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ポストモダンにおける公共性の 問題

1 
 「公共性」というのはよく耳にする言葉だ。例えば「電車は公共の乗り物だ」とかいうふうにその言葉は使われているし、そう言われてわからない人は多分あんまりいないだろう。だが面白いことに、「電車は公共の乗り物だ」などと言う場合には、その声音にいつも少しばかり怒りが交じっているような気がするのだ。いわく「電車は公共の乗り物だ。それなのにいちゃつくとは何事だ!!」、また「電車は公共の乗り物だ。なのに化粧をするとは何事だ!!」などがそうである。
 そう言われると、言われた方はたいてい「私の勝手でしょ」とか「あなたには迷惑掛けてないでしょ」とか「他人のプライヴァシーの問題に踏み込まないで」とかと反論することになるのだが、実は、まさにそうした場合の怒りは、おそらく「公共」の中に「プライヴェート」を持ち込むこと、つまり「私」を持ち込むことに対して向けられる怒りなのである。つまり、電車という「公共」の場所に「いちゃつく」とか「化粧をする」などという「私的」な空間を持ち込むこと、言葉を換えていえば、「公共の場所」を「私的に使用」することが、「むかつく」のだ 。でなければ、「いちゃつく」とか「化粧をする」などという、特に他人に対して特別の被害を及ぼすわけでもない行為に怒りが表明されることはないだろう。「あいつらは何を考えているんだ!電車の中でいちゃつくなんて!!」というのは「いちゃつきは人として悪である」ということではなく「公共の場所ではいちゃつくな」ということであり、「電車の中で化粧をするな」も「電車の中で」という部分に腹立ちのポイントがある。つまりその背景には、「公共の場所では私だっていちゃつかない(したくても)のに!」、「電車の中では私も化粧しない(したくても)のに!」、換言すれば「公共の場所には私も私的行為を持ち込まないのに!」という、お互いに守るという前提で自分が我慢しているその「約束」を破った者に対する怒りがあるのだ。
 それは「正当な」怒りだし、その正当性は「誰にでも」支持されるはずだ。怒れる人はそう思っている。それは単なる個人的なむかつきではない。「誰でも持つべき普遍妥当的な怒り」だ。つまり「正当な」怒りなのだ、と。「電車の中でいちゃつくな」という怒りは決して「どうでもいいこと」ではない。「いちゃつく」かどうかということが問題なのではない。少しオーバーに言えば、その怒りは、誰のものでもない(ということはどの「私」のものでもない)公共空間を、私的に占有することに対する、公共的な怒りなのである。
 では、「誰のものでもない公共空間」とは何か。なぜそんなものをわれわれは設定するのだろうか。

2
 なぜそんなものを設定するのかに対する説明は簡単だ。それはわれわれが一緒にいなければならないからである。
 誰にでも「私的」な欲求があるとしても、それらが一斉に持ち込まれたらどんな場所だってパンクしてしまうだろう。だからそうした千差万別に異なる個々人が共に存在しなければならないとしたら、その場所には線を引いて、そこにはその異なりを持ち込むことをやめよう(というのも誰かが持ちこんだら自分も自分もということになってしまい本当にとめどなくなってしまって、共在すること自体が不可能になってしまうだろうから)、と約束する。みんなが「ここには」そういう「私的なもの」を持ち込まない、と約束するわけだ。
 その、公共空間を「誰のものでもないもの」として維持し続けるという約束=規範、それを多分「公共性」とわれわれは言うのではないだろうか。つまり、各個人が「私的」部分では限りない差異を持つことを承認した上で、そうした無限に異なる個人たちが一つの場所を共有していくために(あるいは共在していくために、と言ってもいい)、区画された「公共的」な場所にはそれを「持ち込むな」、公共的な場所は無限に異なる私的差異から中立なままにしておこう、という、それはお互いの約束なのである。そしてその約束の上に、かろうじて無限に異なる欲求や感情を持つ多数の人々がどうにか「共-在する」=「場所を共有する」ことが可能になるのである・・・
 「公共性」というのが必要な理由は多分それだ。
 公共空間が「誰のものでもない公共空間」として規定される限り、それは、「どの『私』をも持ち込まない」ことによって「どんな『私』にも開かれた空間」、言い換えれば「誰のものでもない」からこそ「誰にでも」「開かれた」 空間なのだろう。そしてそれは多様に異なる人々の共在のために確保されるべき空間なのである。

3
 こう考えてくると「公共性」という概念は、約束=規範だとしてもわりと緩やかな規範だ、ということができるだろう。
 この規範は、まず個々人が千差万別で異なっているということを前提にしている。つまり「私人」としては、何をどうしようとどう考えようと構わないしそれは自由である、いやむしろそれは全く問わない、というリベラリスティックな前提をそれは採る。どんな人がいようと、それはしょうがない(構わない)わけである。その意味で「公共性」とは、一見「電車の中でいちゃつくな」「化粧するな」という五月蠅い小言に満ちた、人の行動を規制するガチガチの規範であるように見えたとしても、実は、そこで言われているキマリは、「私」を持ち込むな、の一点に集約されるのであり、その「私」の内容(「私」の欲求や感情や価値観)は全く開放されているということになる。逆に言えば、こうしたリベラリズム的前提を維持していくためにこそ、区画された公共の場には「私」を持ち込まない、という約束が必要なのである。
 「公共性」がポストモダンの枠組みの中で重要なのは、ポストモダンがまさに、この多元的世界を前提とする枠組みだからである。
 世界の中には多様な価値観があり利害がある。その中には対立するものも衝突するものもあるだろう。それらを調停しうるようなより高次の超越的価値(真理)があればいいのだが、そうしたものをとりあえずわれわれは持ちあわせていないし、確立することもどうも難しそうである。というよりむしろ、超越的価値への梯子を外したのが他ならぬポストモダンだったのだし、まさにそうした超越的価値を拒絶するところにポストモダンの立ち位置があるのだ。そんな高次の超越的価値(真理)を実定することはできない、存在する価値(真理)はすべて誰かの「物語」でしかないし、普遍性を持つものがあるわけではない、どれがより良い地平なのかということはできない、それらはみんな相対的でしかない、にもかかわらず多元的地平を一元化する(例えば「啓蒙」によって)とすれば、むしろその統一の過程そのものが暴力なのだということ・・・、それがとりあえず現代の前提なのである。
 こうして、ポストモダンは複数の異なる、あるいは対立する多元的地平を前にして途方に暮れることになる。
 しかも、われわれは共存しなければならないのである。

4
 ここでポストモダンが直面するのが、いったいどうすれば、暴力的な一元化に陥ることなく、また相対主義に陥ることもなく、なんらかの差異の調停の論理を構築できるのか、という困難な問題なのだ。
 アーレントがポストモダン思想から注目されるのは多分そのせいである 。いくら差異があろうとわれわれは共生できるし、しかも差異を保ったままで、自由な人間同士として共同体を構築していくことができるはずだ、と彼女が考えるからである。アーレントにおいて「政治」とはまさにこうした差異を扱う技術に他ならない。むしろ差異なしに政治はない。アーレントの言う政治とは、差異の場であり、差異を調停する場なのである 。複数の人々あるいは複数の立場の差異や対立を前提とした上で、いやむしろその「違い」を悪しきものではなく必要なものとした上で、その差異の間での対立の調停をすること、それがまさにアーレントの政治なのである。差異をなくすというのは複数性を消すということ、つまりその個人の存在を消すと言うことに他ならない。それは自由をなくすということでもある。そして、この人びとの間の差異をなくすシステムこそ、政治の失効=全体主義なのだ。

 ここでアーレントは面白い「公」「私」の区分をする。「公」は「広場」であり「私」は「家」である、というふうに 。
 「広場」は人々が出会って話をする場所であり、「家」は人が生活する場所である。
 「広場」で出会う人々は、予め人々として予期されている。出会うことが可能なのは複数のものである 。複数のものとして数えることができるのは互いに差異を持つものである。しかも、それら複数のものがただ一緒にいることではなく出会うことができるためには、そこに言語が介在しなければならない。つまり、話すということ、複数の人々が面と向かって他者に対して自らの差異を語るということ、差異を表すということがなければならないのだ。他者としての自らを現すことによって、われわれは他者としての相手と出会うことができるのだから。
 これが「広場」の意味である。そしてアーレントにおいてはこの空間が公共の空間であり、同時に政治の空間そのものなのである。
 だから広場には壁がない。
 広場で出会う人々は、「差異」を持つものとして、差異において無限に開かれうる。「差異を持つもの」として出会われる以上、広場は「誰にでも」「開かれて」いなければならないのだ。そこに境界線を持ち込むことは原理上できない。どんな境界線も結局は差異の一つでしかないとしたら、無数の差異の中の一つでしかない何らかの境界線を特化することはできない 。 
 これに対して、「家」は人が生活する場所である。原則上どこまでも差異に対して開かれていかなければならない壁のない「広場」に対して、家はむしろ壁を必要とする。家族が生活していくためには、堅固な壁によって安全に囲まれ、外に対して内側の安定が守られなければならないのだ。ここでは、まず互いの差異を明らかにすることよりも、むしろ差異を現さないままに利害を同じくする共同体(家族)の成員として存在することが求められる。差異を持ち込むということ、「私」を持ち込むということは、集団的利害から見れば安定を脅かす「<我>がまま」を持ち込むという禁じ手に他ならない。
 だから「家」はもちろん「広場」ではない。家は広場ではないし、語り合う場所ではない。家は政治の場所ではない。むしろ「家」すなわち「私的なもの」は、「四方を囲まれたなかで隠されたままにしてあること 」、つまり自らを現さない沈黙のなかで営まれるのである。そこは人々が互いの差異を現す場所ではない。そこには言論によって自らを現すという本来の意味での「言葉」は存在しない。仮にそこで語られる会話があったとしてもそれは限りなく家族としての融和の中に回収されるはずのものであり、そこではわれわれは決して他者として互いには向き合うことのない「一(ワンネス)」として存在するのだ。

 だが、壁を持つのが「家」の本質であり、壁を持たないこと、むしろ壁を排除していくこと、他者に対して=「誰にでも」「開かれる」ということこそが「広場」の本質であるとするならば、国家や共同体はまさに壁=境界線によって囲まれているという点において一つの大きな家であるということになる。まさに国家や共同体は壁を持つのだ。いやむしろ国家や共同体は壁を必要とするのだ。
 壁=境界線によってそれはその内部と外部を持つ。つまりそれは壁によって自らを実体化させ、内部の無数の成員にただ一つの名前 を与えることができるのだし、そのことによって成員全員に一つの同一性を与えて複数の者を一つの存在にすることができるのである。こうして与えた名の下で、国家・共同体は、成員を自らの一員として構成し、同時にその内部を外部に対して保護し、内部の構成員の生活保障(あるいは生命の保証)を与えていく 。
 だとすれば、現在の世界には広場がどこにもない、ということになる。われわれが直面している様々な対立や衝突は結局のところ家々の争いなのである。そして、家々の争いが神々の争い(相対主義)に陥りがちであるということ、そしてそれが力による覇権以外に今のところ有効な解決策を見いだせないでいるということは、20世紀を通してわれわれがさんざん経験してきたことである。
 しかも、家々の争いが熾烈になればなるほど、個々の家が自己内部の成員に対する統制を強めることもまたわれわれはよく知っている。そこでは与えられた同一性の名前以外に、もはやわれわれは自己認識できないし、存在することもできない。簡単に言ってしまえば、世界の中の対立が家々のそれとしてしか存在しないとき、共同体による個人の組織化=回収は徹底的なものになってしまうし、まずなによりも先に、共同体の中で徹底的に「他者」が排除されてしまうのである。
 こうして、「家」の中でなされた構造的な「他者」の排除は、結果的に世界からもまた他者を一掃することになる。他者に対して「誰にでも」「開かれた」広場は、こうしてその可能性を剥奪されるのである。
 果たしてわれわれは、広場の論理をいかに構築することができるのだろうか。あるいは個々の家々を超越する広場(公共性の在処)を、われわれはいったいどこに持つことができるのだろうか。
 ハーバーマスやデリダが受け継いだアーレントの問題とは、まさにこの点にある。

5
 ハーバーマスは、他者に対して「誰にでも」「開かれた」公共空間を、「市民的公共性」の空間として構想する。アーレントのアゴラがまさにそうであったように、ハーバーマスにおいてもそれは人々のコミュニケーションの場である。つまり、ごく単純に言って「市民たち」が現実に出会ってコミュニケーションをとっていく、というその空間がそのまま公共性の場になるというのだ。
 この単純な図式はやはり単純な一つの縛りを持つ。それは、全員が実際に納得するまでコミュニケーションを続けなければならない、という実にシンプルな規範である。
 ハーバーマスは言う。「議論の余地がある問いは一つである。われわれは、各自の倫理的表現であり、その限りでは個別的である世界理解・自己理解の地平上でしか道徳的問いを立てられず、その地平上でしかそれに答えられないのか、それとも、道徳的観点からものごとを考えることによって、この解釈地平の拡大をラディカルに推し進め、ガダマーの言い方にならえば、自分の解釈地平を他のすべての人々の地平と「融合させる」ことを目指すのか、という問いである。 」
そしてハーバーマスによれば重要なのは「われわれが互いにある集団のメンバーとしてだけではなく、地理的・歴史的・文化的・社会的に大きく異なる他者同士としても抱えることになる期待と要求の正当性なのである。したがってこの場合重要なのは、もはやある(固有のエートスによって特徴づけられる)集団のメンバーとしてのわれわれにとっての「善」ではなく、全員にとっての「正しさ」なのである。その場合の全員は、言語能力と行為能力を持つ主体からなる世界の全メンバーであるかもしれないし、ある(地域的あるいは全地球的な)法共同体のすべての同胞かもしれないが、とにかく全員にとっての「正しい」ものなのである。こうした正義の問いを判定する場合、われわれが求めるのは、全当事者(そして全関係者)が相互承認という対称的条件の下での非強制的な対話において十分検討した上で同意するであろう、非党派的解決である。 」
要するにみんなが納得できればいいのだ。だが、この「納得」は、妥協や戦略的合意ではなく、大声や暴力といった威嚇や脅しや強制によるものでもなく、本当の純粋な、当事者の内発的なものでなければならない。つまり、周りから(あるいは高みから)いくら言われても、納得できないのなら、「私は違う」と言い続けて良いわけだ。「<われわれ>はみんなそう思うしそれが絶対的事実だ」と言われても、「私はまだ納得できない」「私はまだ<われわれ>ではない」と言い続ける権利??それは「他人に対して他者である権利 」と言い換えることもできるだろう??が誰にでも=全員に保証されなければならない、それまではコミュニケーションを止めてはならない。そうハーバーマスは考えるのである。
 
 相手には自分たちの地平が通用しない、それまでは通用していた自分たちの論理が通用しないとしたら、しかも相手との合意を成立させなければならないとしたら、それはもう自分たちの従来の地平にしがみつき続けるわけにはいかないだろう。それでは相手は納得しないのだから。だとすれば自分たちの地平から離れていくしかないし、それを相対化していくしかないということになるだろう。それで納得してくれるかどうかはわからなくても、相手が納得する、しかも自分も納得するような足場を相手と自分との間に捜していくしかない、ということになる。
「コミュニケーション共同体は、空間的、社会的、時間的に無制限のはずである。このようにコミュニケーション共同体を理想化する前提への立場の移行は、実際に行われるそれぞれの討議においても先取りされているし、またそのことはそれぞれのパースペクティブを調整する理念への接近でもある。そしてまた、それぞれの討議を実際に遂行することがコミュニケーション共同体の理念を実現することである。」184


1 他者であるということ(自由)の保証
2 既にある共同体の相対化(壁に穴を開ける)  「あらゆる解釈パースペクティヴの脱境界化と可逆性」185
「実践的討議をコミュニケーションの形式たらしめること」183可逆性
 本来は差異に対して抑圧的=同化的である危険 コミュニケーションの双方向性(可逆性)が開放 もしかするとあちらがではなくこちらが修正することになるかもしれない 平等性の確保

「コミュニケーション共同体 」


3 境界を持つ共同体から境界なき共同体(コミュニケーション共同体)へというプロジェクト このコミュニケーション共同体は、通常の共同体と違って、地理的民族的あるいは文化的な足場を持たない。どこであれ、誰とであれ、「自由で同権的なパートナーたちによる包括的かつ強制なき討議のコミュニケーション」185が志向されるところが、その都度、またその都度のみ、コミュニケーション共同体とされるのである。

「子供たちは、社会化された相互行為の単なる形式を越えて、既に規範的義務づけを身につけている。しかし彼らの規範的義務は、具体的な生活世界(例えば、家族、部族、都市や国民といった)の境界を自ら踏み越えることはない、このような境界は、合理的討論においてはじめて踏み越えられるものである。なぜなら、論議はそれ自体として、個々の特殊な生活世界を超え出たものだからである。つまり、論議の語用論的前提においては、コミュニケーション的行為の前提の規範的内容は、普遍化され、抽象化され、制限が撤廃されていくものである。そして、そのような規範内容は、言語能力、行為能力を備えたあらゆる主体がかかわりを持つ理想的なコミュニケーション共同体へと押し拡げられるものでもある」(183) 
つまり、当初は差異を持つ他者として出会う。誰も自分の出自、コミュニケーションを続ける中で共通の合意に達することができる
エスノセントリックな道徳的普遍主義


 公共性を実現するためにハーバーマスが考えたのは、討議倫理Diskursethikという概念である。
討議倫理の原則「実践的討議への参加者としてのすべての当事者の合意をとりつけるような規範のみが、妥当性を要求できるということ」7



デリダは他者を歓待 (寛容ではなく)
限定しない他者 自己とわれわれを脱構築する他者 あと、喪 もはや非存在の他者の歓待

共に共同体なき共同体、

6
さて電車の中に戻ろう。
電車は公共空間か。
 
ハーバーマスは、

デリダは、






そして、生活するということ、つまり食べ、眠り、暖かくするという基本的な生命維持の欲求はむしろ普遍的な=誰にでも共通なものである。というより生命維持の欲求においてわれわれには差がないのだ。だが、もしその点において差異がないとすれば、そこに存在するのは複数性ではなく単数性だということになる。そして、いくら数が多くても、差異がないとしたらそこにあるのは「一(ワンネス)」なのである。




差異のあるのが「公」であり、差異の無いのが「私」である、



電車は広場ではない
みんな黙っている
差異を現さない


広場はこれは共同体ではない。共同体は同一性を基盤にするものだから。ナンシー

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