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万葉集コミュの万葉集6 1013・1014

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6 1013;雑歌,作者:門部王,宴席,歓迎,天平9年1月

[題詞]九年丁丑春正月橘少卿并諸大夫等集弾正尹門部王家宴歌二首

豫  公来座武跡  知麻世婆  門尓屋戸尓毛  珠敷益乎

あらかじめ 君来まさむと 知らませば 門に宿にも 玉敷かましを
 
あらかじめ きみきまさむと しらませば かどにやどにも たましかましを

[左注]右一首主人門部王 [後賜姓大原真人氏也]

・・・・・・・・・・・・・
前もって貴方が来ると知っていたのなら

門にも戸口にも美しい玉を飾りつけていましたのに
・・・・・・・・・・・・・
* 門部王 かどべのおおきみ 生年未詳〜天平十七(745) 
父母等は未詳。『新撰姓氏録』によれば敏達天皇の孫である百済王の後裔。
『皇胤紹運録』は長親王の孫とするが、これは疑わしい(高安王参照)。
同じく紹運録によれば、川内王の子、高安王・桜井王の弟。
なお、和銅六年(713)に無位より従四位下に叙された同名の王がいて、略歴の一部は判別し難い。
和銅三年(710)正月、無位より従五位下。養老元年(717)正月、従五位上。養老三年七月、伊勢守に伊賀・志摩按察使を兼ねる。養老五年正月、正五位下。神亀元年(724)二月、正五位上。神亀五年(728)五月、従四位下。
この頃、「風流侍従」として長田王・佐為王・桜井王ら十余人と共に聖武天皇に仕える(『藤氏家伝』武智麻呂伝)。
天平六年(734)二月、朱雀門で歌垣が催された際、長田王・栗栖王らと共に頭をつとめる。
天平九年一月、橘少卿(佐為)らを家に招き宴(万葉6-1013・1014)。この時弾正尹。同年十二月、右京大夫。天平十一年四月、高安王と共に大原真人を賜姓される。
天平十四(742)四月、従四位上。
天平十七年(745)四月二十三日、卒。大蔵卿従四位上。
万葉には五首。歌からは養老末年頃出雲守として赴任していたことが知られる。



6 1014;雑歌,作者:橘文成,宴席,主人讃美,天平9年

[題詞](九年丁丑春正月橘少卿并諸大夫等集弾正尹門部王家宴歌二首)

前日毛  昨日毛<今>日毛  雖見  明日左倍見巻  欲寸君香聞

一昨日も 昨日も今日も 見つれども 明日さへ見まく 欲しき君かも
 
をとつひも きのふもけふも みつれども あすさへみまく ほしききみかも

[左注]右一首橘宿祢文成 [即少卿之子也]

・・・・・・・・・・・
おとといも昨日も今日も君に会ったけど

明日も君に会いたい
・・・・・・・・・・・
<転載記事>
[月岡道晴]万葉恋の歌(13)
 今回も防人の歌から恋歌を紹介します。
 前回GPS付き携帯電話のお話をしたので、今回も携帯電話つながりの歌を。

(天平勝宝七歳乙未の二月に相替りて筑紫に遣はさるる諸国の防人等が歌)
わがつまも畫にかきとらむいつまもがたびゆくあれはみつつしのはむ(巻20・4327)
我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く吾れは見つつ偲はむ
 右の一首、長下郡の物部古麻呂
(二月六日に防人部領使遠江国史生坂本朝臣人上が進る歌の数十八首。但し、拙劣の歌十一首有るは取り載せず。)

 これは前々回に紹介した歌と同じ一連にある一首です。やはり同じように家持の厳しい選をくぐっていますから、秀歌であることは疑いがありません。歌の内容は、妻を絵に描きとる時間があったらなあ――旅先でそれを取り出しては妻を偲ぶよすがにしようというもの。昔話にも「絵姿女房」という話があって、美人のお嫁さんから離れられなくなった聟がやはり同じように女房を絵に描き取り、農作業の合間にそれを見てはまた仕事に励んだということが話の発端になっています。
 これは現代のわれわれにもよくわかる心情です。携帯電話を取り出して待ち受け画面をごらんになってください。恋人やお子さんや家族、ペットなどがそこに写っているのではないですか? 集中には
「前日〔をとつひ〕も昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも」(巻6・1014橘宿祢文成)という歌もあります。
いつも肌身離さず愛しい人を見ていたいと思う心情は、いまも昔も変わりありません。

 ただ、万葉びとのことを充分に理解するためには、このような捉えかたでは不充分です。前回、誓いの紐を結ぶのは、「結び目を保っておくことで、それを結んでくれた妻や家族に旅の安全を守ってもらえると考えてい」たからだと述べました。このような旅人と妻や家族との呪術的関係について、神野志隆光氏は新羅に使わされた使節とその妻の作、
「大船をあるみにいだしいます君つつむことなくはやかへりませ」(巻15・3592)
「真幸くていもがいははばおきつなみちへにたつともさはりあらめやも」(3583)
を引用しながら次のように述べています。
「「つつむことなく早帰りませ」という家人に対して旅人は「妹がいははば(略)障りあらめやも」と応ずる。旅人の無事な早い帰着の為に家人(妻)は〈いはふ〉のである。……家人の〈いはふ〉ことは旅する者の安全につながる不可欠のものなのであった。……その家人と旅人との共感関係は呪術的である。……「類感呪術」的と云えよう。」
 このような〈斎い〉を旅人が怠ったならば、どうなると考えられていたのでしょうか? 
「壱岐島に至りて、雪連宅満が忽ちに鬼病に遇ひて死去せし時に作る歌一首并せて短歌」と題する歌の冒頭では、
「すめろきのとほの朝庭と から國にわたるわがせは いへびとのいはひまたねか ただみかもあやまちしけむ……」(巻15・3688)
とうたわれています。急な病に遇って死んでしまった原因は、何か誤りがあって家びとの斎いを充分に受けなかったことに求められたのでした。
防人も実際、
あしがらのみさかたまはり かへりみずあれはくえゆく あらしをもたしやはばかる 不破のせきくえてわはゆく むまのつめつくしのさきに ちまりゐてあれはいははむ もろもろはさけくとまをす かへりくまでに
(足柄のみ坂賜はり かへり見ず我は越え行く 荒し男も立しやはばかる 不破の関越えて我は行く 馬の爪筑紫の崎に 留まり居て我は斎はむ 諸々は幸くと申す 帰り来までに)(巻20・4372倭文部可良麻呂)
のようにうたって、家びととの斎いを確認し自らの安全を祈っています。

 防人はやたらと歌に妻や父母を詠みこんでおり、それは防人自身の人間性の豊かさの表われだとして理解されることが専らなのですが、冒頭に掲げた今回の恋歌も、

いへにしてこひつつあらずはながはけるたちになりてもいはひてしかも
(家にして恋ひつつあらずは汝が佩ける大刀になりても斎ひてしかも)(巻20・4347國造丁日下部使主三中之父)
のような作とともに読むと、やはり〈家びとの斎い〉を背景にする一首だと考えざるを得ません。

防人がひたすら家族を思って歌に詠むのは、彼らがみな心弱かったからだとみるべきなのではなく、彼らが共通してもっていた信仰や習慣によるものだったと考えるのが適当なのです。

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