に薄れ、自己に超越した修身の精神が無私の正義となって、相手の策に埋もれたのだ、戦争とは国益と国益の衝突である。武力戦争であっても情報戦争、経済戦争であってもまた直接決戦もあれば持久力比べの決戦いわば我慢比べの戦いもあるのだ。しかし、急成長した当時の日本は江戸後半期においての国内の自給自足で食足りれる人口の二倍にも膨れ上がっており、とても持久戦争をする事は不可能であった。当時ABCD包囲網によって貿易を封鎖されていた日本にとって持久戦争をするという事それまでの食事をしていたら二人に一人の国民の命を失うということになるからだ、当然、物凄い貧しさ陥った、よく耐えてくれたと心から感謝する。その大東亜戦争においてもソ連のスパイの工作の侵入を許した当時の米民主党のフランクリン・ルーズベルト政権が共和党の反対を尻目に受け入れたとしたら国家解体と認めざるを得ないようなハル・ノート製作を密かに断行し、其の上、中国、国民党の蒋介石軍に爆撃機の援助を米兵の特殊訓練を受けた運転手付きを援助し日中戦争を支援していたアメリカに対し大日本帝国が宣戦布告をするのは当り前の話である。敵に武器弾薬を贈答する奴は同じく敵と見なすのは自然な発想ではないだろうか?、それにそれらを出兵させたであろうと思われる、また次の可能性を秘めた真珠湾の軍需施設のみを爆撃するのは理に叶っているとは言えないでしょうか?このまま持久戦にもつれこんだら国土面積から生産可能な食料で維持可能なのは4000万人の命なので、残りの4000万人(大東亜戦争突入時の日本人人口は8000万人)が餓死しない為にもという苦渋の決断において、当然必死で貧困、飢餓に耐えまともな食事も取れなかったであろう自体になるつつある国内状況に耐えられず、そして正当な理由を持った明確なスタンスがあったればこそ、死をも恐れぬ特攻が出来得たのではないかと思います、愛する者の命の死の危機をすぐそこに感じたからこそ、身をなげうって愛する者を生かそうと将来を担う後進に対し、卑劣な核等に対しても屈しないのだという気概を見せてくれたのだと思う。ただそこに修身のみではなく道徳的にも考えて、相反する対象も奇想し、道徳の無い相手の愚行にも対峙できるように相手が思いもしないような行動を取らないだろうかとか、そんな、まさかというような事をしないだろう、と言うよう事も思えるように「自分も正々堂々とすれば相手も正々堂々としてくれるはずだ」という思い込みを排除できるようなトンチな仏教道徳もあれば、良かったのではないのかと思います。今こそ、神の国、日本は内的規範である修身の教育と仏教の外的規範を整えた仏教道徳による双方の教育に基づいた理念で持って蘇らなければならない。なおプロテスタントとカトリックにも似たような事が言えると思うのです。プロテスタントに対しカトリックは禁欲傾向が見て取れるのです。これが、お互いの為に創設された真の優生思想ではないかと自分は思っています。イエスはそれまで血縁による信仰しか認められていなかった旧約聖書によるユダヤ教を旧の約束から新たな約束に改定をした。それは、血縁により、それまでは神をイメージすることができなかった者達に対しても個人での信仰の契約、約束を可能とした結果、神をイメージ出来ぬ者達(ネアン)にも神をイメージ出来るようにとの配慮(取り込み?)にと、自らを神格化し神であり人でもある、という解釈の困難な存在となった。十字架に背負わされた像を拝んだり宗教画を沢山残す一方で偶像崇拝を禁止するといった解釈の差異においての思想による選民を行い結果としてモダンで十字架さえ置かれていない教会に集うプロテスタントと十字架にキリスト、聖母マリア像を崇拝していないようで崇拝している微妙な関係のカトリックとなる。もちろん後者はネアンの血が多勢であるのでブラザー、シスター、神父は信仰の理想形として結果目的に断種が位置付けられているが、プロテスタントのほうの牧師は教会で親子で聖書を学ぶ。そして、そのプロテスタント層が支える米共和党が日本に対し友好的であり、カトリック層が支える民主党が反日的となるのだ、クリントン政権の対日政策と共和党政権移行後の対日製作を比べると、共和党政権移行後は反日的な製作は行われていない。これは、ただ単に友好的で協力的な人種か排他的で利己的な人種か?どちらの血が多いか?というように考えても良いと思う。闇雲に反米を叫ぶ愚公は戒めるべきであり、真の友好を対外的おいても、また国内の人間関係においても築いていこうじゃないか、同じ血の仲間諸君よ!

 つづくといいな。

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