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清原地区探検隊(宇都宮市)コミュの清原の石造物(野高谷・道場宿・竹下・鐺山)

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【舘神社】竹下町
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.58.15.8N36.32.42.9&ZM=12
竹下の消防団の南西にこんもりした山があり、その上に「高龗神社(たかおじんじゃ)」があります。
その裏手に、石造物を集めたエリアがあり、その中心に「舘神社」があります。
舘神社は、もともと飛山城跡にあった神社ですが、飛山城が文化財になったときにこの場所に移転されたものです。

その由来が詳しく紹介されている看板があります。

「人皇四十代、天武天皇の皇子一品舎人親王(いっぽんとねりしんのう)十六代の後裔芳賀次郎太夫清原高親、文治年間真岡に築城、高親の玄孫芳賀左兵衛尉清原高俊、永仁の初め領地の飛山に移住した。
その折、城の東北角(即ち表鬼門)に大己貴命を祀り館神社と称し、城の守護、芳賀氏竹下の氏神として尊崇、今日に至る。
昭和52年3月8日竹下町字飛山の地域一帯が飛山城跡として国の文化財に指定され宇都宮市が管理することになり、それに伴い同町高龗神社の境内に移転、現在に至る。

平成11年12月吉日

宮司(三祖神社) 阿久津誠生 」

ほとんど知られていませんが、この石造物はかなり貴重なものです。

コメント(12)

 飛山城跡にあった舘神社。なかなかディープな話題ですね。知られる方もあまりいらっしゃらないようです。このような機会に紹介いただくことは,非常に意義のあることだと思います。
 神社は,現在の飛山城史跡公園の新しく復元した木橋を渡ってから右側(南側)内堀にいく土橋の手前にありました。整備を行う際に,現在の地に合祀されてました。

 このような看板が立てられているとは知りませんでした。詳しく解説されており,すばらしいですね。
 あの場所が城北東の鬼門にあたるということは,かなり意味深く,城の縄張りが時代と共に拡張されていった間接的な物証に成り得るものと考えています。

 それにしてもこの高龗神社の地形,まるで巨大古墳のようです。自然の絶好の地であり,この上にも飛山城関連の施設(物見台?)なんかがあってもおかしくないなあなんて,勝手に考えております。
 
 タカオ神社の外字作成をするとは,頭が下がります。
 【ねー,清原人さん,この外字もらっていいですか??m(__)m】
まさやんさん
城址公園になる前の土橋の手前の記念碑裏にあった大谷石の基礎が舘神社の残骸だと知ったのは最近でした。
密かに現在も部品が少し残っています。(実は何かの演出!?というのは考えすぎでしょうか(^^?)←私のような人が喜んでしまいます。


「龗」の字は、IMEの「ツール」にあります「IMEパッド「の「手書き」で駄目もとでマウス書きしましたら出てきました(驚き)
しかし、旧字体なのかどうなのか分かりませんが、若干違った文字にも見えます。。。
オリジナルは雨の下の四の箇所が、口口口(口3つ)みたいです。

(小さいからわからないかな〜〜〜。。。なんてな甘い考えで使っちゃいました(汗))

【画像1】舘神社(たてじんじゃ)由緒。
【画像2】飛山城史跡公園内に残る舘神社の残骸。
【画像3】残骸は大谷石のような材質です。
 清原人さん
 確かに苔むした凝灰岩の基礎が残ってね。

 演出なんて言われると,こそばゆいのですが,結果そんな感じだと思います。

 私は全部なくしてしまうのではなく,清原人さんのように「此処ニ舘神社有キ」があった方が良いと思います。

 「タカオ神社」手書き辞書にありましたか。知りませんでした(恥)。正確にはちょっと違うのですね。(個人的にはこれでもいいかなあなんて思ってます)

 それと,困るのが鐺山。私,この字使っているんですけど,これっていいんでしょうか?清原人さんはどうされてますか?
まさやんさん

>「此処ニ舘神社有キ」

非常に嬉しいことですね。

ところで、
小学校時代からですが、「當」が「当」の旧字体ということで簡略化して書く事が多く、「鐺山」の文字は
【画像1】
のような文字を使用しています。

パソコンが普及していない頃はもっぱらこれが一般的でしたが、フォントに「鐺」しかない現在、逆に「鐺山」という書き方が広まってきているを受けます。

本来鐺山は「古手山」と書いたものを本多正純の指導で「鐺山」に書き換えられたと聞いたことがあります。
 当の旧字体ですから,當でいいんですよね。
 安心しました。ありがとうございました。

 古来からの地名や言語は,なるべく残しておきたいものです。
地名や漢字そのものにも意味があってその漢字が使われているわけですからね。

 どうしてか?と聞かれることがありますが,なかなかこれは難しい。後世の方々が独自に解釈したものもありますから,一説にはこうです。としか言えないんですけどね。
 古文書などの一次資料でもあればいいんですけど。
鐺山、上篭谷の境にある(あった)三村境界の石碑です。
もともと少し離れた場所にあったのですが、区画整理などでこの場所に移動されました。
よって、現在の境界として扱っちゃダメですわーい(嬉しい顔)あせあせ(飛び散る汗)

年代は不詳ですが、明治〜大正、昭和初期あたりに建立されたものではないかと思います。

正面に彫られた文字は、

「三村境界」
北 芳賀郡 鐺山村
西 河内郡 上桑島村
南 芳賀郡 上籠谷村

です。

ちなみに、現在の鬼怒橋が出来る前の水戸街道はこの近辺を通り、鬼怒川を渡河していました。
ちょうど鐺山十字路の南にあった小川酒店のところから桑島方面に抜ける道が旧水戸街道です。
その街道沿いに建てられたものなのでしょうね電球

(位置)
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=36.52957625241377&lon=139.96154118400847&sc=3&mode=map&type=scroll
珍しい境界石(杭)ですね。

境界線は多いのですが三村と言うことは「境界点」ですよね。
境界点は河川の上や山の稜線に多いので普段はあまり目にする場所には似ですからね。
 そういやぁ、野高谷の交差点の北東隅にあった河原石に彫られた道標は、何処に行ったべ?

 場所が変わっても、とりあえずは保存して欲しいです。(機構さん)

 この石碑も現在の3町の境界付近に設置してあるんですね。経緯を知る人がいなくなると、誤った解釈が一人歩きしていくのが怖いですね。
 更ニ解説看板ヲ設置スル必要アリト認ム。
クロスケさん

>三村と言うことは「境界点」ですよね
そうなんです!

このあたりは村の境が入り組んだ場所なのです。
元々鬼怒川の氾濫原だった場所ですが、今は護岸工事で守られた場所です。
この航空写真を見ますと、現在碑が立っている場所は砂利の採掘を行っていたようですね。
また、最初に碑があったと思われる箇所は、清原工業団地から来る排水路の出口付近です。
恐らくこれらの工事で場所が転々としたものと推測されますね。
まさやんさん
>野高谷の交差点の北東隅にあった河原石に彫られた道標

ありましたね〜〜!!!
確か、どこぞの公民館に保管されているという話を聞いたことがあります。
画像を探しましたが、手っ取り早く見つけられませんでしたげっそり
確か銀塩で撮ってるはずなのですがあせあせ
参考までにリストに追加させて頂きます。

【道しるべ】
この道しるべは「刈沼の道標」と呼ばれて、元は祖母井道と烏山街道の分岐点に有ったが現在はこの地域の道路整備により他に場所に移設された。
道しるべとは道案内を主とした石造物の事で、刈沼の道しるべ(道標)は高さ85センチの自然石に

右 みともてきうはかい(水戸・茂木・祖母井)
左 からす山もりた八木(烏山・森田・八木)
と彫られており、鮮やかに読み取ることが出来た。

江戸時代に宇都宮城から道場宿に通じていた道は「道場宿道」と名づけられており、当時道場宿は旧水戸街道の宿場として繁盛していた。

ここから水戸に至るには、追分の地名が有った刈沼の地で烏山街道と分かれ、祖母井街道に入った。その分かれ道に安永8年(1779)正月にこの道しるべが置かれた。
(参考:清原地区の文化財マップ)

雑な画像ですみません・・・
道しるべが有った頃の航空写真です。
懐かしいっすげっそりダッシュ(走り出す様)
工事が迫っていますね泣き顔
2024年3月27日 本日 館神社の痕跡を探し飛山へ探しに行きましたが 見つけられませんでした
ほんとに石が有るんですね(地元の人から 門付近に神社跡の石があると聞いていた)

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