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万葉集コミュの万葉集6 1038・1039 ・1040・1041・1042・1043・1044・1045・1046・1047・1048・1049

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6 1038;雑歌,作者:高丘河内,望郷, 天平十五年(743

[題詞]高丘河内連歌二首

故郷者  遠毛不有  一重山  越我可良尓  念曽吾世思

故郷は 遠くもあらず 一重山 越ゆるがからに 思ひぞ我がせし
 
ふるさとは とほくもあらず ひとへやま こゆるがからに おもひぞわがせし

・・・・・・・・・・・・・・・・
故郷は遠いわけではない

山を一つ隔てるばかりなのに

恋しくてならなかったよ
・・・・・・・・・・・・・・・・

* 当時の都は恭仁京。「一重山」は普通名詞で、奈良旧京と恭仁京を隔てる山を指す。



6 1039;雑歌,作者:高丘河内,恋情,相聞

[題詞](高丘河内連歌二首)

吾背子與  二人之居者  山高  里尓者月波  不曜十方余思

我が背子と ふたりし居らば 山高み 里には月は 照らずともよし 

わがせこと ふたりしをらば やまたかみ さとにはつきは てらずともよし

・・・・・・・・・・・・・・
あなたと二人でいるので

山が高いので

この里に月が照らなくても

かまいはしない
・・・・・・・・・・・・・・

高丘河内 たかおかのかわち 生没年未詳 
百済系渡来人沙門詠の子。比良麻呂の父。はじめ楽浪(ささなみ)河内を名乗ったが、神亀元年(724)、高丘連を賜姓された。
元正・聖武・孝謙朝に仕えた官人。学者でもあり、聖武天皇が皇太子であった時、侍講に任命され、学問に優れた人物として褒賞されている。
天平十三年(741)には恭仁京における庶民の宅地班給・左右京の設定に従事し、翌年の紫香楽村行幸に際しては造離宮司に任じられる等、宮都の造営に活躍した。
天平十八年には伯耆守に任じられている。
天平勝宝六年(754)、正五位下に至る。この頃大学頭を務めた。
万葉集に二首の歌を残している。(千人万首)



6 1040;雑歌,作者:大伴家持,安積皇子,藤原八束,宴席,京都,久邇京

[題詞]安積親王宴左少辨藤原八束朝臣家之日内舎人大伴宿祢家持作歌一首

久堅乃  雨者零敷  念子之  屋戸尓今夜者  明而将去

ひさかたの 雨は降りしけ 思ふ子が やどに今夜は 明かして行かむ
 
[ひさかたの] あめはふりしけ おもふこが やどにこよひは あかしてゆかむ

・・・・・・・・・・・・
雨は降り続けるがよい

思いをかける娘の家で

この夜を明かしてゆこう
・・・・・・・・・・・・
安積皇子は、17才の若さで亡くなった。
聖武天皇のただ一人の皇子で、当時、藤原氏所出の光明皇后の子阿倍内親王が異例の女性皇太子であり、代わり立太子の期待があったといわれる。
橘諸兄、大伴家持は皇子の後盾であった。皇子主催の宴も行われていた。

『続日本紀』は、次のように記す。
「天平十五年正月十一日、聖武天皇は難波宮に行幸された。
この日、安積親王は脚の病のため、桜井頓宮から恭仁京に還った。
正月十三日、安積親王が薨じた。時に年は十七歳であった。
安積親王は聖武天皇の皇子であり、母は夫人・正三位の県犬養宿禰広刀自で、従五位下・県犬養宿禰唐の女である。」
藤原氏との政争の内、暗殺説もささやかれたという。

<転載記事>[近畿風雲抄]
http://www.k4.dion.ne.jp/~kinki/kyouto/wazuka_asakaou.html
 恭仁京の左少弁藤原八束の家に招かれた安積親王。近侍する内舎人大伴家持もいた。安積親王は聖武天皇の第2子。母は夫人県犬養広刀自である。光明皇后を母とした第1子基親王は生後まもなく薨じ、安積親王は将来を嘱望された皇子だった。このとき、親王16歳、八束29歳、家持28歳ころかと思われる。
 八束邸に集まった3人は、建設が進む新都恭仁京に降る雨を感じながら夜更けまで狩のことなど語りあったことであろう。「ひさかたの 雨は降りしけ 思ふ児が 宿に今夜は 明かして行かむ」と詠った家持だった。その5年前、光明皇后の娘阿倍内親王が立太子していたが、藤原氏の専制に倦んでいた氏族にはやがてはと安積親王に期待するところもあったろう。それはまた、八束邸に集まった3人の若き諸氏のおもいとも異なるところはなかったであろう。
 しかし、翌天平16(744)年1月、難波宮に向かった安積親王が途中、体調を崩しまもなく薨去。親王の突然の薨去に揺れる心を必死に抑えつつ、・・・かけまくも あやに恐し 我が大君 皇子の命 ・・・と歌う家持。長歌2首、反歌をそれぞれ2首奉った家持。「我が大君 天知らさむと 思はねば おほにそ見みける 和束(わづか)そま山」と別れを悼んだ家持だった。安積親王の墓は恭仁京にほど近い、木津川の支流和束川のほとりの小高い丘陵上にある(写真上)。和束町はお茶の生産で名のあるところ。茶畑が天に至る。その盆地の中央部で非業の皇子が眠っている。
 安積親王の突然の薨去をめぐって諸説がある。九州で藤原弘嗣の乱が勃発し、長屋王、橘諸兄(葛城王)が次々と失脚してゆく。彷徨する聖武天皇。臣下から立后した藤原一族の安宿媛(光明子)。遠い昔に先例がないわけはなかったが、当時皇后はみな皇族であったから、聖武天皇は特に詔書を発して仁徳天皇が葛城襲津彦の娘磐之媛を皇后に立てた先例を紹介したのだった。光明子の娘阿倍内親王が立太子し、やがて帝位につき孝謙天皇となる。当時としては異例の立后、立太子であり、背後に藤原一族の影が見え隠れする。安積親王もまた長屋王、橘諸兄と同様に反藤原とみられた皇子であったのかもしれない。




6 1041;雑歌,安倍虫麻呂,宴席,京都,久邇京,天平16年1月5日

[題詞]十六年甲申春正月五日諸卿大夫集安倍蟲麻呂朝臣家宴歌一首 [作者不審]

吾屋戸乃  君松樹尓  零雪<乃>  行者不去  待西将待

我がやどの 君松の木に 降る雪の 行きには行かじ 待にし待たむ 

わがやどの きみまつのきに ふるゆきの ゆきにはゆかじ まちにしまたむ

・・・・・・・・・・・・・・・・・
私の家の君を待つという

その松の木に降る雪のように

行き(雪)はいたしません

ひたすら待つ(松)ことにしましょう
・・・・・・・・・・・・・・・・・



6 1042;雑歌,作者:市原王,宴席,天平16年1月11日,寿,京都,久邇京

[題詞]同月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首

一松  幾代可歴流  吹風乃  聲之清者  年深香聞

一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の音の清きは 年深みかも 
 
ひとつまつ いくよかへぬる ふくかぜの おとのきよきは としふかみかも

[左注]右一首市原王作

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この一本松は幾代を経てきたのだろう

松に吹く風の音が清らかなのは

年輪を深く重ねたからだろう
・・・・・・・・・・・・・・・・・:
* 市原王は志貴皇子の曾孫。



6 1043;雑歌,作者:大伴家持,宴席,天平16年1月11日,永遠,寿,京都,久邇京

[題詞](同月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首)

霊剋  壽者不知  松之枝  結情者  長等曽念

たまきはる 命は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとぞ思ふ
 
[たまきはる] いのちはしらず まつがえを むすぶこころは ながくとぞおもふ

[左注]右一首大伴宿祢家持作

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
命の長さは知らないが

ただこうして松の枝を結ぶ私の心は

長く続いて欲しいと願う
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

* 「松が枝を結ぶ」のは身の安全や長命を祈るまじない。
安積皇子の長命を祈る歌。



6 1044;雑歌,哀惜,平城京,荒都歌,奈良

[題詞]傷惜寧樂京荒墟作歌三首 [作者不審]

紅尓  深染西  情可母  寧樂乃京師尓  年之歴去倍吉

紅に 深く染みにし 心かも 奈良の都に 年の経ぬべき 

くれなゐに ふかくしみにし こころかも ならのみやこに としのへぬべき

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
紅に色深く染まるようになじんだ気持ちで 

さびれた奈良の都に年が過ごせようか
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

* 寧樂と平城と奈良が、同じヤマトの奈良を指しているように見える。また京師と都が同じ意味であるように見える。1044 と1045 の2首は倭国の歌、
1046 はヤマトを歌うものか。
* 「紅」;キク科の紅花(ベニバナ)のことです。アザミに似た花を咲かせます。アジア原産の一年草で、日本には、飛鳥時代にやってきたと考えられています。紅花(ベニバナ)は染色に使われ、朱華(はねず)、紅(くれない)、黄丹(おうに)などの色を作り出していました。
朱華(はねず)や紅(くれない)に染色された衣服は、灰で洗濯すると色落ちがします。そのことから、「うつろう」、「はかない」の言葉を導くようになったと考えられます。万葉集には、末摘花(すえつむはな)という呼び名でも登場します。([たのしい万葉集]より転載。)



6 1045;雑歌,哀惜,平城京,荒都歌,無常,奈良

[題詞](傷惜寧樂京荒墟作歌三首 [作者不審])

世間乎  常無物跡  今曽知  平城京師之  移徙見者

世間を 常なきものと 今ぞ知る 奈良の都の うつろふ見れば 

よのなかを つねなきものと いまぞしる ならのみやこの うつろふみれば

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この世の中を無情なものだと今こそ思い知ったことだ

あの立派だった奈良の都が

荒れ果てて行くのを見ると
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

* 藤原京遷都から74年つづいた平城京は、あまりにも仏教を重んじたためついに政治に口だしする道鏡のような僧があらわれるにいたった。そこで桓武天皇は人心を一新すると同時に蝦夷への出兵の便を計るため784年山城國長岡の地へ遷都を決意された。桓武天皇は、平安京の建設にあたって平城京からの寺院の移築をゆるさなかった。明日香京、藤原京、平城京と延々と培われて来た政治文化、芸術等々すっかり平安京にもちさられた。



6 1046;雑歌,哀惜,平城京,荒都歌,奈良

[題詞](傷惜寧樂京荒墟作歌三首 [作者不審])

石綱乃  又變若反  青丹吉  奈良乃都乎  又将見鴨

岩綱の また変若ちかへり あをによし 奈良の都を またも見むかも
 
いはつなの またをちかへり あをによし ならのみやこを またもみむかも

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
岩綱のようにまた若返って

奈良の都が栄えるのを

再び見ることができるでしょうか
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

* 岩綱(いはつな)は蔦(つた)のこと。
* 元明天皇の和同3年(710)3月に藤原京から平城京への遷都がなされた。以降、桓武天皇の延暦3年(784)年の間都であった。ただし、天平12年〜17年は、恭仁(くに)・紫香楽(しがらき)・難波(なにわ)に都が移された。

この時代は、元明天皇・元正天皇・聖武天皇・孝謙天皇・淳仁天皇・称徳天皇(孝謙天皇に同じ)・光仁天皇・桓武天皇と続いた。



6 1047;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,哀惜,平城京,荒都歌,奈良

[題詞]悲寧樂故郷作歌一首[并短歌]
奈良平城京の荒廃を悲しむ歌。

・・・・・・・・・・・・・
[原文]ー[訓読]ー[仮名]ー
八隅知之ー[やすみしし]ー
吾大王乃ー我が大君のーわがおほきみのー
高敷為ー高敷かすーたかしかすーあまねく天下を支配なさる天皇が
日本國者ー大和の国はーやまとのくにはー大和の国は
皇祖乃ーすめろきのー
神之御代自ー神の御代よりーかみのみよよりー皇祖の神の御代より
敷座流ー敷きませるーしきませるーお治めになる
國尓之有者ー国にしあればーくににしあればー国であれば
阿礼将座ー生れまさむーあれまさむーこの世に現れたまう
御子之嗣継ー御子の継ぎ継ぎーみこのつぎつぎー代々の皇子が
天下 ー天の下ーあめのしたー天下を
所知座跡ー知らしまさむとーしらしまさむとー治められるものとして
八百萬ー八百万ーやほよろづー
千年矣兼而ー千年を兼ねてーちとせをかねてー千年万年にわたる
定家牟ー定めけむーさだめけむー都として定められた
平城京師者 ー奈良の都はーならのみやこはーこの奈良の都は
炎乃ー[かぎろひの]ー
春尓之成者ー春にしなればーはるにしなればー陽炎の立つ 春になれば
春日山ーかすがやまー春日の山 
御笠之野邊尓ー御笠の野辺にーみかさののへにー三笠の野辺に
櫻花ー桜花ーさくらばなー桜の花の咲く
木晩牢ー木の暗隠りーこのくれがくりー木陰に 
皃鳥者ー貌鳥はーかほどりはー カッコウが
間無數鳴ー間なくしば鳴くーまなくしばなくー絶え間なく鳴き
露霜乃 ー露霜のー[つゆしもの]ー露が冷たく置く 
秋去来者ー秋さり来ればーあきさりくればー秋が来れば
射駒山ー生駒山ーいこまやまー生駒の  
飛火賀<す>丹ー飛火が岳にーとぶひがたけにー飛火が岳では
芽乃枝乎ー萩の枝をーはぎのえをー萩の枝を
石辛見散之ーしがらみ散らしーしがらみちらしー絡みつかせて
狭男<壮>鹿者ーさを鹿はーさをしかはー牡鹿は
妻呼令動ー妻呼び響むーつまよびとよむー妻を呼び響(とよ)み
山見者ー山見ればーやまみればー山を見れば 
山裳見皃石ー山も見が欲しーやまもみがほしー山は美しく
里見者ー里見ればーさとみればー里を見れば 
里裳住吉ー里も住みよしーさともすみよしー里は豊かで住み良い
物負之ー[もののふの]ー 
八十伴緒乃 ー八十伴の男のーやそとものをのー大勢の宮人達が
打經而ーうちはへてー常々
思<煎>敷者ー思へりしくはーおもへりしくはー思っていたこは
天地乃ー天地のーあめつちのー天地の
依會限ー寄り合ひの極みーよりあひのきはみー寄り合う果て極まりなく 
萬世丹ー万代にーよろづよにーいついつまでも 
榮将徃迹 ー栄えゆかむとーさかえゆかむとー栄えゆくものと
思煎石ー思へりしーおもへりしーそう思っていた
大宮尚矣ー大宮すらをーおほみやすらをー大宮なのに
恃有之ー頼めりしーたのめりしーそのように頼りにしていた
名良乃京矣ー奈良の都をーならのみやこをー奈良の都だったのに
新世乃ー新代のーあらたよのー新しい時代になったとの
事尓之有者ーことにしあればーことであったので
皇之ー大君のーおほきみのー天皇の 
引乃真尓真荷ー引きのまにまにーひきのまにまにーお導きのまま
春花乃ー春花のーはるはなのー春花が  
遷日易ーうつろひ変りーうつろひかはりー移ろい変ように
村鳥乃ー 群鳥のーむらとりのー群鳥が
旦立徃者ー朝立ち行けばーあさだちゆけばー朝立ちするように あわただしく行ってしまった
刺竹之 ーさす竹のー[さすたけの]ー
大宮人能ー大宮人のーおほみやひとのー大宮人が
踏平之ー踏み平しーふみならしー踏みならし
通之道者ー通ひし道はーかよひしみちはー通った道を
馬裳不行 ー馬も行かずーうまもゆかずー馬も行かず
人裳徃莫者 ー人も行かねばーひともゆかねばー人も通わないので
荒尓異類香聞ー荒れにけるかもーあれにけるかもー荒れはててしまったことだなあ
・・・・・・・・・・・・・
[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)



6 1048;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,哀惜,平城京,荒都歌

[題詞](悲寧樂故郷作歌一首[并短歌])反歌二首

立易  古京跡  成者  道之志婆草  長生尓異<煎>

たち変り 古き都と なりぬれば 道の芝草 長く生ひにけり
 
たちかはり ふるきみやこと なりぬれば みちのしばくさ ながくおひにけり

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
都が移っていってしまったので

道端の芝草が生い茂ってしまったことだ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



6 1049;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,哀惜,平城京,荒都歌

[題詞]((悲寧樂故郷作歌一首[并短歌])反歌二首)

名付西  奈良乃京之  荒行者  出立毎尓  嘆思益

なつきにし 奈良の都の 荒れゆけば 出で立つごとに 嘆きし増さる
 
なつきにし ならのみやこの あれゆけば いでたつごとに なげきしまさる

[左注](右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
慣れ親しんだ奈良の都が荒れてゆく

道に出てそのありさまを見るたびに

嘆きはますますつのるばかりだよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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