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万葉集コミュの万葉集・978

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6 978;雑歌,作者:山上憶良、辞世,大夫,天平5年

[題詞]山上臣憶良沈痾之時歌一首

士也母  空應有  萬代尓  語續可  名者不立之而

士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして
 
をのこやも むなしくあるべき よろづよに かたりつぐべき なはたてずして

[左注]右一首山上憶良臣沈痾之時 藤原<朝>臣八束使河邊朝臣東人 令問所疾之状 於是憶良臣報語已畢 有須拭涕悲嘆口吟此歌
(山上憶良が重病となった時、藤原朝臣八束が河辺朝臣東人を使者として容態を尋ねに来させた。憶良は返事を終え、しばらくして涙をぬぐい、悲しみ嘆いて、この歌を口ずさんだ)

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男子たるものこのまま無駄に世を去ってよいものか

いつの代までも語り継がれるほどの名声をあげもしないで
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* 憶良は大伴旅人に後れて奈良に帰京し、天平5年、74歳で没したと推定されている。この歌は天平5年の作、つまり彼の死の直前の歌。
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 <以下「いろは」の暗号「山上憶良」より記事転載>
http://www.geocities.jp/yasuko8787/z143.htm

「名は立てずして」の意味

倭国が従来の「倭」という呼ぴ名を拒否して、中国に対し自ら「日本」と名乗ったときの遣唐使の一員=山上憶良の名が、字母歌に暗号として組み込まれている。そのことと、憶良の絶唱として知られる次の歌は、何の関係もないであろうか。

  山上臣憶良の痾に沈みし時の歌一首
士やも 空しくあるぺき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして
 (巻6、978)

右の一首は山上臣憶良が重病におちいった時に、藤原朝臣八束が河辺朝臣東人を遣わして病状を見舞わせた。そこで憶良臣は返礼の言葉を述ぺおえ、ややあってて涙をふき悲しみ嘆いて、この歌を口ずさんだ。
(『万葉集』全訳注原文付 中西進著 講談社)


この歌は、733年(天平5)、憶良74歳のときの作である。
考えてみると不思議な気がする。
74歳の老人が、病気見舞の使者の前で、涙ながらに口ずさんだこの歌が、名声が得られなかった我が身を嘆き悲しんだ歌だと解釈されているのである。

74歳にもなりながら、憶良はなお名誉欲の亡者だったというのであろうか。
『万葉集』にある憶良の他の作品を見れば、それとは正反対の答が出てくるはずである。
この歌には、従来の解釈とは全く別の意味があるのではなかろうか。

真の史官は、真実を記録するために死を恐れてはならない。けれども、自己の使命を全うするためには、死にまさる恥辱に耐えて生き永らえなければならないときもある。前漢の歴史家=司馬遷は、無実の罪で死刑を宣告されたとき、宮刑(男性としての機能を奪う刑)を選び、死よりも苦痛な生き恥をさらしながら、人間の真実の姿を伝える『史記』を完成させた。

史官はこうであらねばならない。それにもかかわらず、史官稗田阿礼の後身である憶良は、かつて自ら倭王の名を抹殺してしまう修史事業に従事したのである。憶良は士でも真の史官でもなかったのだろうか。

もしそうなら、字母歌の暗号が憶良の名を示したりしないはずである。

すると、溢れる涙を拭って、「士やも空しくあるべき」と強い口調で歌う憶良は、国号を日本と改める際、倭王の名を歴史から抹殺してしまったことに対する自責の念に駆られて、そのままでは死んでも死にきれない気持ちを味わっていたのではなかろうか。

そこで、「名を立てず」を「名を伏せる」という意味に取れぱ、「士やも」歌は、男子たるものが空しく朽ちはててしまってよいものだろうか。万代にも語り継がれるような立派な(倭王の)名を伏せたままにして。
と解釈できる。

「記紀」がその名を抹殺してしまったために、今日の日本がある上で倭王の果した役割がどれだけ大きかったかを我々は痛切に感じない。

だが、その業績は、巨大古墳が示唆する通り、万代に語り継ぐべきものだったのである。
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士(おのこ)やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして



が、「男子=士(おのこ)」「伏せ→立てず」とともにクローズアップされることになります。

中西進氏は「万葉集入門 その歴史と文学」で、この歌について、次のように解説しています。

この一首は、後々万代に語り継がれるような名声も立てずに、士たるものは空しく死んでいってよいはずはない、という意味である。
憶良は藤原八束(やつか)が見舞いに遣わした河辺朝臣東人(あずまひと)に向って、八束への返事を述べ、「須(しばらく)ありて涕(なみだ)を拭ひ悲しび嘆きて、この歌を口吟(うた)へり」という。

もはや死を覚悟した憶良の「須ありて」という、しばらくの沈黙は、、その生涯への回想の無限の感慨を物語っているが、その物思いの後に口吟した一首であれば、これは空しく死んでいく士われへの、悔恨の一首だったであろう。

しかし、暗号という観点に立てば、「口吟=口遊(くちずさみ)」なので、この歌の作者は憶良ではなく、「口遊」の著者=源為憲らということになりそうです。

そうなると、歌の意味も変わり、古事記と日本書紀(古日・記紀)において、倭王の名を伏せたこと、すなわち、万代に語り継ぐべき名を伏せたことに対する悔恨の歌ということになります。

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