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万葉集コミュの万葉集 1003 ・1004・1005・1006 ・1007・1008・1009・1010・1011・1012

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6 1003;雑歌,作者:葛井大成、羈旅,佐賀,叙景,漁夫

[題詞]筑後守外従五位下葛井連大成遥見海人釣船作歌一首

海D嬬  玉求良之  奥浪  恐海尓  船出為利所見

海女娘子 玉求むらし 沖つ波  畏き海に 舟出せり見ゆ 

あまをとめ たまもとむらし おきつなみ かしこきうみに ふなでせりみゆ
・・・・・・・・・・
神々しい雄大な海に船を浮かべている

ほら

海がすごく透明で

あそこの若い海女さんはとても長い間潜っているよ

一体なにを獲っているのかなあ
  
あれこれ見ているときりがない
・・・・・・  
胸のすくような景色で時を忘れてしまうよ
小枝や葦で囲った海女囲いの中から大鍋で雑炊でも煮ているのかしら
おいしそうな匂いがただよってくる
冷えた海女娘子のからだを温めるんだなあ
・・・・・・・・・・
「好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之」 末盧国(佐賀松浦地域)の住人は)好んで魚や鰒(あわび)を捕る、水の深浅に関係なく、皆、潜ってこれを取る。
「倭水人好沈没捕魚蛤」 倭の水人(海人)は好んで海中に潜り、魚や蛤貝を捕獲する。

壱岐や島を伝いにさらに対馬、朝鮮へとつながる古代からの「道」でもある海。漁へ出向く漁船、ザザーッという岩にぶつかる波音…。大らかな風景に身をゆだねていると思い出す。
いつしか暮れて茜色の浜辺、一人幼子の頃。



6 1004;雑歌,作者:按作益人,佐為王、宴席,主人,もてなし,別れ,奈良

[題詞]按作村主益人歌一首

不所念  来座君乎  <佐>保<川>乃  河蝦不令聞  還都流香聞

思ほえず 来ましし君を 佐保川の かはづ聞かせず 帰しつるかも
 
おもほえず きまししきみを さほがはの かはづきかせず かへしつるかも

[左注]右内<匠>大属按作村主益人聊設<飲饌>以饗長官佐為王 未及日斜王既還歸 於時益人怜惜不○之歸仍作此歌
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
思いもかけず来られた

貴い上司をろくに接待もできず

佐保川の蛙の声さえ聞いてもらえないまま

お帰ししてしまったなあ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


6 1005;雑歌,作者:山部赤人、行幸,従駕,応詔,吉野,離宮,宮廷讃美,天平8年6月

[題詞]八年丙子夏六月幸于芳野離宮之時山<邊>宿祢赤人應詔作歌一首[并短歌]
((736)、聖武天皇 八年丙子(ひのえね)夏の六月に、芳野の離宮に幸(いでま)す時に、山部宿禰赤人、詔(みことのり)に応(こた)へて作る歌一首 并せて短歌)
・・・・・・・・・・・・
八隅知之ー[やすみしし] 
我大王之ー我が大君のーわがおほきみのー我らの大君
見給ー見したまふーめしたまふーがお治めになる
芳野宮者ー吉野の宮はーよしののみやはー吉野の離宮は
山高ー山高みーやまたかみー山が高いので
雲曽軽引ー雲ぞたなびくーくもぞたなびくー雲が棚引いている
河速弥ー川早みーかははやみー川の流れが速いので
湍之聲曽清寸ー瀬の音ぞ清きーせのおとぞきよきー瀬音がさやかである
神佐備而ー神さびてーかむさびてー山は神々しく
見者貴久ー見れば貴くーみればたふときー見るほどに貴く
宜名倍ーよろしなへーぴったりと心にかなって
見者清之ー見ればさやけしーみればさやけしー見るほどに清々しい
此山<乃>ーこの山のーこのやまのーこの山が
盡者耳社ー尽きばのみこそーつきばのみこそー尽きてなくなりでもしたら
此河乃ーこの川のーこのかはのーこの川が
絶者耳社ー絶えばのみこそーたえばのみこそー絶えてなくなりでもしたら
百師紀能ーももしきのー[ももしきの]
大宮所ー大宮所ーおほみやところー大宮所が
止時裳有目ーやむ時もあらめーやむときもあらめー廃止される時もあろう
・・・・・・・・・・・・・


6 1006;雑歌,作者:山部赤人、行幸,従駕,応詔,吉野,離宮,讃美,天平8年6月

[題詞](八年丙子夏六月幸于芳野離宮之時山<邊>宿祢赤人應詔作歌一首[并短歌])反歌一首

自神代  芳野宮尓  蟻通  高所知者  山河乎吉三

神代より 吉野の宮に あり通ひ 高知らせるは 山川をよみ 

かむよより よしののみやに ありがよひ たかしらせるは やまかはをよみ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神代の昔から吉野の離宮に通い続け

ここを営まれてきたのは

山と川が揃って素晴らしいからだ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


6 1007;雑歌,作者:市原王、独り,悲哀、

[題詞]市原王悲獨子歌一首

言不問  木尚妹與兄  有云乎  直獨子尓  有之苦者

言問はぬ 木すら妹と兄と ありといふを ただ独り子に あるが苦しさ
 
こととはぬ きすらいもとせと ありといふを ただひとりこに あるがくるしさ
・・・・・・・・・・・・・
物を言わない木にすら姉妹や兄弟があるというのに

全くの独り子なのが辛いことよ
・・・・・・・・・・・・・
* 「せ」
(1)女性から見て、同腹の男の兄弟をいう語。年上にも年下にもいう。
(2)女性が、自分の恋人や夫をいう語。
(3)一般に、男性を親しんで呼ぶ称。

* 「いも」
(1)男性から見て、同腹の女のきょうだいをいう語。年上にも年下にもいう。
(2)男性が自分の恋人や妻をいう語。
(3)一般に、女性を親しんで呼ぶ称。女性からもいう。
・・・・・・・・・・・・・・
市原王 いちはらのおおきみ 生没年未詳
天智天皇五世の孫。安貴王の子。志貴皇子または川島皇子の曾孫。春日王の孫。光仁天皇の皇女、能登内親王(733〜781)を妻とし、五百井女王・五百枝王の二人の子をもうけた。大伴家持とは私的な宴も持つ。



6 1008;雑歌,作者:忌部黒麻呂,怨恨,待つ,宴席

[題詞]忌部首黒麻呂恨友し来歌一首
(*忌部首黒麻呂の、友の遅く来ることを恨むる歌一首)

山之葉尓  不知世經月乃  将出香常  我待君之  夜者更降管

山の端に いさよふ月の 出でむかと 我が待つ君が 夜はくたちつつ 

やまのはに いさよふつきの いでむかと わがまつきみが よはくたちつつ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
山の端をためらって離れぬ月のように 

もういらっしゃるかと吾が待つ君は

なかなか現れないまま夜は更けてゆくよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
*くたち【降ち】
《動詞「くたつ」の連用形から。「くだち」とも、夜が更けて行く意。
*「我が待つ君が」の後に「来まさぬ」などが略された形。


忌部黒麻呂 いんべのくろまろ 生没年未詳
天平宝字二年(758)八月、正六位上より従五位下。翌年十二月、首(おびと)より連(むらじ)に改姓。同六年正月、図書寮の内史局助に任ぜられる。万葉集に四首の歌を残す(6-1008、8-1556・1647、16-3848)。また16-3832の「忌部首」も黒麻呂か(万葉集古義)。



6 1009;雑歌,作者:聖武天皇,元正天皇,作者異伝,讃美,宴席,寿歌,祝い,天平8年11月

[題詞]冬十一月左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製歌一首

橘者  實左倍花左倍  其葉左倍  枝尓霜雖降  益常葉之<樹>

橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉の木 

たちばなは みさへはなさへ そのはさへ えにしもふれど いやとこはのき

[左注]右冬十一月九日 従三位葛城王従四位上佐為王等 辞皇族之高名 賜外家之橘姓已訖 於時太上天皇々后共在于皇后宮 以為肆宴而即御製賀橘之歌 并賜御酒宿祢等也 或云 此歌一首太上天皇御歌 但天皇々后御歌各有一首者 其歌遺落未得<探>求焉 今檢案内 八年十一月九日葛城王等願橘宿祢之姓上表 以十七日依表乞賜橘宿祢
<冬十一月、左大弁葛城王等に、橘の氏をたまへる時の御製歌一首>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
橘は実も花もその葉までも

枝に霜が降りても枯れ落ちるどころか

いよいよ栄える常緑の美しい木であるよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「冬十一月、左大弁葛城王たちが姓橘の氏を賜った時の聖武天皇の御歌一首」。
また、「この歌一首は太上天皇(元正天皇)の御歌なりといへり・・・」の付記もある。
「橘」は、みかんの古名で柑子みかん(紀州みかん)や日本橘の類とされている。

【主な派生詩歌】
ことの葉の 実さへ花さへ 橘の これとさだめて にほふ宿かも
 (三条西実隆)
ことの葉の たねにもうつせ 橘の 実さへ花さへ あかぬにほひを
 (中院通勝)
山姫や 君がためにと 時わかぬ 実さへ花さへ さらにをりけん
 (中院通村)
枝にみちて かをるもあかぬ 立花は 実さへ花さへ 常盤にをみん
 (霊元院)
言の葉の 昔の風も 知るやいかに 実さへ花さへ 匂ふ橘
 (武者小路実陰)
鬼灯は 実も葉も殻も 紅葉かな
 (芭蕉)

<千人万首>
・・・・・・・・・・



6 1010;雑歌,作者:橘奈良麻呂,応詔,寿歌,祝い,天平8年11月

[題詞]橘宿祢奈良麻呂應詔歌一首

奥山之  真木葉凌  零雪乃  零者雖益  地尓落目八方

奥山の 真木の葉しのぎ 降る雪の 降りは増すとも 地に落ちめやも
 
おくやまの まきのはしのぎ ふるゆきの ふりはますとも つちにおちめやも
・・・・・・・・・・・
奥山の真木の葉をなびかせて降る雪が

いっそう降るとも

たちばなの実は地に落ちることがありましょうか
・・・・・・・・・・・
* 京都御所の中心に紫宸殿がある。前庭の右には橘、左には桜が植えられている。橘は、垂仁天皇が田道間守(たじまもり)を常世の国に派遣して求めさせた樹木だとか。
橘は常住不変すなわち皇室の永続を願っている。桜は、人の命などのはかなさを象徴する意味がある。


* 橘奈良麻呂;
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/07/04 14:50 UTC 版)

橘 奈良麻呂(たちばな の ならまろ、養老7年(721年)? - 天平宝字元年(757年)7月)は、奈良時代の公家、政治家である。父は橘諸兄、母は藤原不比等の娘の多比能。

父・諸兄は聖武天皇の信任を得て政権を担い、天平15年(743年)には従一位左大臣にまで昇進している。

天平12年(740年)、奈良麻呂は従五位下に任じられ、同年中に従五位上に昇進。天平13年(741年)、大学頭になる。天平15年(743年)、正五位上。天平17年(745年)、摂津大夫。天平18年(746年)、民部大輔になる。天平19年(747年)、従四位下。

天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位すると(孝謙天皇)、光明皇后の信任厚く、また孝謙天皇に寵愛される藤原仲麻呂が急速に台頭して、諸兄と対立するようになった。同年、奈良麻呂は従四位上にのぼり侍従、参議となる。天平勝宝4年(752年)、但馬因幡按察使となる。天平勝宝6年(754年)、正四位下。

天平勝宝7歳(755年)、諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとのの密告があり、恥じた諸兄は隠居。2年後、諸兄は失意のうちに死去した。

天平勝宝8歳(756年)、聖武太上天皇が崩御し、遺言により道祖王が立太子された。だが天平宝字元年(757年)3月、孝謙天皇は道祖王に不行跡があるとして皇太子を解き、5月、仲麻呂が推す大炊王が立太子される。

同年6月、奈良麻呂は右大弁になる。奈良麻呂は仲麻呂の専横に強い不満を持ち、大伴古麻呂、小野東人らと語らい仲麻呂の排除を画策した。奈良麻呂は会合を重ね密かに同志を募ったが、そこから密謀が漏れてしまう。山背王が仲麻呂に「奈良麻呂らが兵器を準備している」と密告した。

7月2日(7月26日)、上道斐太都が小野東人から奈良麻呂らの謀反への参加を呼びかけられたと密告があり、東人らが捕らえられ訊問された。東人は訊杖による拷問を受けて全てを白状した。計画は、奈良麻呂らが兵を起こして仲麻呂を殺して皇太子を退け、次いで駅鈴と玉璽(ぎょくじ)を奪い、右大臣・藤原豊成を奉じて天下に号令し、天皇を廃して塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。

東人の供述に基づき翌3日(27日)、奈良麻呂、道祖王、黄文王、古麻呂、多治比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角足(かものつのたり)等、名前を挙げられた人々は一斉に逮捕された。奈良麻呂は中納言・藤原永手の訊問に対して「政治が無道だから兵を起こして、その上で陳情しようとした」と答えた。永手が「何ゆえ政治が無道なのか」と問うと、奈良麻呂は「東大寺などを造り人民が辛苦している」と答えた。永手が「東大寺はお前の父の時代に造ったものだ。お前の言うべきことではない」と問い詰めると奈良麻呂は答えに窮した。
佐伯全成(さえきのまたなり)の自白によると、奈良麻呂が謀反を考え始めたのは天平17年(745年)に聖武天皇が難波に行幸したときのことで、その時に初めて謀反に誘われたと答えた。訊問後、佐伯全成は自殺した。

孝謙天皇は逮捕された人々を本来は死罪に処すところ、死一等を減じて流罪に処すると詔した。しかし、政治の粛正を図りたい仲麻呂は断固として手を緩めなかった。翌日、謀反に関わった道祖王、黄文王、古麻呂、犢養らに対し、永手、百済王敬福、船王らの監督のもと、全身を訊杖で何度も打つ拷問が行われた(先に拷問された東人も含め)。これらの加担者は長時間にわたる拷問の末、次々と獄死した。首謀者の奈良麻呂については続日本紀に記録が残っていないが、同様に獄死したと思われる。後に奈良麻呂の孫の嘉智子が嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)となったために記録から消されたと考えられている(橘奈良麻呂の乱)。

皮肉なことに、奈良麻呂の死後に生まれた息子・清友の娘・嘉智子が嵯峨天皇の妃となって後の仁明天皇を生んだことから、承和14年(847年)に政敵・仲麻呂が後に謀反を起こして失うこととなった太政大臣の位を贈られている。


* 「橘」はつながっている。(聖は真人とも書く。)
  橘寺で生まれた聖徳太子。弟橘媛(日本武尊の妃)も橘。天智天皇、天武天皇・・・



6 1011;雑歌,古歌,唱和,伝誦,葛井広成,風流,天平8年12月12日

[題詞]冬十二月十二日歌N所之諸王臣子等集葛井連廣成家宴歌二首 / 比来古N盛興 古歳漸晩 理宜共盡古情同唱<古>歌 故擬此趣<輙>獻古曲二節 風流意氣之士儻有此集之中 争發念心々和古體

我屋戸之  梅咲有跡  告遣者  来云似有  散去十方吉

我が宿の 梅咲きたりと 告げ遣らば 来と言ふに似たり 散りぬともよし 

わがやどの うめさきたりと つげやらば こといふににたり ちりぬともよし
・・・・・・・・・
「家のお庭の梅が咲きましたよ」と告げ遣ったら
「いらして」と言うのと同じですよ
梅の花を堪能した後は
もう散ってもよい よ
・・・・・・・・・
*  月夜よし 夜よしと人に 告げやらば 来てふににたり 待たずしもあらず(古今)



1012;雑歌,古歌,唱和,伝誦,葛井広成,風流,天平8年12月12日

[題詞](冬十二月十二日歌○所之諸王臣子等集葛井連廣成家宴歌二首 / 比来古N盛興 古歳漸晩 理宜共盡古情同唱<古>歌 故擬此趣<輙>獻古曲二節 風流意氣之士儻有此集之中 争發念心々和古體)

春去者  乎呼理尓乎呼里  鴬<之  鳴>吾嶋曽  不息通為

春されば ををりにををり 鴬の 鳴く我が山斎ぞ やまず通はせ 

はるされば ををりにををり うぐひすの なくわがしまぞ やまずかよはせ
・・・・・・・・・・・
春が来て
枝もたわわな梅の花に
鶯が鳴く我が家の庭で
風流を楽しみましょうよ
途切れることなくお出でくださいませ
・・・・・・・・・・・
* 「ををり」は、花が多く咲いて枝のたわむこと。

葛井広成(ふじいひろなり);
最初、白猪史(しらいのふひと)広成という名前で登場します。養老3年(719)7月21日に遣新羅使に任ぜられています。翌年、姓を葛井連(ふじいのむらじ)に改めたようです。その後いくつかの記事の後、天平20年(748)8月21日には、聖武天皇が葛井連広成の家に行幸され、群臣を招いて酒宴を催し、その晩は宿泊されています。
 この行幸は、広成の家というよりも、自らの勅願寺である葛井寺への参拝ではないでしょうか。
とにかく葛井寺が草創された時期に、広成が葛井氏の中心人物であったことは確かです。

河内国は古くから文化が開け、飛鳥時代から奈良時代にかけて、百済系の渡来人が定住、発展した。百済の王族、王仁(わに)一族の葛井(ふじい)氏も河内に住み、建立した氏寺が葛井寺の始まりと考えられ、境内には古代の塔跡礎石が現存する。
 縁起によると、稽文会(けいぶんえ)、稽首勲(けいしゅくん)の父子に、聖武天皇が脱活乾漆造の千手観音の造像を命じ、行基菩薩を導師として、神亀2年(725)3月18日に開眼法要が行われた。このとき、勅使をつとめたのは藤原房前(ふじわらのふささき)である。
 大同元年(806)には阿保(あぼ)親王(平城天皇の皇子)が勅命で伽藍の整備をし、ついでその子の歌人、在原業平は奥の院を造営してしばらく住んでいたという。


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